2012年2月11日(土) その2からの続き

赤煉瓦プレイスを過ぎてから暫くの間は、旧道の右手に国道199号、左手にJR鹿児島本線と少し高台に国道3号という眺めが続き、JRと国道199号を跨ぐ高架道の下を潜ったすぐ先で行き止まりになる(タイトル写真)ので、仕方なくここから左折してJRの下を潜るトンネルを抜け、大里新町交差点で国道3号に出ざるをえない。
ここの行き止まり地点から、約2km余り先の末広町交差点近くまでは、JRの線路と工場群によって今では全く歩くことができず、門司往還の往時を偲ぶこともできないのは寂しい。
…と嘆いていても仕方ないので、大里新町交差点から暫くは手向山公園を左に見て国道3号を往き、赤坂一丁目東の信号を右折してJRの踏切を越え、再度海岸沿いの国道199号を西進する。大きなナフコの建物が見えたところで左折して再び旧道に戻ると、前方には小倉の街並みが少しずつ現れてくる。

街道右手の貴船神社に参詣してすぐ先に、門司口門(写真下)とも言われた小さな門司口橋があり、この橋を渡るといよいよ小倉城下だ。


門司口橋を渡ると同時に新幹線の高架を潜り、更にJR鹿児島本線の踏切を渡って、新砂津橋の信号を右折したらすぐ先に左に入る小さな路地(写真下)があり、これが門司往還だ

しかし、この写真で判るように、この道の先はコレットなるデパートに行き当たることになる。そう、門司往還は、JRや工場だけでなくデパートにも分断されているのだ。何と多難な街道であることか…。
ご存じの方も多いと思うが、このコレットは元々は「小倉そごう」が前身で、開業から7年後の2000年にあえなく閉店。2002年に「小倉玉屋」として再開したが僅か1年と持たずに撤退。2004年には今度は「小倉伊勢丹」として再起を図るも、2008年には伊勢丹が撤退。そしてついに、2009年になって現在の井筒屋の出資による「コレット」になったと言う因縁付きのデパートだ。………こんな経緯は、地元の人でさえももう覚えていないのではないだろうか?
オイラに言わせれば、先人達の血と汗が染み込んでいる門司往還なる貴重なる遺産を、一私企業ごときが占有して建物で塞いでしまったことが、そもそもの間違いではないかと思う。まこれは、コレットだけに限ったことではなくて、今回歩いた道のりには多く見られた訳だがネ。
コレットの店内路面に「参勤交代往還路」なる碑がほんの申し訳のように埋め込んであるが、その程度で済まそうなんて思わずに、ここは北九州市長あたりが先人達に対して公式に謝罪し、周辺の神社仏閣総出で懇ろにお払いをしてもらうしかないのではないのかネェ。既に建ててしまっているビルを、今更壊す訳にもいかないだろうから…。
そう言えば思い出したが、萩往還を一の坂ダムの建設で勝手に行き止まりにしてしまった我が山口県も似たようなものか…

コレットの店内(写真下)は「ブランドファイナルバーゲン」とかで、女性達の喧騒にまみれていたので、早々に通り過ぎた。


コレットを出て、すぐ正面に本日のゴールである「常盤橋」が見えてくる(写真下)が、橋のすぐ手前には、伊能忠敬が九州の測量開始の基点としたことを示す顕彰碑が建っている。
1812年に、67歳になる忠敬が第8次測量のために小倉に到着し、この常盤橋を出発して一路鹿児島へ南下し、さらに屋久島・種子島を測量し、一転北上して小倉に戻ったのちに今度は長崎に向かい測量したとのこと。そして佐世保で越年した後に九十九島を測量し、その後に平戸に渡り、さらに壱岐・対馬・五島列島を測量の後に再び小倉に戻ってきたのは1年8ヶ月後の1813年というからすごい。
とても常人の成せる技とは思えないのだが、50歳で隠居してから後に測量技術を一から学び、56歳から測量を開始して74歳の亡くなる寸前までの18年間の全国行脚のほんの僅かがこの九州行と言うのだから、アンビリーバボーの一言に尽きる。

この常盤橋は、平成7年に江戸時代と同じ「木の橋」に生まれ変わったとのことで、小倉から九州各地に伸びる諸街道(長崎街道、中津街道、秋月街道、唐津街道、門司往還)の起点・終点となった、とても重要な地点だったようだ。東京で言えば「日本橋」にあたると言ってもいいのかネ。
伊能忠敬はもちろん、勝海舟、坂本龍馬、シーボルトなどもこの橋を何度も渡っただろうし、享保13年(1727)年に将軍吉宗に献上する清国からの象もこの橋を渡ったそうで、新しい橋ではあっても色々な歴史を感じることができるのはとても嬉しい。

と言うことで、約5時間半33,590歩の本日のウォーキングは終了し、小倉駅からJRで下関へ行き、駅前からバスに乗ってみもすそ川で降り、マイカーで帰宅したのであった。

2012年2月11日(土) その1からの続き

門司港駅の南側に拡がる広大な操車場や車両基地を後にして、門司往還は一路、国道3号を南西に向かう。
右手は鹿児島本線と関門海峡、左手は風師山という風景がしばらく続くが、風師二丁目信号の辺りからは右手に旧道が残っているので、交通量の多い国道を避けることができる。
ナフコ(ホームセンター)を過ぎて二夕松町団地前の信号で再度国道に合流し、少し先の小森江三丁目信号から再び右に折れて旧道を往く。
JR小森江駅前を通過してすぐにJRの線路を渡り、一旦、海岸沿いの国道199号に出る。この辺りも国道の両脇には幾つもの工場があるが、その中には赤煉瓦造りの倉庫が多く立ち並んでいて、往時の繁栄を偲ばせる。
すぐ先の大里本町一丁目信号から左に折れる旧道があり、右手に西生寺を見て進む。西生寺の説明板には、「藩政時代、幕府によって宗門改めの政策が布かれ、西生寺は判行寺(踏絵寺)とされて毎年3月に踏絵が行われていた」と書かれてあり、キリシタン弾圧の悲しい歴史が秘められた寺であることが分かる。
門司往還が門司駅の北側を通るこの辺りは、旧街道の雰囲気もそこそこ残していて楽しい道筋だ。八坂神社近くの交差点には、「長崎街道」と書かれた標識も建っているが(タイトル写真)、正確にはこの道は門司往還であって、長崎街道は小倉常盤橋を起点として長崎へ向かう街道の筈だ。ま、いいけど…。

更に進むと、赤煉瓦造りの建物が建ち並ぶ一角に差し掛かり、右手には豊前大里宿跡と書かれた石柱(写真下)があって、大正二年築のこの旧倉庫棟が、赤煉瓦交流館(ホール)と名付けられているようだ。


また左手には、門司麦酒煉瓦館と立派な街道松が出迎えてくれ、その前には「大里宿のゆわれ」と書かれた分かり易い案内板が建っていた(写真下)。

しかし、平仮名で「ゆわれ」って書かれると、何となく違和感を覚えるのだがどうしてだろう?。口頭では確かに「ゆわれ」って言うこともあるけれども、文書にする場合は「いわれ」つまり「謂われ」ではないかと思うのだが、………ま、いいけど。

明治時代から大正時代にかけての遺産である赤煉瓦倉庫群と、寛政11年(1799年)だから江戸時代後期に建てられた「長崎番所」跡の石柱が旨くマッチしている風景(写真下)もまたいいもんだ。


これらの赤煉瓦建物群を総称して「門司赤煉瓦プレイス」と言うそうな(写真下)。

明治四十五年に設立された帝国麦酒㈱によって、大正二年にこの地に麦酒工場が竣工して醸造を開始して以来、「桜麦酒」「大日本麦酒」「日本麦酒」「サッポロビール」と、社名変更などの変遷をたどりながらも門司の産業を支え続けてきたのだナ。
そして平成十二年、大分県日田市に新九州工場が竣工されたことで、門司のこの工場は閉鎖となり、この地における87年間のビール製造の歴史に幕を閉じたとのこと。隣の県に長く住んでいながら、今回ここを訪れるまでそんなことはちぃ~っとも知らなかった。お恥ずかしい限り。

その3に続く

2012年2月11日(土)

チョォ~~~久し振りに、関門国道トンネルの人道を歩いてみることにして、マイカーでみもすそ川公園そばの人道入口(タイトル写真)駐車場まで行き、エレベーターで地下へ降りてみる。
トンネルの中は土曜日だからか祝日だからか結構な人出で、ジョギングやウォーキングをする人や、明らかに観光客と思しき人まで、思い思いにトンネルの景色(…という程のものでもないが)を楽しんでいる様がそこそこ面白い。

トンネル内の県境を通過して、下関口から僅か10分ほどで門司口に到着し再度エレベータに乗って地上に出ると、そこは関門海峡越しに下関の街並みが遙かに見渡せる風景となる。
すぐ側にある、松本清張の「時間の習俗」で一躍有名になった和布刈(めかり)神社にまずは参詣し、今日の無事を感謝する。巨大な橋脚を仰ぎ見ながら関門橋の足下を抜け、右手に早鞆瀬戸の渦を間近に眺めながら往くと、すぐにノーフォーク広場に出る。
広場を出たところに小さな駅があるが(写真下)、電車の来る気配は全く無い。説明板を見ると、今年は3月17日(土)から運行開始とあるので、もう少し先へのお楽しみに取っておくことにしよう。

この路線は、昭和初期に開通し平成17年に休止した臨港線(貨物線)の一部を利用して、JR門司港駅横の九州鉄道記念館駅と関門海峡めかり駅との間約2.1kmを、 小さなディーゼル機関車がトロッコ型客車2両を牽引して走るのだ。時速15kmというゆっくりした速度なので、関門海峡をのんびりと眺めながら列車に揺られるのもいいかも知れないナ。

和布刈地区から門司港駅、門司駅そして小倉の常盤橋に至る街道を、江戸時代から明治時代終わり頃までは「門司往還」と呼んでいたようで、下関までの山陽道と、常盤橋から延びる九州各街道とを結ぶ重要な街道であったらしい。
しかしながら、関門(鉄道)トンネルの開通や関門連絡線の廃止、国道3号線や国道199号線の整備拡幅、そして海岸線の埋め立てによって幾つもの工場が建てられ、美しかった海岸線と門司往還はその姿を大きく変えざるをえなかったようだ。
時代の流れで仕方のないこととは言え、実際にこの道を歩いてみると、この街道がJRの線路や工場などによってズタズタに分断されている様がよく伺える。旧山陽道の下関から広島までの間は、既に人間が歩かなくなって獣道になり果てた道は幾つかあったけれども何とか歩き通せたのに比べて、全く歩くことさえできなくなってしまったこのような街道は、何だか寂しい気がするのは単なるセンチメンタルではないと思う。

平知盛の墓と伝わるお墓がある「甲宗(こうそう)八幡神社」に参詣し、旧門司1丁目信号から左折して関門国道トンネル入口を左に見ながら国道2号を南下する。すぐの東本町二丁目交差点の角には「岩田家住宅」があり(写真下)、渋い漆喰の居蔵造りでありながら片面の壁は垂直に赤煉瓦で覆われているという、珍しい建物だ。第二次大戦中の激しい戦火を逃れられたのも、この赤煉瓦のお陰かも知れない。


その先の門司市民会館前までは国道2号の標識があり、ここを過ぎて老松公園前の信号を斜め右に往くと国道3号の標識に変わるところをみると、門司市民会館前が国道2号と3号の基点みたいだが、それらしき説明板は特に見当たらなかった。

門司往還は国道3号に入らずに老松公園前をそのまま直進し、鳴滝四丁目交差点から門司税務署の横へ抜ける少し細い道を辿ることになる。ただ、少しここで寄り道をして、バナナ叩き売り発祥の地と言われる「郡芳閣」(写真下)へ立ち寄ってみた。

大正時代初期から昭和時代に入って戦中まで、門司の町が最も華やかし頃に自然発生的に誕生したらしい「バナナの叩き売り」だが、『さぁさぁ買うた買うたぁ、バナちゃん因縁聞かそうかぁ。私の生まれは台湾でぇ、親子もろとももぎとられぇ~、かごに詰められ舟に乗りぃ、金波銀波の波越えてぇ~、着いたところが門司みなとぉ~…』と言う下りの口上も、今や大道芸でしか聞けなくなってしまった訳だ。

桟橋通り交差点に戻ると、国道3号の右手に「九州鉄道記念館」が見えてくる(写真下)。

明治時代中期に設立された九州鉄道会社の旧本社がここにあったとのことで、その当時の建物(写真下)も残存しているが、明治40年に国有化されるまで、ここが九州全体の鉄道を統括する拠点だったのだ。

C591を始め、各種車両の展示や子ども向けのミニ鉄道もあり、家族連れのお客さんが結構溢れていて繁盛していたようだ。

その2へ続く)

2012年1月14日(土)

小寒を過ぎて相変わらず暦通りの寒い日が続くが、今日は比較的暖かくて雨の心配もなさそうなので、旧山陽道の残りを歩くことにした。JRで小月駅まで行き、駅前の旧国道2号(現:国道491号)を横断して一つ山側(北側)の旧街道を清末方面に歩き始める。
前回歩いた時は、清末地区に入ってからこの街道を途中で右に折れて、東部中学校前の「旧清末藩邸跡」にも立ち寄ったのだが、今回はそのまま素通りした。「御館道」と呼ばれるここの坂道はなかなか風情のある通りで、眼下に清末の街並みを見渡すことができて、殿様になった気分を少しだけ味わえる好きな坂道だ。

左手に清末八幡宮を見て更に行くと千房地区に入り、長閑な田園地帯の中に一際目立つ赤レンガの塀と蔵が見えてくる。そして、すぐその隣にあるのが山口県文化財の「橋本家長屋門」で、説明書きによれば元は清末藩邸の裏門だったそうで、明治時代以降のシックな赤レンガ造りと、江戸時代の豪快な構えの門が隣り合って、何やら不思議な調和を見せているのもこれまた面白い。

田園地帯の南側を流れる神田川に架かる神田橋を渡るのだが、橋自体は最近架け替えられたらしいものの、渡り終えて振り向いてみると(写真下)、江戸時代に架けられたと思しき石橋の欄干の一部が残されているのが見える。本来なら、架け替えの際に全部撤去されたであろう欄干が、このような不自然な形ではあっても何とか残しておきたいという粋な計らいが垣間見える、何だかこそばゆい風景ではある。


神田橋を渡ると清末藩領から長府藩領の王司地区に入り、すぐ先で国道491号を横断して国道の左側(東側)を歩くようになる。右手には国道左手には山陽本線と言う景色が暫く続き、王司病院の横を過ぎた先の宇部地区と呼ばれる辺りには、一里塚跡の標柱が路傍に建っている。

街道は山陽本線の踏切を渡り、更に国道の下を潜って、今度は右手に山陽本線左手に国道2号(国道491号はここの才川交差点で国道2号と合流している)と言う景色の中を歩く。
右手にJR長府駅が見えてくるが、この間の街道はほぼ直線で見通しはいいものの、何せ車の交通量が多くて、センターラインの無い狭い街道幅なのに頻繁に車が往来するのには参った。道の右側四分の一位の幅は歩道としての路面塗装がしてあるのも構わず、車が歩道側にはみ出してくるのだから危ないことこのうえない。
わざわざ路面塗装してあるところを見ると、多分子どもたちの通学路にもなっているのだろうと思うが、一方通行にするなどの何かの対策をしないと、その内誰かが犠牲になるだろうなぁ。まぁ、何人かが死なないと重い腰を上げないのは、行政や警察のいつものことではあるが…。そう言えば、山口市大歳小学校近くの旧街道も、これと同じような感じの危険な道路だったのを思い出した。

この辺りから、ところどころに土塀の佇まいを見ることができるようになり、長府の城下町が近いことを感じさせる。前回歩いた時に、探したけれど見つけられなかったのが「狩野芳崖邸跡」で、今回もだめかなぁと思いつつも通りかかった中学生らしき女の子に聞いたところ、『あ、すぐそこですぅ』と思いがけない返事。古めかしい土塀の脇に、立派な石柱と案内板がひっそりと建っていた(写真下)。旧街道からは、一本西側の裏通りだった。

そう、幕末から明治期に活躍し「近代日本画の父」と呼ばれた狩野芳崖は、ここで生まれたのだナ。あの幕末の動乱期に、御用絵師として江戸と長府を何度も往復していたと言うのだから、絵描きと言えども命がけの生き様ではある。
とは言え、明治維新後は御多分に漏れず家禄を全て失い生活にもほとほと困窮した中で、フェノロサとの出会いと勧めによってあの名作「悲母観音」を完成させ、そして僅かその4日後には60年足らずの生涯を閉じたのだ。ナマンダブ…

街道はこの先(印内西交差点)で国道2号を横断し、すぐ先の印内川に架かる短い鞏昌(きょうしょう)橋を渡ると、長府府中と呼ばれる長府城下町の中心部へいよいよ入っていく。
ここから先の約200m位は「金屋町」と呼ばれる商店街で道幅も広くなり、両脇の商店も江戸時代風の店構えに統一して何とか観光客を誘い込もうという意気込みが感じられる。更にその先には「乃木さん通り」が続き、右手には乃木神社と忌宮神社があるが、共に前回ゆっくりと見て回ったので今回はパスした。
律令時代に長門の国府が置かれたのは、この忌宮神社の周辺だそうで、当然ながら、周防の国府が置かれた防府と同様に、この辺りには国分寺や鋳銭所も置かれていたらしいが、防府と違って今はそれを偲ぶものは国分寺跡などほんの僅かしか残っていない。

忌宮神社の先、壇具川の手前で街道は右折し、県道246号の標識を見ながら西進する。「古江小路」を含むこの辺りが最も長府城下町らしい雰囲気で、観光客も多く訪れているし、また壇具川沿いの脇道には、小洒落たカフェや雑貨屋なども沢山あって、そこかしこに賑わっている。
長府毛利邸を右手に見て道は左にカーブするが、すぐ右手に見えて来るのが、かの「功山寺」だ。前回もゆっくりと見て回ったのだが、ここはやはり郷土の英雄である高杉晋作に敬意を表して、再度立ち寄ってみることにした。もうかなりあちこちが傷んでいそうな、それでも威厳のある山門(写真下)を潜ると、一際身が引き締まるような思いがするのは気のせいだろうかナ。

…にしても、僅か80人の兵を率いてここで奇兵隊を決起することから始め、そして長州藩の藩論を「倒幕」に統一するやいなや、実際に倒幕に突き進んで成功への道筋を立てたその源は、一体何なのだったのでせうかネ?
日本國そして明日を担う子どもたちの行く末を、心から憂いそして念じていたに違いないと思うのだが、今の政治家や東電などの企業役員にも、もう少しでいいから見習って欲しいものだなぁ~。山口県出身と言われた先の首相が「奇兵隊内閣」とか何とか戯れ言を言っていたが、己の為でなく国のため他人の為に身命を捧げて奔走した高杉晋作を始めとする奇兵隊隊士に対して、余りに失礼千万なことだとオイラは思う。
ついでに、功山寺の脇にある長府博物館も訪れてみた。長府藩士であった桂弥一が私財を投じて建立した「長門尊攘堂」が前身だそうだが、三吉慎蔵や坂本龍馬、高杉晋作などとの間でやりとりした手紙も数多く展示してあり、合わせて白石正一郎などをも知る上でとても興味深いものだった。

功山寺を後にして前田地区までの暫くの間は、別名を「野久留米街道」と呼ばれる、比較的車の通行も少ない長閑な旧道をのんびりと歩くことができる。辻堂峠を越えて暫く坂を下って行くと前田簡易郵便局があり、街道はここから右へ辿るのだが、今日は足の調子もいいことだし、ちょっと回り道でそのまま県道246号を直進して、「前田砲台跡」へ向かうことにした。
以前から、国道9号を車で通過する際に前田砲台跡の看板は幾度となく見ているのだが、実は一度も立ち寄ったことがなかったのだ。国道のすぐ脇の少し高台にそれはあり、教科書でも見たような記憶がある写真と共に詳しい案内板が建っていた(写真下)が、それ以外には特に何もなく、眼下に関門海峡を見下ろしつつ青銅製の20門の大砲が並んでいた当時の有様を偲んでみる。

しかし、英・仏・米・蘭連合国軍の圧倒的な軍事力の前には全く無力だったこの砲台だが、ここでコテンパンに打ちのめされたことが逆に、攘夷から開国へ大きく藩論をターンさせる原動力にもなったことを考えると、あながち無駄な装備ではなかったと言えるのだろうかネ。
そしてこの地を占領された際にフランス軍が接収した大砲の1門が、150年の時を経て今は、先ほどの長府博物館に展示されているのだ。前田砲台跡は、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一つとして世界遺産暫定一覧表に既に記載されているそうなので、その内世界遺産に認定されるかも知れない。

元の街道に戻って「火の山」の麓を抜け、火の山ユースホステルの先から海岸方向へ降りて行き、みもすそ川交差点で国道9号に合流する。ここの「みもすそ川公園」には「壇ノ浦砲台跡」があり、長州砲とも言われるカノン砲のレプリカが関門海峡に向けてずらりと並んでいる(写真下)。前田砲台と共に奇兵隊が守備についていた訳だが、僅か1kmにも満たない目の前の関門海峡から放たれる圧倒的な連合国軍の火力には、さぞ肝を冷やしたことだろう。

この公園の南側には壇ノ浦古戦場跡碑も建っているが、よくよく考えてみると、1185年に源平の戦いがここ壇ノ浦で終結したことで鎌倉時代と言う武家社会が始まり、そして、それから700年近く後、1864年の馬関戦争で長州が大敗北を喫したことで攘夷から倒幕・開国へと進んだことが、武家社会の終わりを告げたことになる訳だ。
つまり、日本の武家社会の始まりと終わりのターニングポイントは共に「下関」だったのだナァ、スゲェ~ ……って、こういう風に郷土の歴史を教えてくれると、学校での歴史の授業ももっと興味を持ったのにナァ。中学校の歴史の先生方、頼みますョ…ホントニ

後は、左手に関門橋と行き交う貨物船を眺めながら、国道9号をひたすら下関駅方向へ向かう。カモメものんびりと、関門海峡か門司方向を眺めているのが微笑ましい(写真下)。


源平の戦いに破れ、八歳で入水した安徳天皇と平家一門を祀る「赤間神宮」を右手に見て更に進むと、亀山八幡宮が見えてくる。ここの鳥居の下には、「山陽道」と大きく彫られた道標が建っていて(タイトル写真)、山陽道の終点であることを示している。明治時代初期の写真では、ここの石段の先はすぐ海になっていて船着場があったようなので、今の唐戸市場や水族館などは後世に埋め立てたことが分かる。

さてと、旧山陽道はこれでようやく広島市から下関市までを完全に踏破したことになるのだが、そのままついでに、ぶらぶらと裏道を下関駅まで約30分程歩き、JRで帰宅することにした。本日は5時間半の歩行で37,708歩だった。

山口県内の主要街道は、山陽道、萩往還、赤間関街道3ルート、肥中街道、石州街道、舟木街道・瀬戸崎街道、秋穂街道と、めぼしいところは全部歩いてしまったが、さぁて次はどこにしようかナァ~

2012年1月2日(月)

皆様、新年明けましておめでとうございます。
6月で63歳になるチョィワル・エロオヤジですが、今年もアラカンパワーを炸裂して参りますので、どうぞ宜しく。

…と言う訳で、今年最初の買い物は「Bluetoothワイヤレスキーボード」なのだ。例によってAmazonだが、税込み6,708円というお値段で、ま、価格相応またはそれ以上の品物であるとお薦めできるので、ちょっとだけ紹介。
タイトル写真のように型式は「RBK-2000BT3」で、「英語(US)配列」と書かれているのが、Androidスマホに最適な訳で、間違っても「日本語(JIS)配列」の物を買ってはいけない。そう、当然のことだが、AndroidはUSキーボードが対象なのだ。
ま、もし間違って買っても、記号や特殊文字がキー印字通りに出ないだけで、キートップを張り替えるか、スマホ側のFEP(日本語入力システム)の設定変更で対応できなくもないみたいだが…、面倒臭いわナ。
これと同じような製品は、おなじみの「エレコム」や「サンワ」など多くのメーカーから販売されているが、価格と性能それに量販店で実際に触ってみた限りでは、この機種がオイラに一番しっくりきた。あ、スマホはauのIS13SHだ。

物理的な仕様で言えば、二つに折りたためて付属のケースに入れて持ち運びに便利、着脱式の内蔵スタンドにスマホを立てて使える、キートップに余計な「かな表示」が無くてスッキリ、キーの大きさは普通のPC用のキーボードとほぼ同じ大きさ、など。

単四電池(二個)は付属していないから別途用意することと、当然ながら、1.2Vのエネループでも全く問題なく使用が可能なのは嬉しい。
電源のオン・オフスイッチは付いていなくて、二つ折りを開けばオン閉じればオフという明解さと、開いたままでも10分間キー入力が無いと自動的にスリープ(省エネ状態)になり、どれかのキーを押すことで数秒後にスリープが解除される。単四電池ではあっても、電池の消耗はほとんど気にする必要は無い。

ペアリング(Bluetooth機器同士の認証)は頗る簡単で、マニュアル通りにやれば誰でもできるし、一度ペアリングを行えば次回からは機器同士が勝手にやってくれるので、何も考えなくていい。また、4台までの機器とのペアリング情報を記憶する機能(マルチペアリング)もあるので、このキーボードを複数の機器に使うこともできる優れものだ。


実際に使ってみて分かったのは、特にメールやブログへの書き込み時に、日本語入力自体のストレスがほぼ無くなったことはもちろんだが、上下左右のカーソルキーが意外に有効で、スマホの画面上を自由にカーソル移動ができるのは何とも嬉しい。
今までスマホでイライラしていたのは、例えばメール本文を入力中に、5行前の行の途中に修正したい箇所を見つけたとしても、そこへカーソルを持っていくのに一苦労していたことだ。ま、白魚のような細い指先の人なら簡単なことでも、オイラのようなグローブのような指では、なかなか目指したポイントにカーソルを持って行けずにイライラするのだ。それと、フリック操作による文字候補の選択間違いや、QWERTYキー表示にした時の誤入力なども、すべてこれで「オサラバ」できたのだ。

まぁ、全角の数字や記号が、スマホ側のモードを一々切り替えなくてもダイレクトに入力できるだとか、shift+スペースで半角・全角が即座に切替え可能だとか、普通のキーボードで当たり前にできることがそのままスマホでもできるというのが、当然ながら嬉しいのだ。

てな訳で、スマホをお持ちの方には、是非これはお薦めですぅ。

2011年12月17・18日

10年来のファンである、鬼束ちひろさまのライブに行ってきた。有楽町駅前にある「東京国際フォーラム」のホールAという大きなステージだから、果たしてちひろさん大丈夫かなぁと不安な気持ちを抱きつつ行ってはみたのだが、ほぼ予想通り(?)、散々な出来だった。
タイトル写真のように座席は33列42番だから、客席全体では「中程の少し後寄り」で、従って彼女の表情を肉眼で捕らえるにはちょっと難しい程の距離だが、最近の報道で見られるような「ケバい」メークではなさそうなのは何とか見て取れる。

…にしても、暗闇から、セットの中で横たわった状態でいきなり登場したのはいいが、1曲目の「Sweet Rosemary」そして、「青い鳥」「Everyhome」と続くのに、音程の外し(外れ?)具合が一向に良くならないのはどうだろう。多分、音程に少し敏感な人だと、気分が悪くなってしまいかねない程の外し具合だ。
比較的最近の、歌手としての彼女の酷い状況はネットを通じて分かっていたので、ある程度は覚悟していた。しかし、体調がどうのとか、トレーニングが不足とかのレベルではなさそうで、今の状態の彼女はもう、楽曲の意図やイメージを、「プロの歌手」として「ライブでの歌唱」で聴衆に伝えることはできない存在になってしまったように感じた。

とは言っても、彼女はまだ31歳という若さだし、歌唱力が以前より落ちたとしてもそれで彼女の魅力が無くなった訳ではなくて、他にいくらでもやり方はあると思う。因みに、カバー曲の「Time After Time」では英語歌詞だからかどうか、あまり音程の外れが気にならないように感じたところを見ると、思い切ってUSAにでも行ってボイストレーニングを基礎からやり直し、英語の歌詞を自由に書ける才能もあるのだから、USAで音楽活動を地道に始めてみるのもいいかも知れない。
いずれにせよ、今後について重要なのは、彼女自身が、自分の体調を含めた状況を客観的に理解し判断できるかどうか、そして、プロデューサを始めとする周囲のスタッフが、彼女に対してストレートかつ長い目でみた心からのアドバイスを掛け続けることができるかどうかが、鍵になると思う。

それにしても、既にネット上に出ている低俗マスゴミの「魂を振り絞るかのような圧倒的な歌声」だとか、「実力と魅力が余すところなく発揮されたステージ」なんて、お決まりの無責任論評には全く呆れてしまうワィ。
実際の会場では、ちひろさんとお客との、投げやりな短い会話が結構面白かったのだ。
曲間も静かで大人しいお客に対して、ちひろさんが突然『何か行ってよ!』だったり、女性客の『ちーちゃん大好き』には『私も』と答えるのに、男性客が『愛してる~』と言うと、『あんたは知らんっ!』てな始末。
また『次のツアーの予定は?』と客が聞いても、『無い!』の一言で終わったり、怨念を込めて『いまいましいEMIめぇ~』と叫んでみたりと、この辺りは鬼束節も絶好調だった。

ちひろさんが音程外しまくりで聞くに堪えなかったのと対照的に、ピアニストの坂本昌之が奏でるピアノの演奏と音色はとても流麗で、ちひろさんのマイクを通した音声はクリッピングレベルに達して歪んでいたのに(明らかに、リハーサル時の設定ミスと思う)、ピアノはライブの最後まで絶妙な音色を聞かせてくれたのがとても皮肉だった。

てな訳で、お目当てのライブは散々だったのだが、今回の最大の収穫は往きも帰りも、綺麗な富士山が出迎えてくれたことで、日頃の「行いの良さ」がこんなところに現れたのだナ…ェヘン


往き(新富士駅付近)


帰り(小田原駅付近)

関東赴任時の6年間には都合百回近く山口東京間を往復したが、今回のように往きも帰りも絶景を味わえたことはなかったのだ。………ン? ってぇことは、今までは日頃の行いが悪かったのか? …(爆

2011年12月11日(日)
今年8月の「山口薪能」以来、久し振りの能楽鑑賞に出かけてきた。関東に居たときは、例えば毎週でもどこかの能楽堂で自由に能を楽しめていたのだが、いかんせん山口の田舎では、年に数回程度しかその機会が無いのは寂しい限りだ。
山口から関東に転居してすぐは、気軽に超一流の芸術に触れることのできることに大きく感激したものだが、しばらく居る間にその感激も次第に薄れてしまい、再度、山口に帰ってみて改めてその落差に落胆してしまったのだ。そういう意味で、関東に住んでいる人はある意味幸運なのだが、果たしてどれだけの関東人がそれを実感しているかどうか。ま、仮に実感していたとしても自ら実行しない人が、私の周りにも多くいた訳だがネ。

ともあれ「防府能」だが、以前は防府天満宮で「薪能」が奉納されていたのが、10年で終わってしまった後にこの催しが始められたと聞いている。能楽があまりメジャーな芸術ではないこの地で、隔年開催とは言え既に9回も継続されたことも驚きだが、ひとえに、日本でも数少ない女流能楽師の長宗敦子師(防府市在住)を始め、観世流の「防長閑祥会」の方々による多大なご尽力があってこそと思う。
室町時代から現代まで延々と600年以上も続いてきたこともさることながら、日本人特有の感性を「静の中の動」として観衆の想像力に訴えるという、世界でも他にあり得ない完成された芸術を、何とか後世にも伝え続けて欲しいものだ。


演目は次の通り(敬称略)。
■解説 稲田秀雄(山口県立大学教授)
■独吟「葛城」 三輪修太郎
■舞囃子「高砂〜八段之舞〜」 長宗敦子
■狂言「口真似」 茂山良暢
■仕舞「笠之段」 津田和忠
   「網之段」 関根知孝
■能「蝉丸」 関根祥丸、関根祥六、福王知登、茂山良暢

以下、感じたことを幾つか書いてみる。…多少の辛口はご容赦を。
・稲田教授の解説は、能楽の初心者にとってはそこそこ参考になったかも知れない。…が、逆に、初めて能楽を鑑賞する方にはマナーとして事前に予備知識として入れておいて欲しかった内容であり、更に、全部の演目について触れられたので結局焦点がぼやけてしまったように感じた。教授が、是非今日はここに注目して欲しいと思った内容に絞って頂いたほうが良かった。『まぁ~』や『えぇ~』の口癖や「自己笑い」ばかりが気になってしまい、もしこれが大学の講義だったら、オイラは聞きたいとは思わない。
・長宗敦子師の「八段之舞」は、以前見させて頂いたときよりも「舞のキレ」と言うのか或いは「舞さばき」と言えばいいのか、一つ一つの舞の所作がキリッと決まって、とても気持ち良く感じた。大変失礼ながら、お歳を経るに従って、却って軽快かつ優美な舞に感じられるのはどうしてでしょう?
ただ、謡の部分はやはり女性の限界なのかどうか、謡が囃子方に負けてしまう部分もあるのは仕方がないのでしょうか。
・茂山良暢師の「口真似」は、やはり流石はプロだと唸らせる朗々とした台詞回しで、PA(拡声装置)が一切無いステージであっても、これだけ大きなホール内に響かせることができることを再確認できた。
・そしていよいよ「蝉丸」だが、特に前半部分で、平成5年生まれの関根祥丸師演ずるシテツレ(蝉丸)と昭和56年生まれの福王知登師演ずるワキとの、若手コンビによる主従の掛け合いの、何と爽快でありつつも荘厳なことか。例えまだ若年であっても、厳しい能世界の研鑽を積んでこられた方達の凄さを感じる。この対比もあって、後半、関根祥六師のシテ(逆髪)の演技が、「姉宮」というよりも「老女宮」に感じられてしまったのはちょっと皮肉ではある。ま、それは、オイラの感性が未熟だと言われれば、その通りだが…。
囃方では、曲の全般を通して、大鼓の白坂保行師が相変わらず通りのいい鼓の音と合いの手を聞かせていただいたのに比べて、笛の音色と響きが今一だったのは残念。
・観客の様子はどうだろう。悲しいかな、演能の真っ最中でも平気で自分の荷物を出し入れして『シャカシャカ』と平気で雑音を出しまくったり、ヒソヒソと隣同士でお喋りをはじめたりと、観客マナーはかなり最低のレベルであったのはここらでは仕方がないのかナァ。
おまけに、シテが揚幕に去るやいなやの盛大な拍手には、ちょっと面食らってしまった。ここは、姉弟が『かすかに聲のする程聞き送り、顧みおきて泣く泣く別れ』るところだから、その別れの悲しさ切なさに暫しの間浸ると共に、姉弟のその後の行く末を、観客それぞれの感性で案ずる時間である筈と思うのだが、間髪をおかない拍手でそれを見事に打ち消されてしまった。思わず拍手をするのを忘れてしまうほどの感動は、皆さんには無かったみたいだ。
ただ、関東で能を鑑賞した時は、全ての観客が、演能後に囃方が舞台を下がる頃になってようやく思い出したように拍手をしていたところ見ると、オイラの感じ方もそう違ってはいないと思うのだがネ。
・しかし、防府市公会堂の客席の狭さや窮屈さはどうにかならないものかねぇ。建物自体もかなり古いとは言え、内部だけでも改装して欲しいものだが、今の防府市長に文化や芸術を理解してもらうのは………無理だろうなぁ~

2011年11月19日・20日

職場の親睦旅行で島根・鳥取へ行ってきた。
山口市からバスで山陽自動車道~広島JCT~中国自動車道~三次IC~国道54号と辿って、まずは「島根ワイナリー」へ向かい、バーベキューの昼食を摂る。その後は、ワインの試飲館「バッカス」(すごい名前だなぁ・・・)で、次々とワインを飲み比べてみる。飲み始めの2・3種類の内は、『あ、これいいなぁ』とか『ちょい甘いわぁ』とか言いつつ呑んでいたが、段々調子に乗ってきて10種類位飲み干した頃には、どれがどれだか分からなくなってくる始末・・・ビンボー人はすぐにこれだから、モォ~

続いて、古代出雲歴史博物館を訪れて出雲の歴史に少し触れてみるが、大量の弥生時代の青銅器と、古墳時代の豪族を飾った金銀の大刀には圧倒される(写真上と下)。

それぞれの説明も非常に分かり易く、また展示にも工夫を凝らしてあって、弥生時代に容易にタイムスリップできるのは流石だ。
出雲大社に参詣した後は、そのまま一路本日のお宿である玉造温泉に向かう。「佳翠苑・皆美」は、洗練された見事な庭園と、行き届いた館内スタッフの接客が気持ちいい、かなり上等の旅館だった。夜2回と朝1回の、いつもの温泉入浴パターンはしっかり守り、本日の旅の疲れ(・・ンナものはチットモないが)を癒したのであった。

翌朝は、まずは山陰自動車道に乗って安来市の足立美術館へ向かう。美術品にはあまり興味のないオイラだが、ここの庭園の景観にはちょっと度肝を抜かれた(写真下二枚)。


念の入った手入れや造作は勿論だが、職人の心意気なんぞももうとうに通り越して、はや芸術の域に達していると思えるのは、間違いないだろう。日本に生まれて良かったぁ~と感じることのできる、貴重な瞬間だ。

続いて米子駅からはJR境線(写真下)に乗車する。乗ったのは「めだまおやじ号」(…らしい)だ。

境線は、本来の各駅名の他に妖怪名のサブ駅名がついていて、その妖怪のイラストと説明書きが駅のホームに立っているという、夜中に一人で降り立つとちょっと不気味と思える光景ではある。地元の人はもう慣れているのかも知れないが・・・・
田園地帯を、ゆっくりのんびりと車窓の風景を楽しみながら、米子空港駅で降りて迎えのバスにのり、境港の「水木しげるロード」へ向かう。

境港駅前から水木しげる記念館までの約800m位に渡って、これでもかっと言う程に妖怪達が出迎えてくれる(写真下)。

何せ、139体もの妖怪さまがここにはおわすので、いちいち挨拶していたらきりがなくて、通りを歩き終えてしまう頃には妖怪ということを忘れてしまい、何かのアイドルキャラクターのように思えてくるから不思議なもんだ。
結構な人通りもあり、お土産屋もそこそ繁盛していたようだから、新たな観光資源としての試みは成功していることがうかがえるが、これを持続させるために多くの方々がご努力されているのだと思う。頑張ってほしいものだ。

ってな訳で一泊二日の駆け足山陰旅行を終え、バスは米子自動車道から落合JCTで中国自動車道に入り、広島北JCTを経て山陽自動車道に戻って、帰路に着く。お疲れさんどしたぁ~

2011年11月12日(土)

前回が10月9日だったので、ほぼ一ヶ月余りウォーキングをお休みしてしまった。休日の度に野暮用ができたり、用事のない日は天気が悪かったりだったが、ようやくのことで今日は歩き始めることができた。
前回の続きで船木(茶屋)からスタートし、国道2号を行ったすぐ先の新川交差点から左の旧道へ入る。雑木林の手前右手に、資料によれば厚狭毛利家儒医であった長谷川家の立派な門があることになっているが、写真(上左)のように藪と雑草に覆われて見る影もなくなっていた。このような歴史的な建造物だけでなく、普通の一般の民家でも、どんどん無人・空き家化が進んでいるのを目にするのは、何とも切なく寂しいものだ。
すぐに国道2号に合流し、小さな峠を越えると県道349号との銭ヶ原交差点だが、この交差点の左側を、国道に沿うように僅か100m位だけ旧山陽道の残骸を見ることができる(写真上右)。標識も何も無いので、意識せずに国道を歩いてしまうと見落としてしまう程だ。その少し先にも、同じような旧道が左手の田圃の中を抜けている。

やがて逢坂バス停からは今度は右手の登り坂に旧道が続いていて、「千林尼の石畳路」「山陽街道」と書かれた案内板が建っている。ここの石畳は今はもう僅か5m程しか残っていなくて(写真下左の中程に僅かに見える)、その他の部分はご覧のようにアスファルト舗装されてしまっている。当然、住民の生活道路だろうから舗装することは致し方ないとは言え、これもまたやるせない。この石畳ができたのは慶応年間と言うから幕末の時代だが、千林尼が悪路に難渋する人々を見かねて、自ら托鉢した浄財を注いで600mもの石畳を造成したとのことだが、現代ではもう忘れ去られようとしている。

その先に、千林尼が住んでいたという逢坂観音堂と千林尼の墓石があり、その脇から藪の中に旧道は続く(写真上右)。写真左側の暗く見える入口がそれで、入口左には写真のように「史跡 山陽街道の一部(残存)」と書かれた案内標柱が建っている。
ここから国道に合流するまでの道は、途中までは下刈りがしてあって歩き易いのだが、後半はほぼ藪の中で、高く生い茂った雑草と蜘蛛の巣を払い除けながらの歩行になる。

国道に合流した地点は、近年開通した「厚狭・埴生バイパス」と旧国道2号(現県道225号)との分岐点になっていて、旧山陽道は暫くは県道225号を西見峠に向けて登って行く。西見峠で宇部市(旧厚狭郡楠町)から山陽小野田市(旧厚狭郡山陽町)へ入る(写真下左)。

峠の頂上から少し下ったところで左に分かれて下るのが旧道で、その分岐点には目立たない小さな道標が建っている(写真上右)。道標には「左 旧山陽道」と彫られていることから、それほど昔のものではなさそう。

旧道は道標から更に左に下り、FDKの工場正門前を過ぎて、いよいよ厚狭の旧市街へ入って行く。厚狭川の少し手前左に、前回歩いた時にも立ち寄った「もりなが松蔭堂」があり(写真下左)、ここで自家焙煎のコーヒーと「玄米おはぎ」を美味しくいただいた。念入りにいれていただくとても香ばしいコーヒーと玄米おはぎの組み合わせは絶妙だし、気さくなお店のおねぇさんは、オイラが前回歩いて立ち寄った時のことを覚えていて、逆に感激してしまった。厚狭の街並み全体は既に、昨年の大洪水被害からは立ち直っているように見え、ここのお店もお客さんが次々に来られる程に繁盛していたのが何となく嬉しい。

厚狭川を渡ったところの左角に、「右 あつ」「左 はぶ下の関」と書かれた道標が建っていて(写真上右)、旧道はここから厚狭駅新幹線口方向へ左折する。つまり、ここを直進して現在の厚狭駅在来線口に続く駅前商店街は、山陽本線の厚狭駅ができて以来のものということになる。
新幹線と山陽本線の高架を潜って厚狭駅の南側に出ると、所謂「条理遺構」と呼ばれる整然と区画整理された田園地帯と、近年再開発されて建てられた住宅や文化会館などの施設が建ち並ぶ。が、道はあくまでも「条理」の名の通り、真っ直ぐに真西へ延びて行く。

小さな川を二つ渡った辺りから、再び旧街道らしい雰囲気の道に戻り、やがて小さな峠を越えて下ったところで道が二手に分かれ、そこにも「右 吉田道」「左 はぶ道」と彫られて少し右に傾いた道標が建っていた(写真下左)。ここを、写真の右に伸びる方向へ進み暫く行くと、少し先に山野井八幡宮の社が見えてくる。

山野井八幡宮に参詣し、例の如く今日の無事を感謝して、更に県道225号(旧国道2号)を横断して、長閑な木立の間を抜けて往くと、道の左手に曰くありげな祠が見えてくる(写真上右)。資料によれば、「山野井お駕篭立場跡」らしいのだが、案内板も何も無いので推測するしかないのは残念。どのような由来でここに駕篭立場が作られたのか、そしてどういう役目を負っていたのかなど、何らかの説明書きが欲しいところだナァ。

この先暫くは山陽本線の線路を右に見たり左に見たりしながら、山陽国際GCの北側を通って福田地区へ向かう。
福田八幡宮の前から一旦県道232号を歩くが、200m位先で大きく左に曲がるカーブの所に、「右 吉田道」「左 埴生道」と彫られた小さな道標が建っていて(写真下左)、ここから右へ入る。

そして右折したらすぐに、今度は左の民家の間の小径の方へ入って行く。写真上右の左端に見える小さな路地がそれだ。この路地に入り損ねてちょいと行き過ぎたところに「旧山陽道 左 吉田へ」と書かれた案内板が建っているが、ちょっと位置的には微妙(遅い)と思われる。

ここからは蓮台寺峠へ向けてひたすら山道を登って行くことになり、今日のコースの中でも一番の難所でもある。用心の為に熊避け鈴を取り出し、道に転がった枯れ枝を手にしてザッザッと、わざと音をたてながら藪の中に入って行く。
とは言え、前回歩いた時はかなりの藪道だったのが、今回は結構下刈りがしてあって、思いの外歩き易かった。ただ一箇所だけ、山からの清水が旧道に常時浸水している所があって、長靴でないと歩けないのは前回と同様だった。今回も、スーパーのレジ袋を二つ用意していたので、これを靴に巻き付けて難無く踏破できた(写真下左)。

蓮台寺峠を越えると下関市に入り、道もアスファルト舗装されていて、ほっと一息つける。坂を下っていると、ドイツのビール祭りに出てきそうなやたら恰幅のいいおじさんに、『旧道を歩いてきちゃったかいのぉ』と声を掛けられた。オイラは『きれいに下刈りがしてあったので、歩き易かったです』と言うと、『そうじゃろぉ、一昨日ワシが刈ったばかりじゃけぇ』と言われ、心の中で「ビール祭り云々」を返上して、丁寧にお礼を申し上げた。
『ワッシャァ、毎日ここで山仕事をしちょるがのぉ、まぁ月に何人かは、あぁたみたぃに旧道を歩いちょる人に出会うぃのぉ。中にゃぁ東京から来たちぇな人もおるけぇ、そねぇな人に申し訳ないからたまに下刈りをしぉる』と言われて、何と有り難いことだと感激すると共に、このおじさんが急に大好きになってしまった。
その先の川久保方面からの市道(?)と合流する地点には、「右 蓮台寺」「左 川久保」と彫られた小さな道標が少し右に傾いて建っていた(写真上右)。

山陽自動車道を潜り、県道260号をそのまま吉田地区へ向かう。ちょうど突き当たりになるところが赤間関街道中道筋との合流点になり、ここには、「右 上方道」「左 萩道」と彫られた大きな道標がある(写真下左)。更にそのすぐ後側には「吉田旧街道」と彫られた比較的新しい道標も建っているが、写真のようにいずれも電柱の支えワイヤーとその黄色い保護材が見事に邪魔をしているという、悲しい風景ではある。

ここから先の赤間関までは、旧山陽道と赤間関街道中道筋は同じ道となり、今日の歩行予定もここまでの積もりだったのだが、歩き始めてまだ4時間半程だったので、ついでに小月まで行ってみることにした。
また、吉田集落には、高杉晋作を始め奇兵隊隊士の墓がある東行庵や多くの史跡があるが、前回と赤間関街道を踏破したときに既にゆっくり回っているので、今回は素通りすることにした。吉田大橋を渡ってからは、県道33号の木屋川西岸土手をゆるゆると下って行く。
新幹線高架のすぐ手前に、右の山手に入る旧道が300mばかり残っていて、山側からの急斜面伝いに県道を足下に見下ろしながら、用心深く山道を行く。
旧街道は小月製鋼所の少し先から県道を離れて右へ逸れ、二つの堤を左下に見ながら小月小学校の正門前を抜ける。正門前の路傍には「旧国道」と彫られた立派な道標が建っているが(写真上右)、なぜ「旧国道」なのかの意味を、ここの小学生達はきちんと理解しているだろうかネ。そして先生達は、この道標と街道に纏わる郷土の歴史的な意味を、ちゃんと子どもたちに伝えているだろうかが、何となくちょっと気がかりではある。

その先を右折して小月八幡宮の前に出、今日のウォーキングもどうやら無事に終われそうであることを感謝して参詣し、国道491号を横断する。まもなく、小月八幡宮の御旅所が右手にあり、そこには「日本一」と説明板に書かれた巨大な庚申塔がデンと鎮座している(写真下左)。何が「日本一」なのかと言うと、何でも、この庚申塔に彫られている文字の中に、米二升が軽く入るとか、確かに、オイラが県内でこれまでお目にかかった百余りの庚申塔の中では少なくとも一番デカい。

小月本町で三叉路に突き当たり、これを左折して南下する。三叉路から100mばかり行った交差点をを右折するのだが、この交差点には「右 かみがたへ」「左 とよたへ」と彫られた大きな道標とその説明板が建っていた。前回歩いた時はこの説明板は無かったので、最近整備されたものと思われる。ただ、小月宿の歴史が的確に記述されているのはいいのだが、旧山陽道と赤間関街道中道筋との合流点であることも明確に記して欲しかった。

交差点を右折した後は、江戸時代の小月の歓楽街である「見廻り通り」を抜けて小月駅へ向かい、ここからJRで帰宅することにした。5時間半の歩行で40,759歩だった。次回は、清末から長府を抜けて壇ノ浦に至り、終点の赤間関を目指すことにする。

★今回の道程では、「道標」が小さな物から大きな物まで結構沢山あったので、それを全部掲載しようとして写真の枚数が多くなってしまった。そのため、前回までと違って、写真のサイズを小さくして横に二枚並べてみたが、ページ全体の見易さはいかがでせうか?
 1.今までの写真のサイズ(800×450ピクセル)の方が見易い
 2.今回のサイズ(400×225ピクセルの二枚横並び)の方が見易い
 3.今までのサイズで、写真の枚数が多くてもよい
などなど、是非ご意見を書き込んでください。

2011年10月9日(日)

このブログは、2009年の4月に「長州ウォーキング」として再開したのだが、実はその再開前の3月に、下関から小郡までの旧山陽道を5日間に分けてまったりと歩いたことがあって、その時はブログに掲載するつもりがなかったので大して写真も撮らなかった。小郡から広島までの分は既にブログにアップしてあるので、今回は逆コースの小郡から下関に向けて歩いてみることにした。

朝9時に旧小郡町の田町(というか、津市上)交差点をスタートした。ここには
「右京江戸道 左萩山口石見道 牛馬繋事無用」と彫られた道標(実際は複製)が今でも残っているが、古来からも、勝手に道標に牛馬の手綱を繋ぐ不届き者がいたと思われるのが、何とも可笑しい。
ここは防府方面から来た旧山陽道が石州街道と交差して左折するところで、ここの東側の角には、オイラが幼少のみぎりには「寿座」という劇場があって、歌舞伎や映画をやっていたのを今でも覚えている。確か保育園児の頃で、映画好きの母に連れられて何度か入った記憶はあるが、何を鑑賞したのかは定かではない。

旧山陽道はここから西へ、津市・明治・長谷・柏崎と旧小郡町の街並みを抜けて行くのだが、ちょうど6年前の平成17年に旧小郡町が山口市と合併した際、これらの小字名は使われなくなって、全部が「小郡下郷XXXX番地」に統一されてしまった。地図表示からもこれらの小字名が全て消えてしまい不便極まりないのだが、相変わらずの無責任なお役所仕事ではある。

小郡を離れると暫し田園地帯になり、やがて嘉川地区に入る。この嘉川地区では、昔からのいろいろな旧跡を見直して、それらの説明を兼ねた案内標識をあちこちに建てていて、前回(2009年3月)に歩いた時には無かった標識を多く見かけるようになっていた。
その一つが、幸之江橋の袂に建てられた「山陽道と白松道の道しるべ」(写真上)で、ここが山陽道と阿知須・床波方面へ向かう白松道との追分であることが分かる。このような道標と説明は、旅人にとってはとても有り難いものだ。

幸之橋交差点を過ぎて、県道335号(旧国道2号)の一本西側に残る旧山陽道をのんびりと往く。ここは高根地区ですぐ右側の熊野神社を過ぎたところの左側路傍に、突然「天満宮みち」と彫られた石標があり吃驚する。古の人もこの道を辿って防府天満宮へ参詣したのだろうか?
道はやがて国道2号に合流し、割木松峠の登り坂にかかる。しばらくは大量に行き交う車の騒音を我慢しながら登って行くと、峠の頂上に「周防・長門国境碑」(写真下)の横を通り抜ける。この碑も、国道を車で通ると間違いなく見逃してしまうので、写真の右側に見えるレストラン「おいはぎ峠」で食事を摂った際は、是非見ておくといい。


割木松の峠からは宇部市に入り、温泉付き(…らしい)ラブホを右に見て、のどかな旧道が少しの間下り坂の右手にある。国道2号を右に左に逸れながら宿場の山中市を過ぎ、二俣瀬地区に入る。国道490号と交差する車地交差点から左に旧道は続き、二俣瀬小学校や男山酒造場を過ぎて木田橋で厚東川を渡る。
二俣瀬地区の国道2号西側に僅かに残る旧道の後に、一旦国道に合流してすぐにまた西側の旧道を往くと、瓜生野区公会堂が右手にあり、この角に「殿様道(山陽道往還跡)」と書かれた道標が建っている。舗装路から外れて右手の山側にこの道を辿ると、暫くして別の舗装路を横切るが、ここにも先程と同じように「殿様道」の道標が建っている(写真下)。

…が、ここから先暫くは道無き道を進むことになる。写真の中程奥、藪の中に暗く見えるのが…ソォレダァ。
この道を歩こうと思う人は、季節や天候をよく吟味してからにすることをお薦めする。まず、蚊や虫が盛んに活動する夏場は止めた方がいいし、また1週間位は雨が降っていない日を選ばないと、足下が大変なことになり、ヘタをすると足を取られて動けなく恐れもある。この「殿様道」は別名を「どんだけ道」と呼ぶそうで、その名の通り「どんだけ」大変かを予め覚悟するように。

どんだけ道を通り過ぎると吉見地区に出て、県道37号を横切る。県道との交差地点にも「道路史跡・山陽道跡」と書かれた標識が建っているのだが、旧山陽道はどちらへ行けばいいのかは書いてないという、頗る不親切な標識だ。街道はそのまま県道を横切り、田圃の畦道を直進して小さな橋を渡ると、正面の山裾に「←旧山陽道」と書かれた比較的新しい標識が見えてくる(写真下)

写真のようにここからの道は、多分、地元の方々のお陰と思うが綺麗に下刈りがされていてとても歩き易く、気分も自然にウキウキしてくる。同じ標識は、厚東中学校側の舗装路に出る場所にも建ててあり、共に前回歩いた時には見なかったものなので、最近になって整備していただいたものと思われる。とても有り難いことだ。

ここから暫く、県道219号と合流する下岡交差点までは国道を歩くしかないが、交差点のすぐ先に新幹線の高架下を潜るように左に折れる道があり、これを往く。右手の小山をぐるっと回り込んだ後に、再度国道2号に合流し、右手にラブホを見ながら吉見峠の登り坂を登って行くが、この峠の前後は歩道が無い道が続くので、特に大型車には注意が必要だ。
吉見峠を過ぎて船木地区に入り、峠から500m位下った辺りで、街道は左に逸れる小径となる。宇部興産専用道路を潜る手前では、赤い涎掛けを掛けられた地蔵さまが、旅人を見守ってくださる(写真下)。※涎掛けでいいのかそれとも褌(ふんどし)でいいのかが、よく分からない。どなたか教えてください。


そのすぐ先左手には一里塚跡の案内板があるが、大師堂やお地蔵さまがあるのみで一里塚そのものは今は見当たらない。やがて、「船木宰判御高札場跡」の案内柱を左に岡崎八幡宮を右に見ながら、旧道は船木市へと入って行く。船木市のほぼ中心部にある「旅人荷付場跡」の案内柱の先には、宿場町の趣きを今も残す落ち着いた街並みが続く(写真下)。


予定では、今日はこの先の厚狭まで行く積もりだったが、久し振りの歩行だからか少し足に疲れを覚えたので、無理をせずに今日はここまでとした。4時間半の31,290歩だった。


旧山陽道(船木⇒小月)へ続く