お散歩好きはなたの写真記 -7ページ目

短い言葉は、時間のあるときに説明しないと、伝わらないんだよね。

「仲良くしなさい」「ケンカしたらダメ」
どうして大人たちが止めに入るのか、疑問に思うことが幼いころにあった。
ケンカをする理由、衝突する出来事がなければ、ケンカにはならない。
あいつが悪いのに、ケンカの途中で引き離されて、別のことでご機嫌伺いする先生。
でも、先生の温かいオーラで包まれて、正しいことを教えてくれて、つまらないことを忘れさせてくれたから、元気が溢れて幸せな気分。
「仲良くしなさい」と言われても、そのときは怒りでわからなかったけれど、当事者同士で落ち着いてケンカの種について話し合うことが大事なことで、ケンカしているのを曲げて仲良くしなさいと言っているわけではないんだよね。
または、気が合わないとか、一緒にいるのがなんだか嫌な相手と口喧嘩から発展するケースも、折り合いがつけれるように、協調性を身につけてほしいからだったりする。
それには、相手への思いやり、優しさがとても大切。
ムカッときても、どうしてそうなったのか、状況を見極める冷静さを取り戻すことができるのも、堪えることができるのも、優しい心があるから。
ムカッときて、どうしてそうなったのか、状況を見極める冷静さを取り戻すことができるのは、自分が間違った判断をしないための理性を鍛え上げたからというのもある。
現代を思えば、優しさなんて子どもっぽいと捨て去る人もいるし、こういうときはこうと、要領を覚えるほうが賢いと蔑ろにされているように思うけれど、それが人とのコミュニケーションを壊している。
理性的で大人のように勘違いしてしまうけれど、心を蔑ろにして振る舞い方を学んでいるだけだから、心と体のズレが出てきて負担になる。
砂遊びをしようと砂場に行ったら、先に遊んでいる子がいた。広いから空いているところで遊ぼうと砂場に入ったら、気がついたその子が怒って砂を投げつけてきた。
口に砂が入った。目が開けられない、酷い。
「ちょっと、止めて」
話がしたいと思っても、砂を投げるのを止めてくれず、頭に来て自分も砂を投げ返した。
もう、遊ぶどころではない。
そんなとき、大人が「止めろ」と言って、二人の間に入って砂を投げるのを止めさせた。
そして、自分を連れてその場を離れようとしたら、またその子が砂を自分に投げてきた。
悔しくて自分も砂場に戻って投げ返そうとしたら、大人が手を引っ張って離してくれない。
その間も砂を投げつけられた。
「手を放して、あの子酷いよ」
大人は怒ってくれずに、自分の訴えも返さないまま、その場を離れることを優先した。
ケンカは、強制的に終わらされた。話を聞いてもらって「仲良くしないといけない」と言われたからって、納得できるわけがない。
一方的に自分が悪いと思われたようにしか、到底理解できないと思う。
子どもにケガをさせてはいけないこと、ケンカを止めさせることは大事なことだけど、お互いにごめんなさいが言えて、仲直りできないことには、人との関係を築いていくことはできない。
誰も悪いことをしても反省しない、自分だけ我慢しろというのかと、人を大事にすることも、人を許すこともバカらしくなるだろう。
先に砂場で遊んでいた子は、自分が作っていた陣地に勝手に入って潰したから、腹が立って砂を投げた。
まず、人に向かって砂を投げることがよくない。
相手が話の通じない犬猫ではない。人なら口で話しかければ通じることです。人扱いしない、最低な行為です。
そして、砂が目や口に入ったら、気分が悪くなったりして体調を崩してしまったり、目が潰れてしまったら大変です。
目が見えなくなることがどんなに辛いことか。
邪魔をしていることを相手に伝えたら、砂場はみんなのものだから、いいかなと思って入ったんだろうし、謝ってくれるはず。それだけで済んだこと。
後から来た子どもは、砂場に入る前に砂場で遊びたいことを話せばよかった。
よほど夢中になって楽しんでいたのかもしれないから、嫌っていうかもしれないけど、時間を決めて交代してもいいし、相談したらよかったと思う。
砂を投げつけられたのは、とても辛かったね。砂を人に投げつけることはしてはいけないことなのに。
あの子は知らなかったんだね。でも、もうわかったんじゃないかな。
お互い、気持ちを話せばよかったんだよ。
よくない点が理解できて、次に会ったときにお互い謝ることができたなら、スッキリするんじゃないかな。
謝ってくれなくても、それはその子の成長具合だから、自分以外の人のことをまだ考えれないのかもしれない。許してあげてほしいな。
少しずつ人との付き合いに馴れて、お互いに気配りができるようになれば、穏やかにみんなと過ごせれる。
人を責め続けても、何も解決しないのは明白だし、時間のムダだと思う。

一瞬、一瞬の勇気。

一生懸命生ききるというのは、なんだか難しいと思ったこのごろ。
生ききることほど、シンプルなことはないはずなのに、余暇のある現代は怠け心をくすぐらせる竜宮城のよう。
虫たちの季節は、過ぎ去ろうとしているけれど、彼らの生きざまを思うと、いつも真剣でいつも判断に迫られて生きている。
間違ったらどうしようと迷っている時間はないと、空腹の腹が知らせてくれる。
もし、ご飯がこの先になかったら、あったとしても体力がもたなかったら、そのときはそのときじゃないか。
知識も体力も、動いていなければ身につかない。
今ある生を精一杯生き抜くことが普通の虫たち。
それは、迷っても生きていられる時間がある人にとって、勇気ある行動をしていると思う。
私は精一杯生きたと言いきれるかと反省してみて、まだまだ行動できることに気がつきました。
ご飯を食べたら、生きる時間がある。それをムダにせずにできることをどんどんしていくべき。
未来はわからないけれど、勇気を持って進むだけ進むことが一生懸命につながると思う。
本当に、怠惰の要素は尽きない。

欲に満たされ過ぎて、甘えに甘えて、痛くて痛くてしょうがなくなった人たちの悲鳴を聴きながら。

「反省させると犯罪者になります」という本を目にしました。(著者:岡本茂樹)
更正の現場から、反省文やしつけはダメとの帯紙付きで。
「いい人をやめて、いい男やいい女になります」と別の本の読者の声も、本屋さんに展示してありました。
タイトルしか見ていませんが、思いやりのある日本の思想を持つ人が、苛められ堪えきれず、暴力行為に出ざるをえなくなり、犯罪者になるのですから、反省文やしつけになんら意味を持つわけがないのです。
きちんとして真面目に生きているのに裁かれ、のうのうと他人の名誉やお金、物、時間をも嘘や脅しで奪い取る犯罪者が世の中にまかり通る矛盾に怒りを抱えたまま、それでもお前が悪いと言われて、反省できるでしょうか。反省する箇所がどこにあるのでしょうか。
また、みんな同じように生きていて、たまたま自分が捕まっただけと信じて疑わない人も、反省するわけがないのです。
自分の有利になるように、相手のいうことをきき、自分の願いも叶えてもらう、それが思いやりだと勘違いしている人たち。
それが上下関係を円滑に人間関係を潤滑に自由に生きる術と信じて疑わない、日本の思想とは異質の思想。
恋愛にしても、好きな異性に印象よく話しかける異性や好きな人から出る異性の話を許せず、嫉妬し、苛めや邪魔をして排除してくれるのが友情だったり、いい女やいい男に相当する社会が形成されています。
自分にとって感じが悪い、都合が悪い人間を排除する、感情的で理性に乏しく思いやりがないので、普通の人間関係を形成できず、公平も平等もない順位が支配する不平等な社会に、私は全く魅力を感じません。
かつての日本の思想は古いと淘汰され、理解できない人たちがいることは知っていますが、日本の思想が日本に必要なのは、明白です。
なぜなら、その思想があってこそ、日本の先人たちは日本で生きていくことができたのですから。
自分が好き勝手に都合よく生きることを望み、少しでも気にそぐわなければ、いい仲間同士で淘汰する、他人に羅刹、仲間に菩薩の精神は、猿そのものです。
少数が生き残るのには、自然淘汰から考えると、ちょうどいいのかもしれないし、そうして人が少なくて、生きていくための人間の社会が止まったとき、日本の思想が、思いやりの本当の救いや大切さが身に滲みるでしょう。
「殺さないと中国になってしまう」
と遠くから脅されました。4、5人の小中ぐらいの男子でした。
多分、どういう反応をするか見るためにいったから、本気で言ったわけじゃない。冗談だというだろうし、本当にそういうつもりで言っているのだから、他意はないのだと思います。
スマホでネット繋がりから指示があって、面白そうだから試してみて、結果を報告しているようでもあったし、自分たちの行動に責任はないとも思っているのかもしれません。
しかしながら、それは非常識で、相手を頭から疑い、著しく名誉を傷つける暴力行為です。
今の人は、幼いころから両親に無視され、傷つき、ちやほや可愛らしくいるか、相手を傷つけたり、してはいけない酷いことをすることでしか、両親に構ってもらえず、ひたすら暴力的な世界観しか持たないので、普通に話しかけることすら社会から学ぶことができずにいるのです。
そして、そういう暴力的な思いやりを持たない人は、人間として生きる人にとっては、好きにはなれないので、両親とも他人とも人付き合いが浅く、徒党を組むことしかできない。
嘘と裏切りの世界観しか、真実でなく、要領よく立ち回る賢さこそ生きる術だと、日本の古い思想をバカにするのだと思う。
私は、私をバカにし著しく名誉を傷つける人間を同じ人間と思うことができない。
私は、異性とコミュニケーションをとる以前に、人としての付き合いを嘘で壊され、仕事をどれだけ頑張っても嘘でできないことにされ、芸人だと決めつけられサービスの仕事も中傷でまともに働けず、賃金も中国人と思われるせいか、最低賃金に迫る給与しかもらえず、少しでも認められようものなら、調子に乗ったとばかりに、同性によるスーパーや通行中の集団苛め。
日本に勉強に来た外国の女子大生すら、敵意むき出しで死ねと、受け入れられないと言ってくる始末。
全く接点がない人たちから、イメージだけの私を現実にぶつけてくるのは止めてほしい。
私は一生懸命生きたし、まともでない人たちの相手をするのも嫌いだから、無理やり働いて一緒に生きていく時間を延ばすことに意味があるのか、大分、疑問に思っています。
勉強して、いい給料がもらえるように仕事の質を上げようとか、意味があるのかとか。
学校で勉強していたころは、受け身で義務だから、嫌とか好みや感情は関係なく、自分が勉強する理由もなくしていたけれど、自分で何をするか自由に決めれる今、その選択も自分で決めて責任もとれる今、学校に行っていたころの甘さとか、楽だったなぁとか、少し笑える。
死を感じると、生きている間に後悔しないように、自分の生き方を見直すことができるといった内容の、生きることの本も本屋に並んでいたけれど、私に後悔はない。
怠けてはなかったと清々しい気分になれた。

まともでない人たちの恋愛関係や人間関係に全く興味がないし、そういう人たちから被害妄想で攻撃されるのも、腑に落ちないし、すごく迷惑。
感じが悪いと淘汰する、甘えに甘えた人たちの悲しみとか苦しみは、人間の暮らしを破壊する、解決しようのない怠惰だから、私が死のうが生きようが変わらない。
私の責任にしようが、この世は変わらない。
自分の責任でなければ、誰にも文句を言われたり、非難されたりしなければ、自分は悪くないと責任転嫁で他人に甘えたおす根性が自身を祟るだけ。
甘えるのが悪いのかと正当化し、反対の人を潰したり、言い分に賛成するように圧力を加えて同じように怠けることを奨励することが、後に自身を祟るのです。
かちかち山のタヌキのお話に出てくるウサギのように、虎の威を借りてタヌキを仇なすと、また、ウサギもタヌキ扱いされる地獄が待っています。
タヌキがどうあれ、ウサギがタヌキにした仕打ちがタヌキにどんな思いをさせたかなんて、ウサギ自身がよくわかっているはず。
自身がした悪いことは、嘘をついて誤魔化そうが、恐怖となって自分を祟るものだし、都合がいいからとウサギを庇い続けるほど恐怖に堪えれる人もまたいない。
傷つけあう連鎖を断ち切る、他人に対する甘え、自分に対する甘えを断つことこそ、人間関係を保つ術だと思う。