2012年10月20日(土) その1からの続き

一升谷の下り坂には、そのちょうど中程に見事な石畳があり(タイトル写真)、街道の左手に沿うようにサラサラと流れる渓流と共に、ゆっくりと往時を偲びながら木立の間を歩いていける。
更に下って明木市(あきらぎいち)のすぐ手前で国道262号の地下道を潜ると、赤間関街道中道筋の分岐点があり、その先で三叉路に突き当たる(写真下)。

この道が旧国道262号で明木市のメーンストリートなのだが、今は写真のように人も車もほとんど通らずにひっそりとしていて、逆に、道の真中を堂々と歩けるので気持ちがいい(ヲィヲィ)。

ストリートの中程には、「明木市てくてく見て歩き」と書かれた案内板が建っていて(写真下)、楽しい絵柄と共に、ここの説明や宣伝が簡潔に記されている。よく見られるありきたりの案内板に比べると、遥かにこちらの方が見やすくて、読んでいても楽しくなる。


明木橋を渡って明木市に別れを告げ、更に少し往くと、国道が「道の駅萩往還」方面に分かれる辺りに、「吉田松陰短古石歌碑」がある(写真下)。

安政元年に下田での密航に失敗し、囚われの身となって萩へ護送されてきた際に、この明木の地で詠んだのがこの五行の詩らしい。この時、松陰は弱冠24歳だ。
 少年有所志  少年(の頃に)、志すところあり
 題柱學馬郷  柱に題して馬郷を学ぶ(中国の故事)
 今日檻輿返  今日、檻輿の返(そして今は、檻に入れられて返ってきたが)
 是吾晝錦行  是れ吾、晝錦の行(私は故郷に錦を飾る思いなのである)
罪人となり、並の人間なら恥じ入るであろう身でありながら、この堂々たるそして血気盛んな心意気はどうだろう。
この後、野山獄への幽囚と杉家での幽閉に続いて、安政四年から松下村塾での指導にあたり、短期間で多くの憂国の志士を育てたと思ったら、安政五年には倒幕を企てたことで再度野山獄へ幽囚され、続く井伊直弼による「安政の大獄」で江戸伝馬町牢屋敷に送られ、そして安政六年に満29歳で斬刑に処されたのだナ。
20代半ばにして、このような自己に対する強烈な自信を持っていたことにも驚く他無いが、密航や倒幕などの、当時の世間一般では考えもしないことを実行に移そうとした行動力にも、これまた畏れ入るばかり。

暫くは田園地帯をゆったり進み、街道はやがて鹿背坂への山道に入るのだが、街道とは少し別れた所に明治期に開通した「鹿背隧道」が今も残っている(写真下)。

今はほとんど人馬が通ることもないトンネルだが、明治期にできた石造りトンネルとしては大変希少かつ、国内最大の長さ(182m)だそうで、国登録有形文化財に指定されているのだ。

「鹿背隧道」を後にしてひたすら山道を登り、峠を過ぎて今度は鹿背坂を下って行くと、その先が「道の駅萩往還」だ。

その3へ続く

2012年10月20日(土)

前回の続きで、愈々最終行程の佐々並から萩市内まで(寄り道無しなら約20km)を、ゆるゆると歩いてみた。
自宅から佐々並まではマイカーで行き、JA佐々並の売店で飲み物他を仕入れて、さて車をどうしようかと思い、このままJA佐々並の駐車場に置いておくか、それとも、道の駅か佐々並支所へ移動させておくか、暫し迷ったのだ。
が、どうせ17時頃までには帰ってこれるだろうとたかをくくって、そのままJA佐々並の駐車場においたままにして歩き始めることにした。・・・・・・これが、後々の悪夢に繋がることになるとは、この時は夢にも思っていなかったのだぁ~。
そぉ、あの「なぎらけんいち」の「悲惨な戦い」の様な光景なのだぁ~   (・・・古いか)

佐々並橋を渡り右手に西岸寺を見ながら往くと、旧国道を離れて右手に登っていく街道が見えてくる。「小松川への石畳」と呼ばれる坂道(タイトル写真)で、鬱蒼とした木々に囲まれた石畳道は、辺りの静寂と相まって平成の現代にいることをふと忘れさせてしまう程の、魅力的な道だ。
やがて、千持峠の小さな峠に差し掛かった後は緩やかな下りになる。坂道を下ったところにあるのが「落合の石橋」(写真下)で、気づかずに通りすぎてしまうと何のことはない石橋なのだが、説明板によれば国登録有形文化財だそうだ。

ただ、その説明板の建っている位置が非常に不適切で、佐々並方面から来ると、橋を渡ってから180度振り向いて、更に気をつけて見なければ見つけられないような位置にあるのだ。このような配慮不足の説明板は、この萩往還の随所に見受けられるのが、とっても残念だナ。
そう言えば、この石橋と似た様な形式でもう少し規模の大きな橋を、防府市の新田地区で見た記憶があるが、これかな?

その先には「落合の石畳」と呼ばれるこれまた風情のある石畳道があり、やがて国道262号に合流して舗装路を歩くことになる。
国道を暫く往くと、地図や公式パンフ上では「中ノ峠」と書いてあるが、道路標識には「釿ノ切峠(ちょうのぎりとうげ)」と書かれた小さな峠に差し掛かる(写真下)。

一体、この峠の名前はどっちが正しいのか分からなかったが、やはり調べる人もいるもので、それによれば萩往還として若しくは旧来からの呼び名的には「中ノ峠」が正しく、「釿ノ切峠」はここよりももう少し先の竹林公園辺りにあった小さな峠のことだったらしい。
が、国道改修時にかなりの部分が掘り下げられたり埋められたりした結果、旧来とは様子が大きく変わってしまったことから、峠の位置や名前が曖昧になったみたいだ。・・・ってぇことは、国交省が適当に名付けたってぇことかぃ?
ま、どっちでもいいけど(・・・って、読者も思っていることでせう)

その先で国道から左に外れると「竹林公園」があり、そこの展望台からは角力場や萩市三見方面が遥かに見渡せる。以前訪れた時は展望台の周囲は木々が鬱蒼としていて全く遠景が見えなかったが、今は見晴らしよくしてあったのはありがたい。

釿切バス停近くで国道を地下道で潜ると、すぐにまた石畳道が見えてくる。これが「釿切の石畳」だ(写真下)。

この石畳は少し上り坂になるが大した坂ではなく、猪避けの柵をすぎるとまもなく、「五文蔵峠」、別名「一升谷十合目」に差し掛かる(写真下)。

この標識も、以前歩いた時には無かったので、最近になって設置されたのだろう。ここから先も、一合下る毎に同様な標識があるので、坂を下る時はそうでもないが登る際には休憩の目安になっていいと思う。
さぁ、この一升谷を快適に下って行けば、もうそこは明木市(あきらぎいち)だぁ~

その2へ続く

2012年10月16日(火)

25年以上の長きに渡って、我が家のオーディオルームで超低音を響かせてきた、長岡式スーパーウーハーシステムの自作SW2082だが、何だか最近迫力に欠けてきたことに気づき、久しぶりにユニットを取り出してみた。(SW2082についてはこちらに詳しい説明が)
タイトル写真や下の写真でも分かるように、ナナナント・・・、コーンエッジがボロボロと抜け落ちていて、コーンだけで超低音を出そうとしていたことが分かった(もっと早く気付けョ)。


いかに酷使したかがバレてしまうが、そもそもこのユニットは、その昔パジェロに乗っていた頃に使っていたカーオーディオのウーハーとして使っていたものを流用したので、この用途には無理があったのかも知れない。
因みにこのユニットは、ADDZEST(クラリオン社)のM-200だ。


で、今度はちゃんとそれなりのものをと思って、フォステクスのウーハーユニットのFW208Nを二発購入して、入れ替えた。
早速音出しをしてみて吃驚。まだエージングも済んでいないのだが、地響きのようなLFEが軽々と出てくるではないですかっ!
ベースの最低音(E1:41Hz)を含む4弦の音階が、倍音ではないファンダメンタルの音として明瞭に聞こえるのは当然として、改めて映画タイタニックを見なおしてみると、エンジン音がしっかりと5万トンの巨大客船らしく聞こえる(乗ったことないけど・・・)。

しばらく見ていなかった名画をまたもう一度見てみたい衝動にかられる、そんな気がする秋の夜長であぁ~る

2012年9月23日(日) その2からの続き

「防長国境の碑」を過ぎると県道62号をそのまま下っていき、すぐに「21世紀の森・夏木原キャンプ場」が見えてくる。このキャンプ場の入口横に「吉田松陰の碑文」が建っている(タイトル写真)。
安政六年五月二十五日に萩から江戸への護送途中、ここ夏木原でしばしの休息を取った時の感慨を、七言絶句と言われる漢詩に表したそうな。『自分は天に恥じることなく正しいことをしたのであるが、それが理解されないのは残念である』ことの胸中を、五月雨の中でしきりに鳴くほととぎすと、燃えるような真紅に咲くさつき・つつじになぞらえている。
オイラのような非教養人にはとても想像さえできない心境だが、満二十八歳にしてこのような想いを漢詩にできることにも、ただただ驚愕するばかり。

そのまましばらくは県道62号を下っていき、上長瀬一里塚跡を右手に見て更に進むと、日南瀬地区で行く手に国道262号が見えてくる。その少し手前から左に折れると、すぐに「日南瀬の石風呂」と「首切れ地蔵」があり、その先で国道262号に合流して、日南瀬峠なる小さな峠を越える。
ここで少しだけ、萩往還は国道から右へ逸れるのだが、ここの案内標識がまたお粗末(写真下)

これらは萩市地域に見られる萩往還の案内標識なのだが、設置から年月を経て、保守作業を何もしていない為に、案内標識の矢印があらぬ方向を向いたままになっている。この写真で言うなら、三つの矢印の内の一番上は、本来180度反対の方向を向いていなければいけないのだョ。
こんなに簡単に方向が変わってしまうような造りの標識を採用したこと自体が、そもそもの間違いなのだが、それを長期間放置している管轄部署はもっとお粗末ではないのかネ。

とまぁ愚痴は置いといて、その後は国道262号をそのまま北進し、佐々並地区に入る少し手前から右手に折れて今日のゴールの佐々並市(いち)へ到着(写真下)。

「重要伝統的建造物群保存地区」なる長ったらしい名称の町並みは、オイラのようなガサツな人間でも、何となく心が落ち着くから不思議だなぁ。
旧家の建物にはそれぞれに、その家の歴史と建物の仕様が書かれた案内札が掲げられていて、それらを一つづつ読んでいくだけでもなかなか楽しい。前回来た時にはこのような案内札は無かったので、最近になって設置されたのだろうが、地道に伝統的な建造物を町並みごと守ろうとする姿勢が伝わってきて、とても嬉しい。
とは言え、実際にそこに住んでいらっしゃる住人の方々にとっては、そうしたことが果たしていいことなのかそうではないのかは、オイラには分からないけど・・・。

と言う訳で、本日の5時間半32,000歩のぶらり散歩は終了ぉ~。残る、佐々並⇒萩市は、その内に。

2012年9月23日(日) その1からの続き

天花坂口からの急な石畳道は「四十二の曲がり」と言われる通り、急斜面を幾重にも曲がりながらどんどんと高度を上げていくのが分かる。一気に板堂峠まで登り切るのはオイラの体力では無理で、途中で三回位切り株で小休止しながら息を整えつつ登っていく。
板堂峠までの約三分の一位の地点にあるのが「六軒茶屋跡」(タイトル写真)で、往時の建物群がそれらしく復元されているのだが、余りに立派過ぎてかえって興醒めする。こんなものに大金を投じるくらいなら、途中の標識や休憩用のベンチなどをもっと整備してくれた方が、ここを訪れる人にとってはありがたいのだがねぇ。

六軒茶屋跡を過ぎると比較的緩やかな登りになり、一の坂一里塚跡や一貫石などに続いて、「キンチヂミの清水」(写真下)に辿り着く。

説明板によれば、ここの岩盤から湧き出る水がとても冷たくて、飲んだらキンタマまで縮み上がるということらしい。今はもう湧き水は枯れているが、何と、この冷水を利用して大正時代初めまでは「ところてん」を作っていたそうな。

その先で県道62号を横断して板堂峠にようやく到達し、少し下って行くと「熊に注意」の看板が見えたので、慌てて熊避け鈴をぶら下げてみる(・・・遅いカナ?)。そしてついに「防長国境の碑」が見えてくる(写真下)。

明治期に建てられたらしいのだが、「北 長門国阿武郡」「南 周防国吉敷郡」と彫られた標柱はなかなかの貫禄だ。ただ、すぐ横にある説明板の文字があちこち薄くなって読みにくくなっており、多分数年後にはぼろぼろになってほとんど読めなくなることが推測される。同様の説明板が建てられてから既に10年以上は経過していると思われるが、これらの保守・保繕を本格的に行う時期にもう来ているのではないかと思う。

ここから先の萩市(旧阿武郡旭村)は下り坂の道がほとんどで、快調に坂を下って往く。
その3へ続く

2012年9月23日(日)
二ヶ月前の「三田尻⇒山口市」の続きで、山口市⇒佐々並までを歩いてみた。

朝10時にJR山口駅前をスタートし、駅通りを直進した後右折して米屋町のアーケードを抜け、札の辻で左折して旧国道9号の竪小路(たてこうじ)交差点を渡って直進する。
右手に、大内氏菩提寺の龍福寺や八坂神社を見ながら、国道9号の上竪小路交差点も渡って更に直進すると、今度は左手に、毛利家墓所や国宝瑠璃光寺五重塔などがすぐ向こうに見える。
そして、木町から天花(てんげ)への入り口で三叉路(タイトル写真)を右に曲って、写真の右に見える天花橋を渡ると、ゆるゆるとした登り坂になる。

2009年の記事でも書いたが、ここの三叉路を直進するのが本来の「萩往還」道で、現在はこの道の先にある一の坂ダムの堰堤下で、フェンスによって行き止まりになっている。当然ながら、ダムから更に上流の本来の萩往還道は、ダムが出来たことによって水面下に埋もれてしまったのだナ。
文化庁選定の「歴史の道百選」です・・・なんぞと自慢し、『往時の情景に想いをめぐらしながら』なぁ~んてHPで宣伝している割には、結構いい加減にそして勝手に、先人の切り拓いた道を無視しているという矛盾は、一体どう理解すればいいのだろうネ。
前記事に書いたように、少なくともここの三叉路や一の坂ダム辺りに、ダム建設当時の県内事情からやむを得ず萩往還を分断させてしまった経緯を正確に記し、そして郷土の先人達に詫びる姿勢を表明する説明板を、きちんと建てるべきと思う。今さら元に戻せる訳ではないのだから。

で、味気ない上に歩道がほとんど無くて歩きにくい県道62号(ここが、現在の萩往還中で最も興醒めする箇所)を登って行くと、やがて一の坂ダムに着く。振り返ると(写真下)、山口市の街並みがほんの僅かに見える。


前回は県道62号をそのまま歩いたが、今回はダムの堰堤を渡ってダムの西側の道を辿ることにした。ダム完成によって出来た錦鶏湖を右手に見ながら、長閑な田舎道を往き、やがて天花子安観音堂で元の県道62号に合流する。

更に登っていって上天花町に入ると県道は大きく右にカーブするのだが、そこでは直進する細い方の道に入り、錦鶏の滝入口方面に向かう。
不思議なことに、この分かれ道には、「歴史の道萩往還 ↑ 0.1km」と書かれた案内板が建っている。つまり、この先100mから先が萩往還であって、そこから手前は萩往還ではない、ということか?
どういう理由でこのような不自然な案内板になっているのかが不明だが、萩往還全体との整合も取れていない、随分と一貫性に欠けたお粗末な案内板であることには、間違いない。

で、その先100m程進むと、錦鶏の滝入口案内板と共に見えてくるのが、往時の石畳道だ(写真下)。

ここは、「萩往還 天花坂口」と名付けられているらしい。そしていよいよ、萩往還最大の難所である板堂峠に向かって、急な石畳をひたすら登っていくのであった。

その2へ続く

2012年8月21日(火)
勤務先の同僚から、テザリングに対応していないスマホでも、androidアプリをインストールするとテザリングができますョと言われて、やってみた。

「Google Play」で、IS13SH(au)に対応している「Quick USB Tethering」なる無料アプリを早速インストールし、インストール後にPCとIS13SHをUSBケーブルで接続すると、PC側に必要なドライバが自動的に組み込まれるので、その後に、写真左のようなアイコンからアプリを起動する。
次画面(写真中左)で、「Enter USB Tethering frame」を押す(有料版の場合は、そのすぐ上の「Enter Tethering frame automatically?」が押せるようになり、アプリ起動が自動化される)。

更に次画面(写真中右)で、「USBテザリング」にチェックを入れるとすぐにテザリングが開始され、IS13SHにUSBで接続されたPCは、IS13SHをルーター(代わり)としてあっけなくネットに接続される。
この場合の接続経路は、次のようになる。
   (イ) au回線 -(3G)- IS13SH -(USB)- PC
もちろん、通信料金はISフラットの範囲内なので心配は無い。ただ、直近三日間で300万パケットを越えると通信速度制限のペナルティが課されるので注意は必要。
ま、重たいHPを次から次に開いたり、大容量のファイルをダウンロードしたりしなければ、大丈夫(・・・と思う)。

もしIS13SHがWi-Fi経由でネットに繋がっているなら(写真右の状態)、ネットがよりスイスイと使えるのは勿論で、この場合の接続経路は、次の通り。
   (ロ) インターネット -(Wi-Fi)- IS13SH -(USB)- PC

また、このWi-Fiを切ってau回線を掴んでいる状態にし、更にPCとIS13SH間のUSBケーブルを外して、写真中右の「ポータブルWi-Fiアクセスポイント」にチェックを入れると、
   (ハ) au回線 -(3G)- IS13SH -(Wi-Fi)- PC又は他のスマホ
という経路でもネットにアクセスできる。いやはや、何という自由自在・・・ステキヤァ~ン。

(イ)や(ハ)のau回線であっても、(ロ)のWi-Fi並みとはいかないものの、ノーマルなHPならストレス無く開くことができる速度なので普通に快適だし、サービスエリアの心配をせずに使えるのはこちらの方だ。

IS13SHとPCとの間をUSBで繋ぐ(イ・ロの状態)のは、一見面倒のようにも思えるけれど、この接続の場合、IS13SHの充電も同時に行われるので電池の消耗を気にすることなくテザリングができるのは、有り難い。
(ハ)の状態でテザリングをすると、多分、満充電の電池でも4・5時間で空になると思われ・・・。

しっかし、アナログの携帯電話に専用のモデムを繋いで、散々悪戦苦闘した挙げ句に『1200bpsのデータ通信ができたぁ~』と狂喜し、『これからはモバイルコンピューティングだぁ』なんぞと言っていたのが、ほんの20年ほど前の出来事であったのを思うと、このスマホ接続のあっけなさは感無量でアール。

2012年8月12日(日)

ネットワークメディアサーバーを組み立て、そしてネットワークメディアプレーヤーも接続し、ようやくネットワークオーディオを気楽に聞ける状況になってきたので、仕上げとして、アンプをネットワーク対応に交換してみた。

写真ではちょっと見にくいがラック中央下に収まっているのがそれで、ONKYO製の最新モデル「TX-NR616」だ。ネットでは5万円を切る価格でこれほどの性能のアンプが手に入るのだから、嬉しいもんだ。
ラックの右上に載っている「D-VHS」を除いて、アンプへの映像入力は全てHDMIに統一することができたのはいいのだが、逆に、メインの映像出力機器であるプロジェクターが、もうかれこれ十数年前に購入したSONY製の「VPL-VW10HT」なる骨董品で、HDMIなんぞはまだこの世に無かった時代だから、当然コンポーネント映像信号しか受け付けない。

そこで登場するのが、東芝製HDDビデオ「RD-X6」からのHDMI映像出力を直接プロジェクターに接続するために以前購入しておいた「HDFuryⅡ」で、これをアンプのHDMI映像出力端子にに接続して、一件落着。
ただ、この「HDFuryⅡ」はHDMIからミニD-sub15ピンへ変換するアイテムなのだが、困ったことにミニD-sub15ピンの「オス」仕様なので、このままではプロジェクターに接続できない(プロジェクターケーブルの先もオスなので、チンチン戦争になる・・・ナンノコッチャ)。そこで、仕方なく「メスーメス」のジェンダーチェンジャーを挟むことで、解決した。
日本電気製の「ADP-CV1E」などで、ミニD-sub15ピンからコンポーネントRCAに変換するのもありなので、そのうちこれも試すつもり。

で、唯一の誤算だったのがD-VHSで、発売時期から言ってもこれの映像出力は当然HDMIではなく、D3・D4端子またはコンポーネント映像だ。アンプ側にコンポーネント入力があるのは事前にチェックしていたので、何も考えずにコンポーネント接続をして、アンプのHDMIから映像が出力されると思い込んでいた訳で、冷静に考えれば、ン~ナ訳はないのだナ。
つまり、コンポーネント入力された映像信号が、アンプでHDMIに変換出力されることは無いのであって、アンプのコンポーネント出力にしか映像信号は出てこないのだぁ。
『ヤッパァ、D-VHSは諦めるかぁ』と思っていたところに、プロジェクターにはD4とコンポーネントの2入力があって、この2入力共に映像ケーブルを張っていたことを思い出し、プロジェクター側の入力切り替えでこの厳しい難局(?)を乗り切ることに成功したのだ。これは、竹島問題よりも難しかった。

映像系は以上の通りで、音声系は光と同軸合わせて4系統のデジタル音声が使えるので、ブルーレイプレーヤ・HDDビデオ・ネットワークメディアプレーヤー・D-VHSの全てを、デジタル接続することができた。
因みにフロントのメインスピーカーは、写真でも見えるように往年の名器と言われたビクター製「SX-3」を未だに愛用しているが、既に40年近く鳴らしているのに、全く衰えを感じないのには感心する。この頃の製品って、頑丈に作られているんだなぁ~。

これで、ホームシアターとして映画などを見るときはプロジェクターからスクリーンに投影し、音楽を聴くだけの時はプロジェクターは使わずに、右隅に見える液晶モニターだけをONにして、選曲や設定をしているが、これがなかなか快適だ。
もちろん、隣の部屋に置いてあるネットワークメディアサーバー上の録画映像や音楽ファイルも、LAN経由で快適に再生できるし、同じく隣室のパナソニック製「DMR-BW770」(ブルーレイHDDレコーダ)も遠隔再生が可能だ。
そして更に、ONKYOが提供しているAndroid用の無料アプリ「OnkyoRemote」をスマホにインストールすると、アンプの通常機能を手元のスマホで座ったまま楽々コントロールできるという便利さも、これまた見逃せない。

しばらくはこの設備で、映像・音楽三昧を楽しむことにしまぁ~っすぅ

その1からの続き

国道262号の側道を登って行くと、鯖山(佐波山)トンネルの少し手前から左側に旧道が残っていて、登り切った峠には、明治天皇行幸の碑と、郡境の碑(タイトル写真)が建っている。郡境の碑には、「従是南佐波郡 従是北吉敷郡」と彫ってあり、萩往還を歩く人にしか見向かれることのないものの、草生した中に凜と立っている様は、なかなかいいものだ。

峠を下って山口市域に入り、すぐの右手にはここにもまだ一昨年の大水害痕が残っていて(写真下)、全く手つかずのままになっている。


最初の信号で横断歩道を渡って国道の右手に出ると、また暫くは旧道の長閑な景色が続く。禅昌寺前を通過して更に往くと、中国自動車道と国道262号を地下道で潜って、柊交差点に出る。
大内郵便局を過ぎ、氷上橋を渡って御堀(みほり)へ出ると、もう山口市内は目の前だ。往時の山口市内への入口が鰐石橋(写真下)で、特徴のある「重ね岩」が見えると足の疲れもつい忘れてしまう。


今日は、鯖山峠から山口市までの間に四度程夕立に遭い、その都度、道沿いの民家の軒先を借りて雨宿りをする羽目になった。そのせいで、実歩行時間は5時間半なのだが延べ時間は6時間半になり、10時半にスタートしてゴールしたのが17時だった。万歩計は41,092歩で、酷暑の中のウォーキングは確かに疲れるけれども、歩き終えた後の爽快感はこれまた堪らないぃ~~~っとぉ。

2012年7月21日(土)
前回、萩往還を歩いたのは、三年前の9月から10月にかけてで(前回の記事)、久し振りにまたこの道を歩きたくなって出かけた。
今回は三田尻から萩へ向けて歩き始めることにして、JR山陽本線で防府まで行き、防府駅から南東方向へ道程で2km位のところにある「三田尻御舟蔵跡」(タイトル写真)へまずは向かい、ここからスタートする。
前回歩いた時と、途中の案内標識などに何ら変化は無く、相変わらず「不親切で不適切な」標識しか見当たらない。今日のオイラのように、他所から来て防府駅で降り、スタート地点の御舟蔵跡へ行こうと思っても、公式ルートマップなんぞを頼りにしていたのでは、到底辿り着けないようになっている。ま、最初からそんな奇特(?)な人は、想定していないのだナ。
そして、やっとの思いで御舟蔵跡を見つけてここからスタートしても、途中で何度も迷わないと、防府天満宮へ通じる往還道へ出られない。つまり、誰もが迷いそうな箇所には標識は無く(若しくは、標識が見つけにくく)、迷う筈がないどうでもいい箇所にお節介な標識が有るという、何とも間抜けな有様なのだ。この土地に詳しくない他所から来た人の目線に立って、分かり易く道案内の標識を建てようなんぞとは、これポッチも思ってないことがよく分かる。
  ★世間ではこういうのを、親愛の情と諦めを込めて、「お役所仕事」と言うらしい・・・へぇ~


てな具合で、迷いながらも漸く防府天満宮へ通じる往還道へ出ることができ、四つ角の道標(写真上)を見ると、「右 かみがた」「左 中のせき道」と彫ってあり、ここで言う「かみがた」は多分、三田尻から舟に乗って瀬戸内海を海路で京阪へ向かうことだと思う。なぜなら旧山陽道は、防府天満宮の前を周防国分寺方面へ向かう椿峠へ至る道なので、明らかにこことは違う場所になるからネ。また、写真のように、もう一つの面には「左 宮市天満宮 志ものせき道」とも彫ってある。

JRの高架を潜って旧国道二号を横断し、天神通りに入る(写真下)。土曜日の昼前だが、まぁ見事な位に通行人(買い物客)が・・・・・いないっ!!!

果たしてこれで商売が成り立つのかぁ~ぃと余計な心配をしてしまうのだが、すぐ近くのイオンやゆめタウンなどのショッピングモールには、同じ時刻でも人が溢れているのだから、買い物客が市内にいない訳ではないのだ。計画性に欠け将来を見通せない行政にも、責任の一端があると感じるのは、・・・オイラだけかなぁ~。
こんなことでは、菅原道真公もさぞや淋しい思いを抱いているのではなかろうか。

やがて天神通りは防府天満宮に突き当たり、ここでは大鳥居前で菅公に挨拶をしただけで左折する。ここから暫くは旧山陽道と同じ道を辿り、今市町外れの久野文具店角から旧山陽道を離れて右折する。ここでも、右折してからでないと萩往還の案内標識は見えないようになっており、気が付かずにそのまま直進する人もいるだろう。つくづく、不親切なこった。
少し左に外れる旧道を往くと佐波川に差し掛かり、「本橋」を渡ることになる。本橋を渡り終えてすぐ右下の河原に、かってここに架けられていた「舟橋」のレリーフ(写真下)を見ることができる。

寛保2年(1742年)に、ここで渡しの世話をしていた源八さんが、6艘の舟を並べてその上に板を渡すという素晴らしいアイデアを提供し、昭和16年までのナント約200年間に渡って人々の役に立ったってぇんだから、源八さんエライッ!!!
つまり、幕末の志士たちも、萩と三田尻の往復の際にこの橋を渡った訳で、目立たないかも知れないけど源八さんの功績は計り知れないと思う。

国道2号を地下道で潜り、山陽新幹線の高架も過ぎると、国道262号の右手を往く長閑な田舎道になる。・・・が、一昨年の大水害の爪痕はまだ残っていて(写真下)、微塵に壊れていた橋の欄干やガードレールは新しくなっているものの、川岸はまだ護岸工事の真っ最中だった。

写真の「つるぎせいりゅうばし」と書かれたプレートが、かっては清流だったことを偲ばせるが、今はその面影は全く見当たらない。防災上やむを得ないのかも知れないが、こうやってコンクリートでがちがちに固めた川を清流と呼ぶのも、皮肉に思えてしまうなぁ。

で、いよいよ本日最大の難所である鯖山峠に向かって坂道を登っていくのであった。
その2へ続く