(故)三井 正登画伯 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 英国からモスクワ経由で帰国すると、キャンディーズのファイナル・コンサートが、
後楽園球場であり、KISSの2年連続2回めの来日公演が日本武道館であった
 ぼくは高校2年に進級し、そろそろ具体的な進路を発表しなければならない時期となる

“芸大(の美術学部)に行く”

 親にはそう云った
はっきし云って、ガキの時分から絵を描くことは好きだったし上手かった
特に描かれた当人以外には大変喜ばれる似顔絵は、いまでもかなり自信があったりする(笑)
また、パリのルーブルで観て来たばかりの『ナポレオンの載冠』の感動も確かにあった
(あの絵は中学の美術の教科書などで見るとハガキぐらいの大きさに過ぎないけど、
実際には畳6畳ぶんぐらいあるばかでかい絵で、1mぐらいの至近距離からでは、
絵の具の点の集まり以外は、いったい何が描かれているのかワカラナイ・・笑)

 だが、母親の心配は絵が描けるとか、描けないとか、そんなことではないのだ
そんなんで就職はあるんか?喰っていけるんか?という将来的な不安である
 父親は“おーしっ!やったれいっ”と、かなり楽しそうだったけど

 時は経て28年後、母親の不安のほうが的中することになる
“ごめんねえ・・ あのときに私(母親)が、
もっとお父さんを説得していればねえ・・”などと嘆かれている不始末である
だが現在、千葉銀行の調べに依る40代の平均貯蓄額とぼくのそれに、
次元を超えた大きな開きがあるのは、美大を卒業したこととは直接関係がないだろう

 ともあれ“受験”となれば、母親の出番である

 高校のクラスは音楽/美術/書道と3つある芸術選択科目のうちの美術クラスだった
大方の生徒は入学時に、受験勉強に差し障りの少ない音楽クラスを志望したものだったが、
ぼくはそういう考えかたそのものが嫌いだった
音楽を学びたいやつは音楽、美術を学びたいやつは美術を選択するのが妥当だろう?
つまり、その時点で既に脱落していたわけだね、ぼくは(笑)

 その3年間の美術の授業で、少なくても手を抜いた作品はひとつもない
特に卒業制作に該当する高校3年次の最終自由課題で提出した、
『THE VERY BEST OF(JAKE E. SUZUKI)』は、生涯の中でも特にお気に入りの作品だ
それは中学と高校の授業中に教科書やノートに描いてきた落書きを1点1点切り抜いて、
1冊の写真用アルバムにまとめたもので、何とも膨大な制作時間が注ぎ込まれている!(笑)
 やがて、そのテのアイデアは多摩美術大学に進学して、咽原 省三教授の、
“INTERNATIONAL COMMUNICATION DESIGN”を選択して開花する(?)ことになる

 だが、この時点で漠然とやりたかったのは『ナポレオンの載冠』やクールベの『波』、
或いはルーベンスの幾多の宗教絵画(?)のような写実的な油絵だった

(厳密に云えば、本当にやりたかったのはロック・ミュージックだったが、
この時点ではまだ1曲の自作曲もなく、またドラマーやヴォーカリストとしてはもちろん、
ギタリストとして演っていける自信も毛頭なかったがための美術選択でもあった)

 だが、それまでに油絵というものを1枚も描いたことがない
横須賀市衣笠栄町の商店街に父親が行き付けにしていた早野書店という本屋があり、
その2階で国画会の会員が油絵教室を開いている、とのことでそこに入門することにした
その情報は本屋だけではなく、油絵教室の展覧会などにも顔を出していた父親からだった
ちなみに(母親曰く)花鳥風月に長けていた父親は、絵(水彩画)も描くし、
オルガンも弾くし、ソフトボールもやっていたし、郷土史を編纂したりもしている

 その衣笠洋画研究所の(故)三井 正登画伯こそ、最初で最大の師匠である

 当時、同研究所は本格的な洋画研究所としては元より、芸大/美大受験予備校としても、
特に目立った実績もなく、時間と若干の金銭的な余裕があるおじさんやおばさんたちが、
集まって来ては趣味の絵画を嗜む場所、などと評判されていた
 実際にこの1年後、芸大/美大受験の相談に高校の美術科の青木先生を訪ねたところ、
“真剣に考えているんだったら、あんなところで老人たちと遊んでる余裕はないはずだ”、
とまで云われたくらい・・

 確かにその通りだったかも知れない
芸大/美大受験にもそれなりの受験テクニックというものがあり、それはこの1年後から、
さらに浪人にかけての計2年間に横浜のYMCA予備校で伝授されることになる
だが、三井画伯から教わったものは、そんな2年程度で身に着くつまらないものではなく、
出会えなければ一生出会えないレベルの稀少な価値観だった

 画伯は常にループ・タイを巻いていた
ループ・タイなんか老人のオシャレとして昨今では珍しくも何ともないものだが、
1978年にはまだ、いくら横浜や町田に較べればオシャレな街、横須賀でも、
それはオシャレの域を越えて奇人の部類に引っかかりそうな出で立ちだった(笑)
喋りかたもオーバーなジェスチャー付きで、外人みたいだったし・・

 研究所には、画伯が両手の平を前方に向けて“ブレーキ・タイム”と呼んでいた、
画伯夫妻が門下生たちに紅茶を振る舞う時間が毎日必ず1回は設定されていた
“ああ、そんなにがつがつしたって描けナイものは描けやシナイ・・
まずは休みましょう・・ 休むことも大切だ”などと、のたまわりつつ(笑)
 もちろん通常の大学受験生同様、芸大/美大受験生にも1分1秒が大切ではある
だが、その受験準備に於いて磨いておくべき箇所が大きく異なるため、
いま思うと、あながち三井画伯の受験指導が間違っていたとは云いきれないし、
また、創作中に於ける休息が功を奏す場合もこの世界では決して少なくない

 ぼくはむしろこの研究所が気に入っていた
その数週間前にわずか2週間ながら観て来たパリ、ロンドン、オックスフォードに較べて、
日本は何処かがつがつがつがつしていて、無駄もないけど余裕がない印象が強かった
いや、それに対して無駄だとか余裕だとか論ずること自体が既に矛盾しているんだけど、
師は本来洋画を取り巻いていた環境そのものを伝授してくれたような・・

 師はときどき、アトリエの中をうろつきつつ、
“ああ、何て素晴らしい人生なんだろう! 我々には絵が描けるんです!”などと、
まるで'70年代の全共党世代のまんがとか下北沢辺りの芝居のセリフのような戯言を、
やはりオーバーなジェスチャーを交えてのたまわったものだが、
実はそこにこそ真髄みたいなものが集約されているような気がする
 即ち、何のために絵を描くのか?

 師にはたったひとつだけ実際の画法(テクニック)も教わった

 ある日、油絵で描いていた人形の目玉の丸みを描けずに苦心していたところ、
画伯が“どれどれ、人形の目玉が描けないのかい?”などと寄ってきて、
“では、教えてやろう”と、ぼくに代わってぼくの席に着き、ぼくの絵筆を手にすると、
“いいかい?よく見てろよ、人形の目玉はだな・・ こうして・・ こう・・ ほら、
まあるくなあれ、まあるくなあれと、思いながら描けばそれでよい・・
どうだい?ほら!丸くなっただろう!?”

 笑い話ではない
念じれば通ずではないが、絵画の世界は答えがない感覚の世界なのである
師が教えてくれたことは即ち、感覚で描け、ということだったのだ

 現在でも月刊『YMM Player MAGAZINE』誌の表紙にある“Player”というロゴは、
1990年にぼくがロットリング・ペンと雲形定規を使って手描きで描いたものである
P、l、a、y、e、rの6文字の一文字一文字に含まれている種々雑多な(複合)曲線を、
まあるくなあれ、まあるくなあれ”と念じつつ・・
 何しろどんな線が描ければ正解とか合格の基準がない仕事なのだから、
自分で“これなら大半のひとが観て不格好に思うことはないだろう”というレベルまで、
試行錯誤を繰り返すしか方法がなく、その辿り着く速さがデザイナーの力量となる
 そのロゴはのちにAdobe Illustratorのベジェ曲線を使って、
それもぼくがデジタル・データ化したが、コンピューター・ソフトと云っても、
Illustratorのベジェ曲線は使用者の感覚なしで扱えるシロモノではない

 画家としての師匠の評判も特に芳しいものではなく、
“行ったこともない外国の景色を飽きもせずに描き続けている脳天気な画家”だった
だが、絵画の世界に行ったことのあるなしなんか特に何の意味もない
だったら心象風景はどうなるんだ?魂だけは行ったことがある、とでも云うのか?
何か、それこそ凄く日本人っぽい屁理屈をこねているような・・

 三井画伯はアトリエの一角に専用のイーゼル(画架)を置き、絵画教室の傍ら、
常に自分の作品の制作に取り組んでいた
キャンバスの大きさ(号数)は忘れてしまったが、新聞紙2枚ぶんぐらいのものを、
少なくても年に2~3点は描いていたから、決して少なくはない仕事量である
 その姿を見る度にぼくたちは“いいなあ”と思っていた
もちろん、絵を描き続けていられていいなあ、である
 その画風は常に淡い色を基調にした、俗っぽく云えばメルヘンチックなのだが、
明るいんだけど明る過ぎず、何よりも優しい心持ちを想い起こさせる絵だった

 だいたい、その絵に向かっているときは、
“ブレーキ・タイム”だとか“ああ、何て素晴らしい人生~”なんて云ってるときとは、
明らかに違った顔つきをしていたしね

 師から学んだことは数多く、それは今日でも脈々と生き続けている