私の根底にある「テーマ」② | どすこい日和

どすこい日和

主に記録用

オリジナルとコピー。

映画の中盤ではその双方のポケモンたちが戦うことになる。

勝利した側が正しい、存在することを許されるのだと、「トレーナーのためのバトル」ではなく、「自己の存在を確立するための戦い」。

けれど、自己存在意識などそもそも曖昧で、確かなものなど何もない。

そんな不確かな自己存在意識を問い続けて何になるのか?

問い続けたところで、「自分という存在」は既にここにあるのに。

 

見た目や能力に差があったとして、それがなんだと言うのか。

勝って、負けて、どうなる。

争い、否定し合い、傷付くだけだ。

私たちは生きて存在しているではないか。

 

意識しようがすまいが、差別というものはどうしても生まれてしまう。

自分のクローンが造り出されたとして、その存在を容易に肯定できるだろうか?

かといって、差別から生まれる戦争を肯定するつもりもない。

 

 

サトシはオリジナルポケモンとコピーポケモンという、既にある命同士が起こした存在証明のための戦争を否定した。

当時は言語化できなかったが、幼心にも確かに感じるものはあった。

 

無意味なことだ、だっておまえたちはもうここに存在している。

 

その思いが「やめろ」という叫びとなり、ミュウツーとミュウの攻撃の間に割って入ったことでサトシは石化した。

ポケモンバトルが当然の世界の住人であり、バトルが大好きなサトシがミュウツーとミュウの「バトル」を止めようとした矛盾故に、物言わぬ石と化すしかなかった。

 

サトシのピカチュウだけでなく、そこにいるポケモンたちはオリジナルもコピーもなく皆が喪失感を抱いた。

サトシはきっと、自分がどうしてバトルを止めたいのか理論的には説明できない。

ほとんど本能で彼らを差別なく、ただここにある命として平等に慈しんだ結果、サトシは石化した。

ポケモンたちは自分たちの無意味なバトルのせいで、大事な存在を失った。

 

 

そこからくる涙が、クライマックスのサトシの復活に繋がる。 ミュウツーとミュウを含め、ポケモンたちは「信じられる人間もいるのだ」と微かな希望の光を見た。

サトシが息を吹き返したのは、アニメ的な都合や演出上の都合もあるとは思う。

そのうえで、私は「稀有であろうと、ポケモンたちにとってのサトシのような存在はまた現れる」と解釈した。

 

「──皆、どこへ行くの?」

 「我々は生まれた。生きている──生き続ける。この世界のどこかで」

 

今現在の私が描いてるような話はテーマとしてはこんなに重たくはないが、もっと表現を思い切って捻ってもいいんだな、と思った。

全部を説明するように描かなくてもいい。

考察・解釈・想像の余地と余白を与えて、何かを感じてもらう形。

アニメ本編ありきの映画ではあるが、「一話完結」と同じようなもので、漫画でいう「読み切り」に近いのだろう。

読み切りでこんなにも重厚な話を作ってしまう人、今はなかなかいないのではないだろうか。

 

人とは「何者か」になって「我はここに在り」と言えるようになりたい生き物だ。

「何者か」にならなくても既に在る、では足りないのは何故なのか。

そのままではひどく曖昧で不確かで、自己存在理由が確立されずあやふやだからだ。

 

どんな「何者か」になれば存在理由が確立されるのか?

思ったのは、やはり(広義の)愛だろう。

それが絶対ではない。

でも、誰かの中に自分という存在の居場所を見つけられたらこんなにも幸せで優しい存在理由は他にないな、という意味で。

 

漫画を描くにあたってテーマを決めるのはいいけど、主題と副題を複雑に絡み合わせた方がグッと深みが出るのだなということは改めて理解した。

問題はそれを私ができるようになるのはいつの事なのか……ということだったりゲッソリ