傾聴:己を開く
「学びの実践学ー教師に必要なこと、ラーメン店主の学びにあり」の第二章を読んだ。電車の中だけの読書なので、遅々として進まず…なんだけど、第二章は素敵な言葉が散りばめられまくっていていちいち本を閉じて暫し感慨にふけって、で、また読書を再開して、の繰り返しだった。中でも神経精神医学者の松尾正氏の書籍からの引用とそれに続く考察はこの数行だけで、この本を読んだ甲斐があった!と思わせるだけのインパクトがあった。松尾は、精神病者とのかかわりにおいて、「熱心」で「人間的かつ一方的」な治療を行うことを厳しく非難する。他との出会いもまた、熱心に私の側が一方的に求めるものではなく、他との間の沈黙の中に身を投じ、その沈黙から「突如として浮かび上がってくる言葉」を聴くことを通じて起こるものと考えた。ラーメン店主は、一方的に熱心に学んではいない。常に他のラーメン店主の作るラーメンを見て、食べて、感じて、学んでいる。つまり、他者とその他者の作るラーメンに己を開いている。お客様の話をじっくり聞いて、適切な質問を投げかけお客様ご自身で考えてご回答いただくことの重要性を何度となく「学んで」はみたものの全く実践することが出来ず、気づいたら一方的なマシンガントークを繰り広げ自分の言いたいことを言うだけ言って月次訪問を終えていた。ちゃんと聞かなきゃ。質問しなきゃ。事前にそう思って臨むのだけれど頭で考えていても、すぐに忘れてしまって、同じことの繰り返しであった。いや、まぁ、この文章を見たから、といって、すぐに出来る訳ではないのだろうけれど、己を「開く」という身体感覚は今まで全く想像していなかったものなのだけれどもの凄くしっくりきて心が躍った。お客様のお話を聞く際、私はアタマの上の方で聞いている。脳の中で、この話の重要ポイントはなにか?話の論旨でおかしいところはないか?関連する話はないか?といったことを、めまぐるしく回していて隙あらば、割り込んで自分が思いついた話をしていた。アドバイスという名の実に「熱心」な、「一方的」にお役に立とうとしているある種の善意から出た「人間的」な行為である。私のアドバイスを生かして新しいチャレンジを始めて結果を出すことの出来る強い人達の場合なら、それでも問題ない。しかし折角のアドバイスが、どうにもしっくりこなくて、だから全然やる気にならず、何にも着手しないので現状が一向に変わらないことを苦しく思っている繊細なお客様にとって、私の暑苦しい演説は軽い絶望を誘うものであったろう。己を開く。胸を開く。そういう身体感覚で話を聞くこと。頭ではなく、胸の部分まで意識を落として頭に意識を走らせないように聞いていたなら、頭で言語が回らないから、自ずと沈黙の中に身を投じているかのようになる。その居心地の悪さをぐっと我慢したら、突如として言葉が浮かんでくる、のだろうか?傾聴については、何万回も言われ続けたのにどうしてもピンとこなくてダメダメ路線をひた走りに走りまくって自尊心を毀損しまくっていたけれど、初めてしっくりくる表現にであった。その感動をここに記す。