小学3年生くらいの頃にテレビ放映で観た、とあるアニメ映画。
子供向けにしてはずいぶんと重たいテーマだったんだな、と大人になってから思ったものだが、脚本を手掛けた故・首藤剛志氏によれば「大人にも訴えかける、そして全世界の人間が一度は抱いたことのある疑問」が自然とテーマとなったらしい。
「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」である。
「ポケモンが好きだから」という子供らしい理由より、「テーマとその表現にどハマりしたから」という理由から繰り返し観ていた気がする。
『ミュウツーの逆襲』は、この世で「自己存在」を見つけられないで迷い続ける人間(?)の話である。(首藤氏のコラムより引用)
「ーーここはどこだ、私は誰だ」
「私は何のために生まれたのだ」
「私は人間に造られた。だが人間ではない。造られたポケモンの私は、ポケモンですらない!」
「私は、私を生んだすべてを恨む。だからこれは攻撃でも宣戦布告でもなく、私を生み出した人間(おまえ)たちへの──逆襲だ」
オープニングのこの一連のセリフ、当時の子供に付き添って鑑賞した親世代は驚いただろうなと思う。
子供向けアニメ映画で初っ端から重たすぎる。
「ミュウツーは当時のゲームで最強のポケモンである。それが逆襲するのだから、一度は負けなければ逆襲にならない。
ピカチュウやサトシに負けて逆襲するなんて、『ポケモン』世界、最強のポケモンとしては、やることがせこい。
だが、それとは違う。『ミュウツーの逆襲』の「逆襲」は、すでに僕自身の中にあった。自己存在への逆襲である。
つまり、それは存在している自分への「自分とは何か?」への問いかけである。
自己存在を否定してしまえば……つまり、この世界に自分の存在、生きていることが無意味であれば……それは、逆襲ではなく敗北になってしまう。
「自分とは何か」を問い続ける限り、自己への問いかけは、自己への逆襲であり、敗北ではない。」(引用)
ミュウツーは「最強のポケモンを造る」という研究者たちのエゴにより、最も珍しいポケモン・ミュウの化石から生み出された。
そこに存在理由などない。
研究所を破壊後、ロケット団のボス・サカキに見出され、その強大な能力をサカキのために使うことが存在理由となったが、ミュウツーにとっての「自己存在の理由」にはならなかった。
サカキにとってのミュウツーは、目的のための道具だったからだ。
そして首藤氏はこの映画で「差別」を隠れたテーマとして扱っている。
何故か?
「それが世界中の人々にとって通常意識していなくても、心のどこかに引っかかっている事だと思ったからである。」(引用)
自己存在への問いかけにしろ差別問題にしろ、誰もが引っかかりを覚えていることをテーマに盛り込んでいる。
ミュウツーは自己存在を賭けて、オリジナルであるミュウと対峙するために、自らと同じ境遇の存在を造り出した。
矛盾に気づかないまま。
逆襲のためであるとはいえ、これもエゴだ。
続