QOLをあげる
自分らしい働き方や生き方ってなんだろう?とふと考える。私にはさまざまな友人がいて、それぞれ皆、人生に悩んだり、躓いたりしながらそれでも自分に折り合いをつけて生活していて女性同士の気安さから色々聞いてどうにか今の苦境を抜け出したいと思うのだが踏襲したいモデルが見つからない。自分を肯定し、自分にあった生き方をすれば楽しいよ!と言われたら、そりゃそうだろうなと思うし、楽しそうな友人達を見て羨ましいと感じるが、なぜだかそちらにシフトを変えることが出来ない。私の中に正体不明の、けれど確実に存在する「違和感」があるからだ。明日は月一でお邪魔している年間プログラムの日だが、未だかつて「明日かぁ~♪ 楽しみだなぁ~♪」などと思ったことは一度もない。ある種、修行僧の気分で通っている。それって自分に合ってないんじゃないの?と言われたら、確かに「うーん…」と唸ってしまうのだが、それでも私の中の何者かが、「逃げずに必ず行きなさい」と命じていて、とりあえず毎月、上京している。ここで手を放したら私はもう二度と目を開かない生活をしそうで自分に喝をいれながら続けている。しかし、である。そんな状態で、本当に活路が見いだせるものだろうか?好きこそものの上手なれ、というではないか。行くこと、そのものの正しさは私の中で疑いようのない事実として存在しているのだけれど、このままの状態でいいのかについては、自信がないままだった。以前のブログにこの世はすべて我々の意識が作り出しているのだ、と書いたことがある。同じ事象をどのように解釈するかで物事は変わるし、ヒトの記憶は実にいい加減なものだから絶対的事実でさえ、簡単に(悪気なく)書き換えられることを鑑みてもやはりその考えは正しいように思う。辛いと思うから辛いのであって、それを丸ごと、楽しい!と思えば楽しいのかもしれない。そういう軽い洗脳を試みようかと思案していてふと、人間には意識の他に「肉体」があるな、と思い、立ち止まる。疲れていたら、気分だって下がる。キレイなものを見たら、気持ちが華やぐ。事象の解釈とは全く関係ないところで肉体が連れてくる感情だってあるんじゃないか?先日のブログに私はこれから時間を「投資」しているのだ、と明確に意識しながら時間を過ごしたい、と書いたが、そうであるならば、我が肉体をご機嫌な状態に据え置く時間もまた費用対効果の高い「投資」なのではないか?と思い至った。十分に睡眠時間を取る。美味しいものを食べる。美しいもの(ハンカチでも、ノートでも、なんでもいい)に囲まれ過ごす。新幹線の時間を楽しいものにする。受講生達と楽しい会話を交わす。そういう些細な事柄が自分を励まし、前を向く原動力になるやもしれない。他人と比べるのではなく、自身の成長だけに意識を集中させて自分の中で何かプラスを作れたら、それを分かりやすくお祝いする時間を持ってもいい。また月一のイベント中のみならず、普段の生活の中にも「朗らか」の種をたくさん植えて毎月の研修に備えることだって出来る。とりあえず明日は「楽しかった」と思えるように心も体も総動員して取り組んでみる。QOLを上げる、とは、結局、そういうことなのだと思う。