お散歩好きはなたの写真記 -6ページ目

日本人。

日本は今でこそ食べ物を輸入し、豊かな食材をいただくことができますが、お腹一杯食べれるようになったのは、歴史的に全然浅いです。
鳥の猟をするのには、殿様の許可が必要で、猟の時には必ず許可状の携帯しなければなりません。
もし、侍に合い、許可状の提示を求められて、忘れていたら、即、拘束され打ち首だったのです。
鳥も数少ない大事な食料。よそ者に捕られては一大事です。泥棒と猟を許された者を分けるのが許可状です。持っていなければ泥棒と勘違いされても仕方がないのです。
泥棒は嘘をついて許可状がない理由を言って逃れようとします。だからこそ、命の次に大事な許可状を忘れるなんてあり得ないことです。無くすなんてあり得ないことなのです。
日本の先人たちが、嘘やわざとすること、ふざけることを子どもたちに厳しく叱って改めさせたのは、誤って犯罪者として処罰することがないようにするためでもあるし、そうしたことが何の役にも立たないムダなことだということを知っていたからです。
争いの種はことごとく無くし、人の失敗や間違いは反省して正し、許し許される関係でなければ、日本という国はなく、ただの列島にその日暮しに獲物を追い求めてさ迷う個人がいただけだと思います。
全ての人たちが働き手であり、支えあって生きていかなければならない中にあって、嘘やズルいことをして楽をしようとする人は村八分になったり、仕事を与えてもらえませんでした。
殿様でも、感じがいいからと民の一人をエコヒイキしようものなら、一揆を引き起こしかねないくらいヒンシュクを買いました。
みんなが真面目に働くのは、年貢を納めるためではなく、殿様に泥棒やよそ者から生活を守ってもらうためであり、権力や武力によって農民から搾取や強奪をしていたわけではないのです。
それは、現代の税金のあり方や、公務員の存在意義でもあります。
田畑を耕す機具が大変素晴らしかったので、民も楽になったと喜んでいるから、褒美をつかわすというように、功績を讃えるものは、みんなが湧いて喜び、誇りに思いました。
エコヒイキは、みんなが損をするだけなのです。
私も私もと殿様に集るようなことになれば、田畑を耕す農民はいなくなり、国が滅びるのにそう時間はかからないし、残党みたいに他の村を荒らして生きるしか途はなく、他の真面目に生きる国々の侍たちに討伐されることになります。
悪の栄えたためしなしとは、このことです。
また、殿様や侍にちやほやしたり、綺麗事やお世辞を言えば、「何を企んでおる」と相手を疑うのも、国の大事を司る責務や民を愛する気持ちからで、感じがよいからとエコヒイキしたり、自分が相手に遠慮して事を成せないのでは、仕事にならないからです。
日本が無宗教だったのは、生きていく上で厳しい環境にあり、正しく生きてみんなが支えあわなければならなかったので、自然に悪さは淘汰されるし、子々孫々と受け継がれた生きていく智恵が宗教に近いもので、取り立ててまとめるほどのことでもないほど、当たり前のことでもありました。
仏教やキリスト教が伝来し、受け入れられたのは、生き方がそのまま書いてあって、間違ってないと納得できたからだと思います。
人口が多くなり、産業が発達し、みんながお金持ちになって欲望渦巻く感じだけど、日本を開拓してきた先人たちの歴史はありがたく、忘れないでほしい。
私は日本の先人たちから何点もらえるだろう。
及第点ほしいけど、赤点より上だと信じたい。
全然、甘いもんなぁ。

実物よりも虚像が好きらしいので、放置。

秋らしく冷え込み始めたこのごろ。
紅葉にはまだ早いけれど、今年はなんだかシンとする寒さを早く感じているような気がします。
10月にあった残暑は、すっかりなくなりました。まあ、11月に入るしね。
一年間、早かったなぁ。
今年は越せるのか(苦笑)。
さて、以前より落ち着きを取り戻して、平和な日々を送っています。
たくさんバイトをしましたが、まだまだバイトをするのかもしれません。
最初は完全に馴染まなかった地元の人たちも、嫌いな人は嫌いかもしれないけど、すれ違いざまに暴言を吐いてくる人は少なくなりました。
大阪から遠征で来て、私を悪者にしようと企む人たちの暴力も何度もあったし、バイト先に大阪の人たちが多かったのは、地元の人が私を警戒して雇ってくれなかっただけのことだから、仕方がないとも思っていました。
「大阪の仇はとった」とバイトを辞めるときに言われたし、「結婚したら子どもを虐めてやる」と職場のおばさん連中も息巻いていました。
新聞記事から大阪についてコメントを書いたのが、そんなに気にくわなかったのですかね。
私も「中国人」と負けじと罵ったし、その職場で結婚する相手や友達をつくる気もなかったのでどうでもいいです。
わざと自転車やバイクを私の進行方向へ合わせて反応を見ようとする若い男女共に、事故に繋がるので止めてください。
これも大阪の悪さだなぁと常々思います。
事故ってくれたらラッキーとか、笑い話にするんでしょうけど。簡単に「試してみたら」と勧めるんでしょうね。自分が何をしでかしているのか考えないまま、大事になったら「あなたは悪くない」って言われるんですねきっと。
実際、責任は行動して反応を見ようとした、事故の当事者なので、自分の浅はかさを十二分に反省して、普通のことが判るようになっていただきたいと思います。
クレジットカードが使えるのに、ポイントカード用ですと嘘をついてまで現金で払わせようとする学生店員とか、本当はサインでいいのに、暗証番号を押させる店員とか、品物を差し出すだけでわざとお釣りを催促しないと渡さない人とか、エコヒイキ満載の日々もあったけれど、これも大阪の影響なのかなと感じていました。
中には梱包を手伝ってくれた仕事人店員さんや、鞄を買おうとしてカウンターに置いたら、私自身の鞄をカウンターに置いたのかと思い込んで会計してくれてなかった店員さんとか、エレガントな旅行客女性の方々がバス停にいらっしゃったり、思い返せばお世話になったり、素直な人たちにも会える町でもありました。
寒いと話をしていたら、どこで話を聞いたのか、古着をくださる方がいると聞いて、ウキウキしていました。
古着を受けとり感謝をしていると、どうも嬉しくなさそうな感じ。
近所の人がくれたのかと尋ねたら、違うらしいけど、ここの人だろうと思っていました。
古着を持って帰るときも、何故か知らない通りすがりの人に残念がられたり、怒りを呼び起こすような何かあった様子。
古着をもらって何が悪い?
施しを受けるなということ?
服を催促した覚えもないし、リサイクルを地域で取り組んで、マーケットとかしてるから、気楽にくれたんじゃないわけ?
よく考えて、これは私が大阪の人であるのか、何者なのかを探っていただけなのかなと思いました。
観光の町でいろいろな国や県から人が入ってくるとはいえ、悪さをしに来たのなら、受け入れられないのはごもっともな話。
この古着はおそらく、この地に住む、大阪の人がくれたのだと思う。
これまたおそらく、「友達だから」みたいなことを言って。
受け取ったら大阪の人間だ。そういうことなのかなと。
府に落ちてしまう恐怖感…というのは、もう大阪のどこかに落としてきてしまったのかもしれない。
正直に言ってくれればいいものの、それではボケられるかもしれない、真相がわからないということなんでしょうけど、結局、この地に馴染んでないなぁと思わざるをえず。
古着を貰ったことを、いるのに直接私に聞かないで、扉を隔てた向こう側の人に尋ねるぐらいだから、私はいてもいなくても関係なく、周りががやがや何か賢そうに予想立てして、勝手に不安に駆られているようです。
私にはどうすることもできないので、傍観に徹するわけですが、人付き合いって難しいねという以前の問題しか、ずーっと見えていないのでした。
とりあえず、「知らない人から物をもらってはいけないよ」という基本中の基本を振り返ると共に、私もだれがだれだかわからないので、人付き合いはできなくても仕方がないことを認識しました。
ただ、大阪の人でも大阪に馴染まなかった人たちがいただろうし、どこの県に行ってもいい人たちしかいないわけじゃないので、きちんと人と付き合いもしないで適当に全部が全部そうだと判断するのは違うと思う。
ややこしいですが。
古着は全部売って200円になりました。人の好意を素直を受け取れないのは残念というより、陰謀めいたものをもらっても嬉しくないので、リサイクルで処分させていただきました。
そのほうが、使いたい人の手に安く渡りやすいと思うので。
これからも、自然死に見せかけた自殺へと生活費から圧迫して集団で虐める猿の群れと戦わないといけないかもしれません。
「本当に自殺するのかな」とか「本当に強いな」とか、「どこが愛想がいいのか」と死ねと言った後で首を傾げる人とか、なかなか、普通の人にお目にかかれないし、期待しないでいようと思います。

みんなで生きている。

気がついてみたら、ブログ再開みたいな感じになっていました。
暇なのね。暇じゃないのに怠惰なのね。
書きたいことを書き残すべきかなと、気が向いたら更新します。
損得、金金時代の今の日本。経済の二極化について、書かれているブログを拝見し、ため息をついております。
社会貢献とか、税金とか、国というもの自体、理解されているのか。
助け合い支えあいの精神も、もはや意味合いが変わってしまったのかもしれない。
仕事がなくなるということは、その仕事は必要のない過剰なものだということ。
または、必要に満たない質だということ。
それはすごく自然なことで、仕事がなくなったために、野生で暮らす知恵や勇気を失った古代の人々は、町のあちらこちらで横たわって冷たくなった人たちを見かけることが普通だった。
野生の生き物たちと同じように、自分のご飯は自分で探していたのに、食べ物がたくさん作れるようになった空き時間で、他のことができるようになったことを失念してしまっている。
「働かざる者食うべからず」とはいったもので、日本の国民は主に農家。
義務教育という国の政策で、子どもを学校に通わせなければならないことに反対の親はいた。
なぜなら、子どもも大事な畑仕事の一員で、家事を回すのにも人手が足りなかったから。
いつ種を撒いたらいいのかとか、苗の植え替えの時期はとか、収穫の時期まで様々な作業を時期に合わせてこなしていく必要がある。
来年のご飯は、今の田畑の仕事の出来がそのまま反映されるのだから、田畑の仕事をサボって1日ご飯抜きにされるくらい当たり前だし、サボったせいで植えるのが遅れたりして、収穫が少なくなったりしたら、ただでさえ天災でダメになることもあるのに、家族全員が命取りになるのは、目に見えている。
ご飯の確保のために、働く人たちのお陰で、他の仕事をする時間がある。
ものすごい社会貢献だと思う。
だから、野菜やお米や魚やお肉などが買えることは、とてもありがたいこと。
輸入食品は多いけど、その分、質のよい仕事で返していきたいものです。
仕事が溢れて、お金がないと生活ができない人がたくさん増えて、行き詰まりを起こすところまできたので、農業に力をどんどん入れるべきかなと思います。
農業で空いた時間、他の意義ある仕事をしていけたなら、堕落もモラルの低下も防げたのかもしれない。
生きていくのが厳しいとか、辛いとか、人間関係に苦労してはいるけれど、実質社会貢献として生きて厳しいとか辛いとか感じられるようでなければ、大人ではないように思う。
世の中の会社は、全て社会貢献で出来ていると言いきれたら、人の繁栄はまだ伸びるかもしれない。
お金を追いかけたら楽だけど、大事なものを見失ってはいけない。