「やる気」と「その気」
友人が、その昔、アメリカの自己啓発セミナーに夫婦で参加したことがあったそうで「どうだった?」と聞いたら、そのときはテンションが上がるんだけど帰国したら、元に戻っちゃうんだよね…という返答だった。あぁ、そうだろうな…妙に納得した。ハイテンション系のアメリカの自己啓発セミナーが悪い訳ではない。あそこに出て、テンションを維持して突き抜けている人だっているに違いない。 ローテンションの国内の自己啓発セミナーだって家に戻れば、あれほど変えたいと願っていた日常にいともあっさり逆戻りしてしまう人だっているだろう。テンションの問題ではない。やる気は持続しない。その気にならねば、力を発揮しないのだ。やる気の喚起は、恐らくそれほど難しいことではない。外的刺激で、テンションを上げさせれば問題はすべて解決出来るような気になる。高いお金を払ったんだから、と自分にプレッシャーをかけることでもやる気を呼び出すことは出来るだろう。初回は。そう、あくまでも1回だけなら。お金は使い始めると、だんだん麻痺していくから、そういう頑張り方に2匹目のドジョウは現れないのだ。そうして真面目に色んな「外的刺激」を求めて彷徨う人が生まれ、同じところを何度も何度もぐるぐる回って自己嫌悪に陥ってしまうのだな、と思う。と、他人事のように書いているが己を客観的に見て述べているのだ、残念なことに(苦笑)。今、私が属している勉強会の面々はこの1年で、多分、劇的に変わっている。もちろんいい方に。将来、自分でそういう勉強会を作りたいと考え始めたのでちゃんと機能している「自己啓発グループ」についてちょっと考察してみた。1 敷居の高さ 講師の先生は、言語を操る天才だ。 だが、とりあえず難しい。 それは聞く人によっては、「こ」が付いちゃう「難しさ」だ(笑) 抽象的な言葉や、故事成語、四字熟語など 恐らくかなり意図的に使っておられる。 発信する文書も長文だ。 シンプルな言葉を多用し、感情に訴えかけて なんとなくの雰囲気で、煙にまいて煽る手法とは真逆のアプローチ。 あたりまえのことを、手を替え、品を替え語るのだが 具体から抽象を行ったり来たりさせ、 聴者に認知能力を徹底的に使わせ、 挙句、分かったような、分からないような大海に放り出す。 聞いている側は、その場ですべての答えが出る訳ではなく プカプカ海をさまよいながら、日常に戻らねばならない。 だからその環境に耐えうる人しか参加できない。 天啓やら、回答やらを待つ人たちではなく あえて混乱の中から、自分で答えをだそうとする人たちが集うのだ。 いわゆる「他責」ではなく「自責」の人達がターゲットなのだろう。2 現状の評価をしない 当たり前だがグループ内には いわゆる「出来るヒト」と「出来ないヒト」がいる。 「出来るヒト」は底抜けに【出来る】ので 「私なんて…」と気後れするヒトが出てくるのは、自然なことだ。 けれど、「現状」にはあまり意味がない、ということを 講義内で、何度も何度も、言語、非言語両方通じて 訴えかけられる。 能力の差に紐づいたパフォーマンスの出来、不出来ではなく、 変化率にこそ重きが置かれているのだ。 10,000のヒトが達成した100の進歩より 10のヒトが達成した5の進歩こそが賞賛される。 みな、多かれ少なかれ講師の先生に憧れているから 小さな進歩であっても、 そこに着目してもらえることが大きな喜びになるし、 グループ内にそのような文化が根付いているから お互いの努力に対する受講生同士のコメントも 絶対値だけではなく、変化率をも重要視したものとなっていて ひたすら勇気づけられるw。3 上からのつながりではなく、下から発生したつながりがあること 自己啓発講座にはだいたいFacebookなどの グループが用意されていて、 皆で切磋琢磨していきましょう! なんてもっともらしいことを言われるのだが、 活性化しているグループなんて、 正直、見たことがない。 だいたい立ち消えているから 私のFacebookには、「これ、なんだったっけ?」と アタマを傾げてしまうようなグループの死骸がたくさん残っている。 今、私が属している勉強会には 実はグループがない。 皆が自分のFacebookに記事をアップして それを他の受講生が読んで そこにコメントを残していくだけだ。 用意された形式的なつながりではなく 自らが欲して自然発生的に出来上がったつながりは 派手さはなくとも、深い結びつきを作るのかもしれない。 ただこういった結びつきは、醸成するのに時間がかかる。 この結びつきが出来たのは 合宿で寝食を共にしたメンバーがいたことが大きいのではないか、 と思っている。 気功の先生がよく、 「カラダカラダ (身体から、だ)」 と仰るのだが、 「食べる」「寝る」「共に過ごす(遊ぶ)」 という 身体を使った経験は、ヒトの結びつきを深めるのかもしれないな、 と思った。 であるならば、この手の勉強会に合宿や懇親会を用意するのは 意味のあることなのかもしれない。4 自己発信 しばらく書いていた日記を、再び、 この「くそ忙しいw」確定申告時期に始めようと思ったのも 自己発信なくして、変化変容はない、と しみじみ思ったからだ。 自己発信するためには、 自分の底に沈んだ思いや考えを 一度、自分のアタマまで上げてきて 目の前に広げなくてはならない。 こうやって自分の外に広がった文章を 独立したものとして、起承転結を再考する。 そして出来上がったものは、私の目を通じて、 もう一度自分の中に取り込まれ アタマの中にあるふわふわしたものとの 整合性が取れているか、イチイチ吟味しながら味わう。 不思議なもので、自分が書いた文章が 自分の顕在意識化の思考のパターンを離れ、 自分が自分に教えられることだって起こってくる。 書くことの効用の一つだ。 受講生の一人がFacebookに以下の記述をあげておられた。 「毎日のアウトプットが脳内に真空状態を生み出しているように思います。 すると、真空領域を埋めるべく、 脳内と脳外から新たな情報や着想や視点が 掃除機みたいに音を立てて吸引されていきます。 脳内の新陳代謝が激しくなっています。」 この記述もまた書くことの不思議を言い当てている。 稚拙であろうが、文才がなかろうが そんな「他者の評価」をバッサリ切り捨て、 ただ黙々と発信を続けることにより、 思考が活性化され、 キラキラ輝いた「偉い何とか先生の受け売り」ではなく 「自分で考えた小さな小さな砂粒」を 見つけることができるようになるのだろう。 またこういった作業を繰り返すことにより 「考えている気になっているヒト」から「本当に考えているヒト」に 成長していくのだ。 そして、それこそが、「変化率」を高める唯一の方法だろうと思う。5 焦り 講師の先生はよく 「焦って焦らず、焦らず焦る」と仰る。 通常「焦り」という言葉は良くない言葉として語られるが、 私は最近、あえて「焦り」は重要である、と考えるようになった。 その昔、TVシリーズの水戸黄門の主題歌に 人生勇気が必要だ くじけりゃ誰かが先に行く あとから来たのに追い越され 泣くのがいやならさあ歩け というのがあったが、 私が感じる「焦り」もこれに通じるものだと思う。 同じスタート地点から出発した仲間が 切磋琢磨している姿をみて、 適切な「焦り」を感じることには意味がある。 もちろん、ある人は「ウサギ」であり ある人は「カメ」であったりするので 競争そのものに意識を向けてしまえば、 ウサギにとっても、カメにとっても喜ばしい結果は 得られないが、 それでも「進んでいること」を常に意識し続けるためには 自分よりも確実に「進むこと」に真摯に取り組んでいる他者を見て 「焦り」を感じるのは、有用なことだ。 そういった健全な「焦り」を感じることの出来る場 (毎月の現状発表だったり、他者のブログやFacebookを読むことだったり) があることは、大きな力となる。 きっとまだまだ有用なポイントはあるんだろうが、とりあえず今日のところは、5つだけ。