フランスの新聞社が襲撃されてから2週間程経ちます。
まず、襲撃(テロ)という行動を支持する気など毛頭ありません。あの行為は卑劣きわまりないもので決して許されるものでは、ありません。
その上で。
あの襲撃事件以降、犠牲者の追悼行動やテロ行為の撲滅を訴えるとともに、「表現の自由」を訴えたりする行動が起こっている…という報道を見て、少しひっかかったことをがあります。
それは「表現の自由」という言葉を、相手に一方的に押し付けてはいないか?
ということ。
確かに、テロ行為は卑劣きわまりない行為です。繰り返しになりますが、そのような行為を支持する気など毛頭なく、決して許されるものでは、ありません。
しかしながら、その一方で「表現の自由」という大義名分の下で、特に“信仰”という生活や人生の指針・心の拠り所となるもののタブーを犯し、更には揶揄するような風刺画を世に出し続けてきた行為についても、“不問”にされることではないように思います。
もちろん「表現の自由」は大切な権利です。それを損なうことは許されるべきではありません。
でも「表現の自由」が、時にその表現の受け手に多大な痛みや苦しみを与えるものであることも事実。それゆえに、その権利を行使するときには、十分な慎重さや相手を思う気持ち、節度も必要だと思います。
何かの表現をするときには「表現の自由」と同じくらい ―場合によってはそれ以上に― 「表現の責任」ということも考えなくてはいけない。
ささやかながらも、こうしてブログというインターネット上の公共媒体を利用して文章を書いたり、音楽という手段で表現をしたりしている身として、そんなことを考えながら、あの報道を見ていました。