東京タワー | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 
 1978年3月、約2週間の行程でパリ、ロンドン、オックスフォードを観てきた

 もっともまじな意味で芸大/美大進学志望を決定付けたのは、まさにこの旅行であり、
また、このときからぼくは云わゆる普通の一般的な日本人ではなくなってしまった(笑)
それは美術とかグラフィック・デザインだけではなく音楽に対してもまた然りである
 この旅行に関して記しておきたいことは数多くあるものの、それはまあ、
そのうち『JAKE E. SUZUKI EUROPEAN TOUR '78』などと題してまた後日・・

 UNESCO主催のこの“海外語学研修旅行”には、何故か父親が無性に行かせたがった
うちでは例えば高校受験など実質的で具体的な教育(というもの)は母親の領分だった
父親は小学校の教師だったが、教科そのものを教わったことはまったくなく、
“おれはおまえの父親ではあるが、おまえの教師ではナイ・・
教えるのはおまえの教師であり、おれではナイ”などという屁理屈を常にこまねいていた

 だが、もっと広義な意味で真の教育者だった
例えば“平家と源氏は元々味方だったの?”などと訊くと、正解は云わないで、
“それが知りたかったら『源平盛衰記』とか『保元・平治の乱』でも読んでみるんだな”、
などといった具合い・・
自分で調べてみることや考えてみることの必要性や重要性を諭し、
ガキの時分から年齢に合った百科事典や辞典などを取り揃えてくれたりもしていた

 また、スポーツとか絵画とか、学科以外の造詣を育んでくれたのも父親である
この旅行への参加もその教育方針の一環とも思われるものの、
何しろAB型故にいったい何を考えていたのか、突き詰めたところはわからん(笑)
ただ、ぼく自身が“行きたい”と切望していたわけではなかったことは確かである
 この旅行はUNESCO主催故に渡航費用が幾分リーズナブルになってはいたものの、
それでも総額で100万近く散財した!といまでも母親を嘆かせている(笑)
だが、その母親を父親が“どうしても行かせてやりてえ!”と強く説得して実現した
その真意はやはり定かではないものの、当時はまだそれほどポピュラーではなかった、
16歳の息子を外国に派遣することに、幕末の少年使節団でも想い描いていたのだろうか?
 やがてそれが大いに功を奏するのだけれども・・

 そのときにぼくが観て来たのはヨーロッパの造形的な底力だった

 非常にわかりやすい例をひとつ挙げておこう
それまでぼくたちに施されてきた教育をそのまま鵜呑みにしていれば、
当時、高さ333mの東京タワーは高さ321mのエッフェル塔を軽く凌いで世界一・・
といったところだったように思われる
だが、それは“高さ”という数値だけのハナシに過ぎないことを、
案外多くの日本人は知らないでいて、そのまま死んでいたりする(笑)

 もし、パリを訪れることがあったらエッフェル塔に行き、上りはエレベーターでも、
下りは(30分ぐらいかかったと思うけど)徒歩で内部の階段を下ることをオススメしよう
パリ市内のどこから観ても美しく見えるように建造されたと云われるあの塔は、
そこもまた当然パリ市内故に、内部から観ても実に素晴らしい
 まさに“絶妙!”といった感じ・・

 東京タワーもエッフェル塔も素材はただの鉄骨をボルトで締めただけの建造物である
だが、その鉄骨をどう組み合わせたら、もっとも美しく見えるのか?
何もエッフェル塔だけに限らず、1978年のパリやロンドンやオックスフォードは、
街そのものがそう云った必要最小限ではない部分で満ち溢れていた
即ち、橋の欄干でもただの民家の軒先でも商店のディスプレイでも人々の服装でも・・
そこには日本とはかなり異なる価値観が当たり前のように実在していた

 それもまた若き日のロマンに溢れた妄想かとも思い、この項を記す前に、
港区芝公園に立つ東京タワーをもう一度観て来たものの、やはりただの鉄塔だった
特に脚の部分はひどい・・ あれじゃあ工事現場の足場と変わりないじゃないか
あんな組み合わせかただったら、だれだって思い付くと思われる
昨今、ライトアップだの何だの、ちょございな手は加えられてはいるものの、
東京タワーを芸術品などと呼ぶには程遠く、世界一などと呼ぶにはもっと気恥ずかしい

 もちろん東京タワーには東京タワーの高さ以外の存在価値もある
その建造時の苦労話しは『人間交差点』にもあったと思うけど、
それはまさに日本の戦後の復興を象徴し、その時代を生きたひとたちの偉功でもある
だが、それはあくまでも“経済的”復興であり、父親同様、ぼくも門外漢の分野なのだ(笑)
 だから、そういうことはほかの皆さまにお任せしよう・・

 ぼくはもう少し違った価値観の中で生きたい、と思うようになった