竹中 直人 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 どうやら(ムサ美よりも)多摩美指向が強くなったのは、浪人の時期からである

 1980年度のように試験日が重ならない限り、
両学を受験して両学とも合格することは出来ても、所詮両学に入学することはデキナイ
横浜YMCA予備校に通うのも2年めで昼間部となり、その選択こそ受験生最大の話題だった

 ただ、ぼくはその時点でもまだ、グラフィック・デザイナーなどという職業については、
就きたいとか就きたくない以前に、いったいどんな仕事なのか知りもしなかったし、
何故かあんまし興味すら持っていなかった(笑)

(この話しは以前にも記したような気もするけど)KISSのジーン・シモンズと、
世界的なギターのピック・アップ製造メーカーDiMarzio社のラリー・ディマジオは、
高校の同級生で、ジーン・シモンズは“おれは世界一ビッグなバンドを演りてえんだ”、
ラリー・ディマジオは“おれはギターのすげーピック・アップを創りてえ”などと、
お互いの将来の夢を語り合いつつ、それでいてお互いにお互いの夢を、
“だせえこと考えているな”と腹の底でバカにし合っていたらしい(笑)

 予備校でも“ああ、多摩美に入りてえ”とか“おれはムサ美だなあ”とか、
“将来はグラフィックの仕事がしてえんだ”などと云ってるやつもいた反面、
大学に入りたいから絵を描くなんて、そもそも不純じゃないだろうか?などという、
至って純朴な疑問を掲げているやつもいた
 ぼくはそんな彼らに対して、“だせえこと考えているな”・・(笑)

 こーいうもんを記していると、記している時代が結構明白に甦ってくるものである

 多摩美術大学卒なんていう学歴は、いま現在とりたててさほど意味も効果もなく、
卒業して満20年も経過しようとしているのだから、忘れていたに近いものの、
こうして想い返してみると、それはどうやらモラトリアムの時期だったように思われる
 ぼくはそのとき何になりたかったのか?何をしたかったのか?

 正直に云えば、それこそそのジーン・シモンズのようなミュージシャンだった

 さすがに闇雲に目指していたリッチー・ブラックモアは自然消滅していたものの、
この頃には左利きのベーシストとして(ポール・マッカートニー役として)、
重宝(ちやほや)されていたことや、そのお陰で唄も少し唄えるようになっていた
(「雷神」や「R&R ALL NITE」はいまでもベースを弾きながら唄えます・笑)
 だが、そーいうおもしろそうな仕事に就くには何の下積みも基盤もコネもない・・
また、本当にそんな職業選択をしていいのかどうかという疑問も当然あった

 当時、武蔵野美術大学と云えば黒鉄 ヒロシ、
多摩美術大学と云えば松任谷 由実(在学時や卒業時は当然まだ荒井 由実)という、
両学を卒業した著名人ふたりのイメージが非常に強くあった

 ところが、このおふたりをそのまま両学のイメージに直結させたとしても、
実は意外にもそれほど無理がないことは、やがてぼく自身が多摩美術大学に進学し、
2年後、武蔵野美術短大に進学した妹の通学事情から同学の隣にあったアパートに住み、
両学の学生や両学そのものを見比べて知ることになる

 黒鉄 ヒロシはその少し前からTV番組“巨泉のクイズ・ダービー”に出演していて、
既に全国的に名まえと顔が売れているタレント稼業のイメージが強かったものの、
その渦中でさえ、本職であるまんが家稼業は平行して続行されていた
 それが(当時の)武蔵野美術大学なのだ
いまはどうだか知らないけど、1980年代の同学の学生は質実剛健で素朴でありながらも、
皆、心から本当に造形芸術に徹した真面目なやつが多かった

 一方、多摩美術大学出身の松任谷 由実は、同学の中でも超難関で超難解な、
日本画科を卒業しているというのに、日本画なんか描いているんかいな?(笑)
あれは顔料を付着させるニカワをぐつぐつ煮たり、手間と時間がかかる作業なのだが・・
 かと云って、まだ荒井 由実だった多摩美術大学在籍時代の彼女は、
ひま潰しにただぷらぷら遊びに通っていたわけでもないらしく、
その頃、既に現在のご亭主である松任谷 正隆を始め、現在の日本を代表する、
ミュージシャンたちと親交を深めて、現在の創作活動の基盤を創り始めていたりする
(だいたい「中央フリーウェイ」なんか、在学時に書いたんじゃないか?)
要するに彼女もモラトリアム期間としての美大生活であり日本画だったのだろう

 その大先輩に負けず劣らず、
造形芸術に限らない可能性を模索している学生が多かったためか、芸術祭(学園祭)でも、
クラブ活動でも、バンド活動でも、またバイクなどの個々の学生の趣味でも、
多摩美のほうがどれもこれも圧倒的に盛んであり、また本格的でもあった

 ぼくが大学時代に在籍していた拳闘部も多摩美のほうが圧倒的に強かった
その頃、ムサ美のボクシング部のマネージャーを務めていたのが城戸 真亜子だったが、
油絵科出身の彼女は現在でも立派に創作活動を続けているでしょ?
 また、現在ぼくのところに個展の告知ハガキをくれるのも何故かムサ美の出身者が多い

 元々ヘンなやつが多い多摩美術大学だけど、極めつけは竹中 直人だろう

 1980年11月の始め、ぼくは予備校の仲間6人と連れ立って、
翌年も受験する大学の下見にくそ寒い八王子の山中にある同学を訪れた
(実は下見は口実でメインはその晩に行われるRC SUCCESSIONのライヴだった)

 キャンパスに到着するや否や、
前方から極めてあやしい、極めてヘンなやつがのっしのっしと歩いて来る
汚ったない合わせの和服と袴姿で、あたまはチョンマゲ、腰には長い刀を2本差している
印象としてもの凄く長身に見えた記憶があるのは、たぶん高下駄のせいだろう
 そんな当時の竹中 直人の姿をご想像されるのにそれほどのご苦労はあるまい
いまみたいな、あんな感じ・・ 1980年当時から、いまみたいな、あんな感じ(笑)

“やあやあキミタチ、キミタチは来年のタマビの受験生かな?”
“は、はい・・”
“受かりたい?”
“は、はい・・”

“だったら、この映画を観るべしっ!”

 あの独特の太い声や喋りかたも、いまみたいな、あんな感じ(笑)

“でもう・・、(学生の作品の)展示とかも観たいし・・”
“展示? そんなもん観たって受からないやつは受からないよ~ん
でも、この映画を観たやつは絶対に受かるっ!”

 そんな言葉を信用したわけではもちろんないが、何故か圧倒されて会場に入った
そこはキャパ100ぐらいの中規模な階段教室だったが、観客はぼくたち7名だけ(笑)
ちなみに映写機の操作はもちろん、室内の照明の点けたり消したりも、
竹中 直人ご本人がたったおひとりでやっていたような・・(笑)

 映画の内容は、山中(あとで知ったが大学の裏山・笑)で山賊に襲われた旅の女人を、
竹中 直人が扮する正義の侍が現れて、ただ助けるだけという単純未満のストーリーで、
上映時間も全部で10分ぐらいしかなかったような・・(笑)
 なのに、

“ねえねえキミタチ、どうだった?
素晴らしかった?
ねえねえいったいどのへんにカンドウした?
次回作の参考のために教えてよ・・
もう1回観る?”

 などなどとしつこい・・(笑)

 だが、まじな話し、ぼくは結構感動していた
って云うか、心から嬉しくてたまらない気持ちだった、その大先輩のバカさ加減に・・
だって、まるっきしジーン・シモンズみたいじゃんか!
“すげえな!やっぱしここしかないな!”と決意したのはこのときからである
(ただし、竹中 直人は4学年上のため、ぼくとは入れ替わりで卒業)
ちなみにその映画を観た7人のうち、1名は既に美大生(女子美)だったが、
残る6名の受験生の中で、翌年同学に合格したのはぼくだけだった(笑)

 その日に多摩美に決めた感動はもうひとつある
RC SUCCESSIONのライヴが始まるまでにはまだ大分時間があったため、
グラフィック・デザイン科の学生の作品を観て廻っていたときのこと

“どれも大したことねーな”

 はっきし云って、絵を描くだけなら既に合格してしまっている美大生なんかよりも、
死に物狂いで受験生活を送っている受験生のほうが遙かに上手いことは上手い
だが、そんな中にウルトラ警備隊の制服やヘルメットはもちろん、
あの無線機にもなるバッチまでこと細かく、こと精密に描かれた、
そのモロボシ ダンの(たぶんアクリル絵の具に依る)肖像画があった
 ちなみにこの当時、DVDはもちろんビデオすら一般的には普及していない

“何考えてんだ?これ描いたやつ・・”
“こんなもん、こんなに一生懸命描くほどのことかよう?”
“ばっかじゃねーの”
“ほんと、いい加減な大学だな”

 などと、皆んな口々にけなしてはいたものの、その絵には7人の脚を止めてしまう、
強烈なインパクトがあったことだけは確かで、それこそが美大生の実力だった
即ち、描くことから始めるのは受験生、何を見せるか考えることから始めるのが美大生・・
実際に数10点にも及ぶ展示物をことごとく観て廻って来たというのに、
後日まで長くぼくたちの印象や話題に残っていたのは、そのモロボシ ダンだけだった

 翌1981年2月、今度は東京芸術大学美術学部デザイン科と、
多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィック・デザイン専攻の2学2科に加えて、
幸いその年は試験日が重ならなかった武蔵野美術大学の視覚伝達デザイン、
東京造形大学のグラフィック・デザイン、さらに多摩美の染色デザイン、
ムサ美の日本画などなど、試験日が重ならない限り受験しまくった結果、
毎日毎日どこかしらの試験に出掛けて行く羽目になった
 通常の大学の筆記試験と異なり、芸大/美大はどの大学でも実技試験があるため、
画材を詰め込んだ筆洗用の大きなバケツをぶら下げて、毎日毎日ご苦労だったものである

 ちなみに多摩美の染色(主にアパレル・デザイン系)やムサ美の日本画など、
本来の志望であるグラフィック・デザインとは異なる学科の受験は、
実技試験が鉛筆淡彩(鉛筆デッサンに透明水彩絵の具で着彩)だったためである
鉛筆淡彩は東京芸大を始め、どこのグラフィック・デザインでも必ず出題されていて、
またぼくにしてみれば比較的得意な実技でもあった
 高校時代、受験科目に依って例えば経済学部と文学部の両方を受験する級友に対して、
“おめーのやりたいことはいったい何なんだよー?”などと陰でせせら笑っていたことを、
自らも芸大/美大受験版で実践してしまったわけなんだけどね

 で、多摩美術大学美術学部デザイン科グラフィック・デザイン専攻に入学して、
結局そこでも1年余分に費やして5年掛かったものの卒業もしたし教職課程も修了した
同学への動機は松任谷 由実であったり竹中 直人であったりもしたものの、
さらにロックが盛んであったり、ウケ狙い的なおもしろい校風からであり、
実はデザイン教育とか、どんな指導者がいるとか、卒業生の就職先などに関しては、
まったく関係がナイと云うか、現在でもまったく知らナイ(笑)

 ただ、ぼくにはとても合っていた、いい大学だった


※文中敬称略