S君 | 元祖!ジェイク鈴木回想録

元祖!ジェイク鈴木回想録

私の記憶や記録とともに〝あの頃〟にレイドバックしてみませんか?

 


 
 父方と母方にそれぞれ1人ずつ同イ歳の男の従兄弟がいた。
 
 父の妹の長男、S君は一昨年、享年41歳で、母の兄の長男、Nちゃん(※拙稿『フォレスト・ガンプ』参照)は1983年、大学(※彼は大学校)3年の春先に弱冠21歳で、2人共、既に早世してしまっている。
 
 小学校教諭生活40年の父に依れば、昭和30年代に生まれた男の子は物心がつくと、怪獣か、バスや電車等の乗り物のどちらかに強い関心と興味を示していたらしい。それは怪獣=映画産業、バスや電車=交通産業という、当時の花形産業に起因しているのだろう。プロ野球の球団(の親会社)も当時はこの2大産業系が多勢を占めていた。
 
 S君は怪獣と野球(って云うか、巨人。笑)で、主に屋外に於ける実戦派だったが、Nちゃんは屋内に於ける創造派で、プラレールやプラハイウェイ、ダイヤブロック等、私と同じ玩具を保有していて、また2人でバスの絵等を描き合ったりもした。
 従ってNちゃんとは気が合い、幼稚園も小学校も中学校も異なり、家もやや離れていたものの、小学校4年生位までは好んでお互いによく行き来したものだった。特に土日や夏休み等の長期休暇の際には。
 
 S君と好んで遊んだ憶えはないが、やれ長嶋だぁー、やれ巨人だぁー、やれウルトラマンだぁー、やれ子供会のソフトボールだぁーと、当時の私の直近を常に取り巻いていた文化は、彼なしでは語れない。
 
 何しろ誕生日も1日しか違わず、同じ町内の同じ丁目に住んでいたので、お宮参りや七五三の頃から既に一緒。鈴木家は春秋の彼岸は無論、餅突きだの凧揚げだののイヴェントも頻繁な家柄だったが故に、そのような際にも当然一緒。市だか県だかの教育委員会だか何だかに依る、双子や従兄弟を同級にしないという掟が在ったらしく、同級にこそなったことはなかったが、通っていた小学校や中学校も一緒。更に子供会やお祭り等の町内会行事まで、好む好まざるを問わずに一緒だったことは、Nちゃんよりも圧倒的に多かった。
 
 それは非常にハタ迷惑だった。
 
 同級ではなくても、比較的近所から同じ小学校に通っていたので、殆ど同じような通学路を往復する。孤独だった私は先ず大体、独りだったが、S君は常に総勢7〜8名以上の人数を擁する〝軍団〟の長に君臨していた。要するにガキ大将。本当にケンカが強かったのかどうか、後々の皆んなの疑問になったが、私自身は何度、抵抗を試みた処で、その度に数秒で組み伏せられてしまうのがオチだった。兎に角、すばしっこくて、滅法、手が速くて、運動神経がズバ抜けて優れていたことは間違いない。
 
 通学途中等でたまたま出喰わしたりすると、「おっ!?よっぺいっ!」等と云って寄って来るなり、いきなりぶつ!(笑) 〝よっぺい〟とは私の幼名でも何でもなく、S君が独自に考案して、勝手にそう呼んでいただけの私の呼称だった。
 更に続け様に私の頭や肩をバシバシ叩きながら、軍団に向かって、
 
「こいつはようっ!」(バシッ!)
「オレのオトートだからようっ!」(バシッ!バシッ!)
「こいつに逆らったら・・、」(バシッ!バシッ!バシッ!バシッ!)
「しょーちせえへんからなあっ!」(バシッ!バシッ!バシッ!バシッ!)
 
 痛え!っつうの!!! 何で、私が叩かれなければならん。確かに私のほうが誕生日が1日遅い〝従兄弟〟ではあるけれども、それは〝兄弟〟じゃないし、あんたの軍団の杯を頂戴した憶えもねー!
 
 昨年、他界した彼の父親は大阪府出身のちゃきちゃきの関西人だったため、彼にも横須賀人には珍しい関西人のノリがあって、それこそパワーの源だった。何しろ、早口の関西弁でマシンガンのように喋り(罵り)まくる上に、休みなく手が飛んでくるため、廻りは文句を云うヒマさえないのだ。
 
 誰かが何か失敗すると、それが軍団員であれ非軍団員であれ、大好きな罵り言葉「ちょべーよ!」が炸裂する。例えば、道端で犬のうんこを踏んだ時とか、草野球でエラーや三振をした時とか、怪獣の名前や巨人の選手の背番号を間違えた時とか!
 
 夏休みのラジオ体操の帰り途・・、そういう時に否が応でも一緒になるのだが、
「おい!よっぺい! おめーも『巨人の星』観てるよなっ!?」
 本当はあんまし好きじゃなくて『宇宙猿人ゴリ〜スペクトルマン』を観ていたが、「観てない。」等と応えれば「ちょべーよ!」が飛んでくるのが眼に見えていたので、
「観てる。」と答えると、
「じゃあ!星 飛雄馬の背番号は何番だっ!?」
 弟が持っていたパズルの絵柄を懸命に思い出しつつ、
「じゅ・・、13。」と答えると、
「じゅーさんっ!? ちょ!ちょ!ちょ!ちょ!ちょべーよ!おめーっ!」
 
 2人だけで歩いているワケではない。年長者は皆無だったものの、同学年から下、総勢10名以上の大軍団の中である。彼は「おい、訊いたか?」とばかりに軍団を見廻すと、副長格の〝みちる〟を筆頭とした軍団の一斉集中砲火が始まる。
 
「ちょべーよ!おめーっ!」
「ちょべー!ちょべー!」
「ちょべーよ!ちょべー!ちょべー!」
〝みちる〟は同学年だが、彼以外は全員、年下の連中から罵倒される屈辱感を厭が応にも味合わされるワケだ。
 
 先ず大体、〝ちょべー〟って一体、何なんだ?(笑)
 
 マヌケを意味する〝とろい〟から変化した〝ちょろい〟までだったら、少なくても当時の横須賀市立坂本小学校内では一般的に使われていて、それが〝ちょれー〟に活用されることもあった。
 坂本町は6丁目まであって、各丁目毎に奥深い谷戸を形成していて、市の産業的な発展に伴う宅地造成の時期に依って、各丁目独自の言語文化が存在していた。例えば〝兄さん〟は、頭の〝に〟にアクセントがあるのが普通だが、3丁目だけは何故か〝い〟にあって、〝ちょれー〟もまた主に3丁目以東で使われていた。
 我が5丁目は元々三浦郡衣笠村だったが故に〝ちょれー〟の〝れー〟が、SMAPの中居君に依って既に全国的に有名な(?笑)〝べー〟に変化したのか?
 否、否、否、否、〝よっぺい〟同様、S君独自の考案で、〝とろい〟→〝ちょろい〟→〝ちょれー〟→〝ちょべー〟かと。
 どーだっていいものの、彼は仲間内の言語さえ司っていたワケだ。
 
 彼と彼の軍団の愉しみは、他人の失敗を見つけては激しく罵ることだった。今やイジメだの何だのと、事を大袈裟に報じられているが、1970年代の横須賀市坂本町では、ンなもん日常茶飯事と云うか、それそのものが遊びだった。今の子供達はその遊びに慣れていないばかりに手加減を知らず、エスカレートし過ぎた上で悲劇を巻き起こしてしまっているような気もするが、私達は既にその社会を形成している有責の世代なんだよな・・。
 
 最も〝ちょべー〟のは学校(の便所)でうんこをすることだった。
 
 ンなこたぁ、どこの小学校でも誰の想い出にもありそうだが、彼の軍団の迫害や罵倒の仕方は如何せん異常であり、度を超していた。それもまた彼の軍団員、非軍団員問わず、学校でうんこしているやつを発見したら直ぐにS君に報告!絶対に報告!
 以後、少なくても数ヶ月間は、更にそれもまた当然、軍団員、非軍団員問わず、大袈裟に云えば学校中の皆んなから、「こいつ!学校でうんこしてやんの!」と、いう罵声を浴びせ続けられるシステムが確立されていた。
 
 学校で誰かがうんこをしている〝機会〟が発覚すると、彼の軍団は学年もクラスもまちまちながら、驚くべき速さでその現場(の便所)に集結! S君は常に先頭に立って犯人(?笑)を見極めるのが常に任務だった。率先して大便用の個室の扉を激しく蹴りながら、
「おいっ!だれだっ!?てめえっ!」(ドカッ!)
「学校でくそしてんじゃねえぞっ!」(ドカッ!ドカッ!ドカッ!ドカッ!)
 軍団員たちもそれに続いて、ドカッ!ドカッ!ドカッ!ドカッ!
 
「だれだ?こいつ・・。でっけえ上履きだな。」
 
 ある日、強襲に参加していた(させられていた?)私も一緒に、個室の扉の下の僅かな隙間から覗いてみると、確かに見えている上履きがやたらとデカイ・・。
「イリエじゃねーか?」とS君が推測するものの、
「俺はここにいるじゃんかよう・・。」と、確かに身体が大きかったイリエ君も強襲に参加して(させられて?)いて、その大集団の中にいる・・。
 
 この頃になると、彼の圧政が功を奏して(?笑)、学校でうんこする者など先ず滅多に出現しなくなってしまっていたため、このような機会は滅多にない絶好の機会中の機会だった。軍団は元より、学年やクラスの隔たりさえ越えたビッグ・イヴェントとしてヒート・アップしていた。
 S君も私も立ち上がって見廻して見ると、でっかい上履きを履いていそうな何人かも既に皆んなそこに集結している・・。便所内に入りきれず、廊下で背伸びをして固唾を吞んで見守る下級生達も大勢いる・・。
 
「おかしーな・・。えーいっ!」(ドカッ!ドカッ!)
「おいっ!だれだっ!?てめえっ!」(ドカッ!ドカッ!)
 
 流石は我らが総大将、鈴木家の誇り(?笑)S君だ。単独で個室の扉を激しく蹴りまくる。
 
「学校でくそしてんじゃねーぞっ!」(ドカッ!ドカッ!ドカッ!ドカッ!)
「出て来いっ!?てめえっ!」(ドカッ!ドカッ!ドカッ!ドカッ!)
 
 しばらくして水を流す音がして、扉を開けて出てきたのは、私も小2の殆どと小3の時に担任を受け持って戴いていたI先生だった。
 
「何だっ!?お前等わあっ!? 学校でくそして何が悪いのかあっ!? こんなに沢山集まって! バカか!?お前等わあっ!? 他にやることはないのかあっ!?」
 
「まずい!」
「逃げろ!」
「わーい!」
「ひえー!」
 
 それこそ蹴散らされる蜂の子のように我先に逃げ去って行く私達・・。楽しかったなあ・・。(笑)
 
 こんな〝イヴェント〟が小学校4年生だった昭和46年(1971年)位まで〝愉しまれ〟続けていたのだから、転校してきたH(※拙稿 ロッテ・オリオンズ・その1/2参照)に「お前等全員バカ。」と罵られても至極当然だろう。(笑)
 
 因みにそのHとS君は小学校4年次に同級で、Hは更に「お前(※私)の従兄弟こそバカの親玉。」とまで云っていたが、S君もS君で、鈴木家の墓参りか何かの際に「転校生が2人来てよー。Tは賢いが、Hはバカだから気を付けろ。」と云っていた。
 お互いにバカ、バカ蔑み合って少年達は育ってきたが、要するに、その時に各自が持っていた価値観が大幅に異なる他者は皆、バカだったのだろう。
 
 高校以降は会ったとしても法事の時位だったが、祖母の葬儀の香典返しの準備には、総勢12名も居た従兄弟連中を取り仕切って、その生まれながらのリーダー・シップを垣間見せてくれたものだった。
 最後に会ったのは叔母(※父の末妹)の葬儀で、「こんな時にしか会えないなんてね。」と挨拶したら、「あと、同窓会とかね。」と云っていたのが、今、もの凄く悔やまれる。
 
 そうだ。同窓会だ。
 
 今までにたった1回だけ、卒業以来21年振りに開催された中学の同窓会だった。クラス会ではなく学年同窓会だったので、小中9年間で一度も同級になったことがなかったにも関わらず邂逅出来たのである。
 
 その3次会に何故かしつこく私を誘う。「金がない。」と断れば「貸してやるから来い。」とまで。
 
 その3次会では2人で並んで座ってよく喋った。2次会までは殆ど何も話していなかったし、そもそも、それ迄に一緒に酒を飲んだことさえ一度もなかったにも関わらず。
 彼は上機嫌だった。もの凄い早口の関西弁でまくしたて、更に昔のように私を〝よっぺい〟と呼びながら、やっぱし情け容赦なくぶつ!(笑) その手が相変わらず速いの何の!痛いの何の! 中学卒業以来21年振りなんだから、既に36〜7だぞ?年齢は。
 
 その晩の彼は昔の誰もが逆らえなかった絶対専制君主のS君そのものだった。人間、変わる部分もあれば、そのままの部分もある。小学校高学年以降は、すっかり大人しくなってしまっていた彼の復活が非常に嬉しかった。
 S君はやっぱし、こうでなくちゃ!(笑)
 
 いつの間にか、他の何人かの学友達が私達の廻りに集まって来ていて、私達にしか解らない鈴木家の昔話等にも訊き入っていたが、口を挟める余地なんぞ全くナイ。S君のべしゃりが余りにも早過ぎて。
 頃合いを見計らって、私とは幼稚園から一緒だったY子が代表して問う。
「ねえ?あんた達、漫才演ってるの?」
 
 赤の他人が漫才と訊き違える程、私達の息は合っていた。血は争えないことを実感した。遠くの親戚より近くの他人? 馬鹿を云うな。近くの他人なんぞよりも遠くの親戚だ。私の中に彼が存在していたように、彼の中にも私が居たワケで。
 そして、それは2度と味わえない、生涯で最も美味かった酒になってしまった。
 
 帰り際、Tさんという女性を「逗子まで送れ。」と云う。
 
 同窓会は横須賀中央で開催されていて、浦安から参加した私は自分の車を聖ヨゼフ病院の下の有料駐車場に入れてあった。S君は更に「よっぺいだから信用してるんだ。」とか「貸した金の事など、どうでもいいから♪」とまで。
 妙なことを云い出すなぁ、と思ったが、何しろ絶対専制君主だから逆らえん。その時には無論、既に人妻だったその女性を逗子まで送ってやった。
 
 後日、その不思議をHに話したら、
「何云ってんだよ?Tだろ? 小学校の頃、ヤツが好きだったの、Tじゃん・・。忘れちゃったの?」
 憶えてねーよ!そんなこと!いちいち!
 
 だが、それもまた凄えと思った。誰が小学校の頃に好きだった女の子の帰路を心配する? 心配したとしても実践する?行動する? S君はやっぱし凄えやつだった。考えていることが我々よりも一歩先を進んでいた。ひょっとしたら、私達は唯々虐げられていたのではなく、無意識の内に彼の背中を追っていたのかも知れん。
 
 絶対専制君主だったS君の失脚、及び軍団の崩壊は、彼自身が腹を壊して学校でうんこをしてしまったから、という伝説が長らくあったが、実際はそんな単純なことじゃないと思う。彼自身がいい加減、そんなことを愉しめるガキじゃなくなっていたのだ。
 
 町内会の子供会のクラブ活動である名門坂本5丁目子供会ソフトボール部には、私よりも1週間ほど早く入団して、小学校4年次から一塁のレギュラー・ポジションを獲得していた。充分に伸ばした右足の先でしっかりと一塁ベースを踏み、当時はファースト・ミットなんかないから、右手でグローブをしっかりと支えて、額の前で拝むような恰好で両手捕球して、判定が下るまでは絶対にその姿勢を崩さなかった。
 
 乱暴者の皮を被った非常に繊細な人間だったことを遺しておこう。
 
 
※文中敬称略
※改訂:2021年11月20日
※画像:旧横須賀市立坂本小学校(新校舎)。本文中の〝ビッグ・イヴェント〟が開催されたのは、写真中央の校舎が折れ曲がった辺りの1Fの便所。by 神奈川新聞社