2013年7月20日(土)

前回ここを歩いたのが4月27日だったから、それからだいぶ日が経ってしまったが、ようやく時間が取れたので、今日は新山口駅から防長バスに乗って、前回のゴールである(旧美東町)御坊まで行き、ここからゆるゆると歩き始めた。

街道はほぼ県道240号を西進するが、ところどころ県道を逸れては又交わる旧道を探しながら歩くのもまた楽しい(タイトル写真)。写真のようなこんなに狭い道でも、カーブミラーが黄色く塗られているところを見ると、以前はこの狭い道が県道240号であったことが分かるのだ。
御坊からすぐ先の旧道沿いに「追拳公会堂」と書かれた集会所があったので、通りがかりのおばあさんに『この地名は何て読むんです?』と聞いてみたら、『おこぼしじゃぁ、他所の人にゃぁ読めんじゃろうのぉ~、ハハッ』と軽くあしらわれてしまった。
勝手に察するに、読み辛い地名であることから他所から来る人に聞かれ慣れているのか、はたまた、この地名に甚く誇りを持っているのかのどちらかだろう。追拳だから普通に読めば「おうこぶし」くらいだろうが、いつのまにか「おこぼし」になってしまった訳だナ。地名って、面白い!

下郷小学校、岩永郵便局前を通りすぎて、山露交差点で国道435号に突き当たる。これを左折して直ぐの三叉路で今度は右折すると再び県道240号になり、やがて右手に広大な県畜産試験場が見えてくる。そのすぐ手前の目立たない小さな三叉路は、右から来る赤間関街道との合流点で、従って、ここから美祢市内までは肥中街道と赤間関街道(中道筋)は同じ道筋となる。
梶岡牧場入口を過ぎて、ごくたまにしか車も通らない長閑な県道をそのまま西進すると、前方に美祢市河原集落が見えてくる(写真下)。


県道を右に逸れて河原集落に入り、専正寺の直ぐ先左手に、「諸隊の宿陣跡」と書かれた案内板が目に入る(写真下)。幕末に、長府の功山寺で挙兵した高杉晋作率いる奇兵隊が、赤間関街道を東進して萩を目指す途中、ここに滞陣したのだナ。

そして、翌年にこの先にある絵堂の地で、萩政府軍との決戦となった「大田・絵堂の戦い」が勃発し、この戦いに奇兵隊軍が圧勝したことから長州の藩論が一気に倒幕に向かうこととなる訳だ。全部合わせても僅か数百人と言われた奇兵隊諸隊が、この時点で日本の歴史を大きく変えたことに想いをはせると、なかなか感慨深いものがある。

その先の小さな峠を超えた途端に、宇部興産伊佐セメント工場の広大な敷地が目に飛び込んでくる。それまで、山々の豊かな緑づくしだった光景から、いきなり石灰岩の採石場(・・・と思う)の一面真っ白な景色に変わるのは、目に痛い程だ。
工場の敷地が切れた辺りの左側に旧道があり、青嶺高校の北側で国道316号を横切り、更に美祢線も横切る。赤間関街道はここで南下して美祢市内の大嶺地区に入るのだが、肥中街道はそのまま直進して再度県道240号に合流し、来福台団地の南側と美祢ダム池との間を進む。
常森集落を抜けて小さな峠を下ると、県道38号に突き当たり、これを右折して旧美祢線大嶺駅方向へ向かう。大嶺郵便局手前の奥分に小さな交差点があり(写真下)、これを豊田方面に左折して上り坂を登って行く。


直ぐに「山頭火の道」なる標識が見えてくるので、県道から逸れて右手の旧道を登って行く。坂のほぼ頂上近くに小さな平原集落があり、三叉路にある旧酒場跡の向かいに、山頭火の句碑が経っている(写真下)。

往時には旅籠があったであろう跡地に、「よい宿で、どちらも山で、前は酒屋で」と、いかにも山頭火らしい句がでぇ~んと威張っているように見えるのが、何とも微笑ましい。

ここの三叉路を右に折れて又少し坂を登って行き、溜池を右手に見て過ぎると桃ノ木集落に出る。急な小川沿いの坂に寄せ合うように家が繋がる桃ノ木集落を抜けると、桃木小学校の側へ出て、ここで国道435号と合流する。
ここから暫くは国道を往くしかないが、小さな峠を越えるとすぐに豊田前麻生の町並みが見えてくる。下り坂の途中から左手に旧道が残っていて、今はほとんど人通りも無い静かな通りを往く。
麻生郵便局近くのバス停は「御注連」という名前だったが、これは一体何と読むのだろう?。「注連」は「しめ」と読むのが普通だから、「ごしめ」「おしめ」「みしめ」のどれかではないかと思う。誰か知っていたら、教えてくらはぁ~ぃ!

その先、豊田前郵便局のある麻生銀座(?)を過ぎるとまた少し上り坂になり、峠を超えた先の下り途中に、右手にまた旧道が見えてくる(写真下)。どうやらここで美祢市から下関市に入るようで、この旧道の入り口には写真のようにしっかりと車止めがされている。ということは、車が通らない訳だから安心して歩くことができるってぇ訳だぁな。


この旧道が終わった辺りで国道435号を横切り、国道左手の川沿いの旧道を暫く往く。この当たりが殿敷地区で、中世周防の国の豪族であった豊田氏の向山館があった所らしい。殿敷なる地名は「殿様の屋敷」から来ていると思われるが、こんな片田舎であっても、館の内には蹴鞠を楽しんだ庭があり、諏訪神社を奉り、水車まであったそうで、広大な敷地での殿様の暮らしを忍んでみる。

で、ようやく本日のゴールである西市へ到着した(写真下)。


西市からは、バスに乗って山陽本線小月駅まで行きJRで帰宅したが、久し振りのウォーキングだったこともあって、少々疲れた・・・みたいだぁ。

三日目へ続く

2013年6月30日(日)

梅雨らしい毎日が続くが、これを「鬱陶しい」と思ってしまうと気が滅入るので、この季節でしか味わえないことに楽しみを見つけることにした。・・・と言えば当然ながら、雨の恵みをふんだんに吸い込んだ紫陽花を愛でるのが一番とばかり、定番ながら「周防阿弥陀寺」へ出かけることにした。

阿弥陀寺の仁王門は正面から拝見するのもいいが、一旦、門を潜ってから振り返って眺めてみるのも(タイトル写真)、これまた味わいがあるものだ。三百年以上前に再建されたらしいが、苔むした藁葺き屋根と紫陽花とが素敵にマッチしている。

いつもは仁王門を潜ってからそのまま正面の表参道を登っていくのだが、今日は向かって右手の東参道をゆるゆると登ってみることにした。雨上がりとあって結構な濁流となっている小川のせせらぎと、水車の水音を聞きながら登って行くと、すぐに巨木のレプリカが目に飛び込んでくる(写真下)。

説明板にはこう書いてある。1180年に兵火で消失した奈良東大寺大仏殿再建のために巨木を調達をすることとなり、杣山(そまやま)と呼ばれた徳地の山奥がその切り出し地となった。当時のこの地はひときわ深山幽谷で、人力のみで巨木を切り出すことは相当な難工事であったらしい。母屋柱には、樹齢700年でこのレプリカのような口径1.5m以上の巨木が使われたとのことだが、重源上人の指揮のもとで轆轤(ろくろ)を利用して僅かな人数で山奥から切り出したらしい。これって多分、現代人には到底無理なことでせうナ。

そのすぐ先には再建された石風呂があって(写真下)、その昔は「浴場念仏」の教えによる心身浄化の場であったらしい。今でも、信者の方達が利用しているみたいだが、オイラも世俗の垢にまみれ過ぎているので、綺麗さっぱり落としたいところではある。


更に東参道を登って行き、念佛堂、経堂、瑠璃の滝、開山堂と巡って、ようやく本堂に着く。折角なので本堂に上がり、堂内から護摩堂方向の庭を眺めさせていただく(写真下)。何とも、心落ち着く時間でありますナ。


後は、本堂のすぐ下にある「あじさい園」を通り抜けて西参道に出、雨上がりで殊の外瑞々しい紫陽花の余韻に浸りながら出口へ向かう。今日はお地蔵様も、とても嬉しそうな笑顔をしていらっしゃるように、オイラには見えるのだ(写真下)。

ま、お地蔵様はシャイだから(・・・ホントかよ)露骨には微笑まないかも知れないが、向かって右の口角が僅かに上がっているのが、オイラにはちゃぁ~んと見えるのだぃ

2013年5月18日(土)
 

以前から念願だった、プラズマTVをゲットした。
機種はパナソニックのTH-P55VT5で、今月後継機種に代替わりしたので、旧製品となったタイミングを狙っていた訳だナ。1年前にはネットでも250K円以上していたのが、ほぼ半値でゲットできたので、まぁ満足。

相変わらず、”芸の無い芸人”ばかりの地上波放送は、まず見ることはなく、BS・CSの映画(洋画)とスポーツ中継、時々ドキュメンタリー番組を、このTVで楽しんでいる。
映画では、液晶TVでは決して見ることのできない「漆黒」に覆われた闇のシーンを存分に味わえるのは当然で、液晶TVのような派手な色彩には抑々ならないので、長時間の視聴でも疲れないのが嬉しい。
スポーツ中継では、当たり前だが動画応答性の速さには目を見張るものがあって、これまで見慣れていた液晶TVが、いかに偽物の画像を見せられていたのかを、改めて痛感してしまった。

55吋という大きさは、当初、少し大きいかなと思っていたが、実際に10畳のシアタールームで3m余り離れて見ると、全く大きくは感じず、逆に60吋以上でも良かったように感じてしまうのは不思議だ。
ま、同じ距離でプロジェクターで見る時は120吋のスクリーンで鑑賞するので、どうしてもそれと比較してしまうからでもあるのだがネ。

以前の記事にも書いたネットワーク対応のAVアンプとは、TVとの間をHDMI接続することで、他社製ながら電源のON/OFFや音量制御などが一つのリモコンで連動できるので、操作性が頗る良いのも大いに助かる。

いよいよこれで、フルHDかつHDMI接続でないのは、プロジェクターだけになってしまったが、もう少し様子を見て、プロジェクターはフルHDをこの際パスして、4K製品が手頃な価格にこなれてきた頃にまた考えることにしよう。
先端製品では、もうTVもプロジェクターも4Kの時代に移りつつあるのだが、オイラのような平民が4K製品をゲットできるような価格になるには、まだ数年以上かかりそうなので、もうしばらくはこれで楽しむことにするぅ~。

2013年4月27日(土)

前回、肥中(ひぢゅう)街道を歩いたのはもう3年前になるのだが、久しぶりにまた歩きたくなって朝から出かけた。本来なら、山口市内道場門前の安倍橋がこの街道の起点なのだが、この2月に地蔵峠を超えた際に、既に吉敷の凌雲寺跡入り口までは街道を歩いているので、今日はJR湯田温泉駅前からスタートすることにした。
タイトル写真のように、駅前では大きな「ゆう太くん」の出迎えを受け、旅を見守っていただきながら悠々と歩き始める。この「ゆう太くん」は、性格がおっとりしていてO型、当然のんびりやさんなのだが、好きな食べ物が「ふぐ刺し」らしい(…キツネのくせに贅沢!)ので、何だかオイラと相通ずるものがあるのだナ。ま、見た目はエライ違いだが・・・・・

湯田温泉の町中を通り過ぎ、国道435号から左に逸れて吉敷大橋で吉敷川を渡り、国道に合流するまでの暫くは交通量が少ない旧道をのんびりと歩くことができる。セブン-イレブンのところで国道を横切り、今度は国道の右側に続く旧道を往くと、その先に周防四宮(すおうしのみや)と呼ばれる「赤田神社」が見えてくる。今日も元気で歩けることを神に感謝して、更に街道を進む。

そのすぐ先の、右側の中尾地区へ入る分かれ道で街道は左へ逸れ、国道からまた離れる。ここに、「大内氏遺跡・凌雲寺跡入り口」と書かれた標識が建っている。
ここから暫くの間は、車がごくたまにしか通らない静かな旧道になり、鳥の囀りを楽しみながら初夏の緑をふんだんに楽しむことができる。
やがて吉敷畑(よしきばた)集落に差し掛かり、国道の下を潜って更に坂を登って行く。眼下には、もう田植えの準備が整いつつある田圃も見えることから(写真下)、蛙の合唱が聞こえ始めるのも間近だろう。


少しづつ登り坂の傾斜は急になってくるが、吉敷畑から吉敷峠(大峠)まではそんなに距離が無い(1.5km位)ことが分かっているので、特に休憩も取らずに一気に峠を目指す。そして漸く吉敷峠に到着し(写真下)、暫しの休憩を摂る。

この画像下に見える「国境」がどこの国同士の境を示しているのか、分からない方は自分で調べてみてねぇ~。山口県人としては、常識だよぉ~~

吉敷峠を超えると、そこは旧美東町(現:美祢市)綾木地区で、大石集落で国道に再度合流する。その先は国道を往くのだが、鳳鳴小学校を過ぎて道が左にカーブした先に、右手に旧道が残っている・・・が、以前は無かった「通行禁止」の看板が建っていた(写真下)。

ここは構わず、この道を往く。写真のように、黄色のガードレールがあることから、以前は県道であったことを示している。山口県の道路は何とも分り易いですナァ~ (・・・って、余り意味ないように思うけど・・・)。

国道左手の四之瀬地区を抜ける旧道を行き、植竹地区に出て県道28号(小郡三隅線)を小郡方面に左折することになる。ここに綾木バス停があるのだが、すぐ大田寄り(北側)に「米まんじゅう」の友永商店があるのを思い出して行ってみた。・・・が、無念にも「本日休業」の貼り紙が目に入り、チョー寂しく、来た道を植竹交差点まで引き返す(トホホ)

気を取り直して植竹交差点から県道28号沿いに南下し、暫く行った先の右手に綾木小学校が見えたところで柿ノ木原交差点を右折して、県道30号に入る。続いて左手にお寺が見えてくる所の交差点を右折し、県道から逸れて太田川に架かる橋を渡る。
小郡萩道路の下を潜り、御坊交差点の少し手前から県道を逸れて左手の旧道に入る。旧美東町と旧秋芳町の境には、共に美祢市に合併された今も、町境の標識が建っていて何だか可笑しい(写真下)。


この旧道を経て、本日ゴールの御坊交差点に出たのだが、交差点そばのバス停に行ってみると、何と次のバスが約一時間後ということが分かった。そのままバスが来るのを待つのも芸が無いので、バス路線沿いに南下して十文字交差点まで約30分ついでに歩き、ここからバスに乗って帰路についたのだった。

今日は、延べ6時間の約4万2千歩だった。久し振りのウォーキングだったが、特に足の疲れもなく快調に歩けたのは、殊の外嬉しいナッ。

二日目に続く

2013年3月16日(土)

防府の毛利氏庭園・毛利博物館で、企画展「お雛さま」をまだやっていると聞いていたので、出かけてきた。久しぶりに来てみたのだが、タイトル写真のように、今は博物館にもなっている旧毛利家本邸は、極めて堂々とした玄関からまず始まる。
この本邸は、明治維新後に旧長州藩主毛利家の本拠に相応しい邸宅として、維新の功労者達の奔走によって選定され建設されたものらしい。明治25年に着工して大正5年に完成したと言うから、何と25年もの歳月と膨大な経費がかかった訳だが、明治・大正時代の技術の粋を全て結集しただけあって、材料なども含めて今ではもう二度と作ることができないほどの壮大華麗な建築物となっているのだナ。

1200坪の豪邸は勿論素晴らしく、その随所に江戸時代の御殿生活の有様を忍ばせるのだが、縁側から眺める庭園の木々と配置が何とも見事だ(写真下)


そして小さな中庭でさえ、その豪勢な造りに圧倒される(写真下)。


25,000坪の庭園をぐるっと回遊して、池越しに本邸を振り返って見ると、これまたいい雰囲気だ(写真下)。


一番奥の博物館では、「次郎左衛門雛」を始めとして、毛利家に伝わる雛道具や嫁入り道具などが展示してあり、その精緻で贅を凝らした品々には、ただただ感嘆するばかりだ。
一般的な雛飾りでは、能楽の囃子方を模した「五人囃子」なのだが、ここでは雅楽の楽器を手にした「五人囃子」が並んでいるのも珍しい。

帰りに土産物店のオヤジに教えてもらったのだが、江戸時代の武家には、家紋にも「表紋」と「裏紋」があったようだ。世間でよく知られている「一文字に三ツ星」が表紋で、男性が公式な場に出るときには必ず着用していたが、男性でもプライベートな用事の時には裏紋の着物で外出していたとのこと。実際に、ちょいと一杯引っ掛けに街へ出る時などに裏紋を着た時は、文字通り「裏門」から屋敷を出入りしていたらしい。結構、公私の別をきちんとしていたのだナ。
また、女性の着物には裏紋を付けるのが習わしだったようで、この裏紋が「沢瀉(おもだか)」だ。博物館に展示してあった女性の身の回りの品々に沢瀉紋がついていた理由がこれで分かった。

で、ついでにすぐ近くの周防国分寺も久しぶりに訪ねてみた。重厚な仁王門(写真下)を潜ると、二重屋根の壮麗な金堂が見えてくる。

平成9年からの8年間に渡った平成大修理を終えた金堂は、威風堂々とした姿と共に、奈良時代の官寺としての格式と天平文化の一端を感じさせる。

今は、高野山真言宗の別格本山としての仏教寺院なので、当初の国分寺としての役目とは違うものの、聖武天皇と当時の国の威光を示すには充分な構えではある。
西暦741年の建立以来、幾度の火災に遭いながらも、大内氏・毛利氏の絶大な庇護を受けてその都度再建され、創建当時の面影を今に残す全国でも珍しい建物らしい。

後日談だが、「防府」「長府」の地名のいわれ、そして「防長」とは何を示すのか、これを周囲の知人に確認してみたところ、概ね30歳代までの人は正確には知らなくて、40歳代以降の人はほぼ知っているという結果だった。
中学校なら歴史の時間に、奈良時代の国分寺建立の経緯を教わる筈なのだが、その時には是非、「防長」とは何ぞやも一緒に教えて欲しいですねぇ~
山口県の先生方、頼みますョ・・・・・・・フントニ

2013年2月16日(土)

山口市吉敷の山奥にひっそりと佇む、大内氏遺跡の凌雲寺跡を訪ねてみた。
いきなり車でいくのも芸が無いので、JR山口駅から歩き始めて、肥中街道始点の安倍橋(道場門前)にまず立ち寄り、旧道沿いに湯田温泉方面へ向かう。袖解橋を過ぎて湯田温泉を抜け、吉敷交差点で国道9号を斜めに横切って、愈々国道435号と並行する肥中街道を北進する。
周防四之宮の赤田神社を右手に見て暫く行くと中尾口バス停があり、肥中街道はそのまま直進するのだが、凌雲寺跡へはここで右に折れた小道を往く。約1km位そのまま歩くと、やがて右手高台にそれは見えてくる。

標識板に沿って高台に登って行くと、まず説明板と共に、大内義興及び義興夫人の墓と伝えられる二つの宝篋(ほうきょう)印塔など、併せて大小3基の石塔(タイトル写真)が残っている。

お墓に懇ろに手を合わせた後、案内板に沿って惣門跡の石垣へ向かう(写真下)。

この石垣は寺の惣門の遺構だそうで、長さは約60mほどもある大規模な石垣だが、普通のお寺の惣門としては異常なほど頑丈な造りであることから、有事の際には城郭としても機能していたのではないかと推定されているようだ。
また、この当時の日本各地の石垣とは違って、大きな石を両面に積み上げて隙間を小石で埋める構造になっている。これは、朝鮮半島若しくは沖縄の石垣に類似していることから、大内氏による朝鮮半島等との交流が、かなり盛んであったことも示しているとのことだ。
この凌雲寺跡の敷地は、説明板によれば「舌状台地」と呼ばれる高台にあって、上の写真でも分かると思うが、背後は山、両サイドは絶壁、そして南側が遠くまで開けているので敵の侵攻を早くから察知できるという、守るに易しい地形であるのが素人目にも分かる。


で、ゆっくりと大内氏の遺構を堪能したので、さてこれからどうしようと思案しながら、元の中尾口へ戻ろうとしたところで地元のオッサンに出会ったので、世間話をしながらもこの辺りのことを聞いてみると、この後、国道に戻って吉敷峠を超えて肥中街道を往くよりも、地蔵峠を超える方が『面白れぇと思うがのぉ~』と言われたので、素直にそのアドバイスに従うことにした。
『今ぁ、熊はまだ寝ちょるが、猪はチョロチョロしおるけぇ、気ぃつけてノォ~』の声に見送られて、地蔵峠に向かう坂道を登り始めた。
凌雲寺跡辺りでは、天気も良くて周囲には雪も見えなかったのが、人家が途絶えて更に坂を登っていくにつれ、辺りが次第に雪景色に変わって行くのが分かる(写真下)。



凌雲寺跡を出てほぼ一時間位で、漸く地藏峠に到着した(写真下)。


地蔵峠を過ぎて旧阿武郡旭村(現在は萩市)に入ると下り坂になるのだが、こちらの方がやはり積雪も多く、10cm程度の新雪をシャクッシャクッと踏みしめて歩くのもまた気持ちのいいもんだ。ふと振り返ってみると(写真下)、自分のガニ股の足跡が見事だ(ンナ訳ナィカ・・・)

下り坂の途中では、猪の足跡が幾つも道路を横切っているのが見え、中尾のオッサンの言ったことを思い出す。まだこの季節だから、猪達も餌を探すのに苦労しているのだろうなぁなんぞと、余計なお世話をしてもみた。

40分くらい坂を下って、やがて高津集落に出る。ここの突き当りを左に往けば明敷峠から薬王寺を経て国道435号の肥中街道に戻れるのだが、今日は敢えてここを右折して佐々並へ向かうことにした。理由は、佐々並へ行けば、バスの帰路で湯田温泉に立ち寄れるからだ。そうすれば、今日の疲れをタップリと癒すことができるんじゃぁなかろうか、という魂胆だ。

という訳で、約6時間、4万1千歩のウォーキングは、目出度く佐々並で打ち止めぇ~。ふぅ~、多少疲れたワィ。

2013年2月3日(日)

友人に誘われて、島根県益田市鎌手地区にある「唐音水仙公園」へ、奥様と共に行ってきた。
自宅から直行すると約2時間近くかかるのだが、寄り道を適当にしながらのんびりと向かうと、ちょうどお昼時に到着し、昼食時だから混雑はしていないだろうとの思惑は、見事に外れてしまった。
国道9号を外れて公園駐車場へ向かおうとすると既に渋滞で、ノロノロと30分近くかかって漸く駐車場へ到着。半分は広島ナンバーの車で、なんでこんなところまで隣県からわざわざ水仙を見にくるのかぁ~ぃ・・・と思ったが、こっちも似た様なモンだった ・・・爆)

で、タイトル写真のように駐車場のすぐ前が展望台になっていて、ここからの眺め(下写真)がまた素晴らしい。日本海を見下ろす3haの斜面一杯に、約200万球の日本水仙が咲き誇る様は、なかなかのもんです。


水仙に近づいて写真を撮ろうとしてしゃがむと、ふくよかな香りがツンと鼻をついてきて、春が近いことを香りで感じさせてくれるのは嬉しい限りですナ。

海辺近くの、「唐音の蛇岩」と呼ばれる奇岩にも行ってみた。辺りの岩とは色も形も少し違っていて、青黒い層が蛇がくねっているように見えることからその名が付いたそうなのだが、オイラには蛇には見えなかったのは、単に想像力の欠如だろうから仕方ないなぁ。

水仙を満喫した後は、すぐ近くの「荒磯館」で昼食を摂ることにした。13時を過ぎていたからか、生憎と刺身などの魚介類は全てもう品切れで、ご自慢の日本海の幸は賞味できなかったが、パンフレットを見ると海に面した大露天風呂や露天風呂付き客室などがいろいろあって、一度ゆっくり来てみたくなる旅館ではあった。

帰途は、益田市内中心部にある「グラントワ」へ立ち寄ってみた。2005年に完成し、コンサートホールと美術館を同居させた「芸術文化施設」らしい。「広い屋根」を意味するフランス語の館名だが、その名の通り、約28万枚もの地元特産石州瓦を使った大屋根と外壁は見事と言うしかない堂々たる造りだ。

写真はその中庭だが、これがまた良くて、その中央には鏡のようにも見える水盤があるのだが、この中庭で何かイベントを行う時は水を出すのを止めて、全体が大きな広場になるのだそうな。その為かどうか、水盤の水深は1cmにも満たない(!)浅さなのだ。
全体を一見すると何の変哲も無い無機的な雰囲気の広場に見えるのだが、暫くの間ここのベンチに座って眺めていると、不思議なことに心が穏やかになってくるのが自分で分かる。多分、屋根や壁や床などそれぞれの色調、そして安定感や開放感のある造りなど、全体としての雰囲気が、自然と心にいい影響を与えてくれるのでないかと、勝手に想像してみた。
この写真では分かりにくいが、それにしても、石州瓦のこの変幻自在はどうだろう。光が当たる部分と影の部分とのコントラストが頗る微妙で、単純に「赤茶けた色」の一言では表せない、正にカメレオン的な色合いの変化を、過ごしている時間と共に楽しめるのだ。自宅周辺でも石州瓦の屋並みは多く見られるのだが、これまでこのように感じたことがついぞなかったのは、不覚だったかも・・・。

多分、ここを訪れた多くの人々が、石州瓦の新たな魅力に気付いたのではないかと思うのだが、たったそれだけでも、この建物に石州瓦を使った意味があるような気がする。島根の人はエライッ!!!
長州人も、こんなところは見習うべきだなぁ~

2012年12月31日(月)

愈々、暮れも押し迫って参りました。公私共にいろいろあった一年でしたが、来年も何とか世間様にご迷惑をかけないように、そして少しでもより良い社会に貢献できるようにしたいなぁと、柄にもなく思ってしまう年の瀬であります。

例年繰り返される、「レコ大」や「紅白」なんかのとんでもない低俗さ(幼稚さ)にほとほと愛想を尽かして、地上波TVでの音楽番組には全く興味をしめさなくなってもう久しいのですが、逆に音楽への愛着は歳を経るごとに増してきています。
最近のお気に入りと言えば、やはり「女性ジャズボーカル」ですかネ。当初は、鈴木重子やケイコ・リー、綾戸智恵など、日本人女性ものを聞いていたのですが、理由は分からないけれど何となくの不自然さをずっと感じ続けていました。

そして出会ったのがダイアナ・クラールで、あまりに嵌り過ぎて一日中でも聞いていてしまう程なのです。とても40歳台の年齢とは思えない妖艶さに加えて、確か過ぎる歌唱力と、そして魅力的で卓越したピアノ演奏は、オヤジをキュンと虜にしてくれます。天は気まぐれに、一人の女声に二物も三物も与えたもうことが、‥‥‥あるのですネ。
タイトル写真に見えるアルバムが今のところの手持ちですが、お薦めはやはり、ブルーレイディスク版の「Live in RIO」です(写真左下)。国内発売はされていないので輸入盤しかありませんが、DVD版のようなリージョン制限が無いので、日本でも普通に再生が可能です。
ブルーレイ再生環境が無い方には、写真左上に見える「Live in Paris」か、「Live at the Montreal Jazz Festival」のDVD版を是非。
そして、まずはCDでと言う方は、写真右のCD群、中でも一番手前の「The Look of Love」を聞いてみてください。出だしの「S’Wonderful」から直ぐに、ダイアナの世界に引き込まれて行きますからぁ~


そして、ジャズ・フュージョン界で一番好きなベーシストがマーカス・ミラーで、「Silver Rain」(上写真左下)の演奏を聞くと、ベースってこんなに表現力が豊かな楽器なんだと、改めて知らされます。ベースを、低音部の単なる伴奏楽器だと思っていたら、とても痛い目に逢います(笑)。
ただ、マーカス・ミラーの凄さを心底満喫するには、ベースという楽器の特性からそれなりの再生装置が必要で、間違ってもラジカセやミニコンポなんぞで聞こうとは思わない方が懸命です。

更に、バンド演奏とヴォーカルハーモニーを共に楽しみたい時のとっておきの一枚が、イーグルスの「Hell Freezes Over」(上写真右下)だ。95年の再結成時のアルバムだが、演奏・ハーモニー・録音音質のどれをとっても超超超ぉ~一級品で、お馴染みの「Hotel California」なんぞはもう、イントロのアコギが始まった時点で背筋がゾクゾクするのが分かる程。でも一番好きなのは、二曲目の「Love will keep us alive」なんだけどネ。
X-JAPANやミスチルなんかが、イーグルスを超えようとしたのが頷ける素敵な演奏ばかりなんだが、イーグルスを超えるどころか足元にも及んでないのも良く分かるのが、日本人としてはちょぃと悔しい気もするのだ。

最後に敢えて日本人を入れるなら、やはり、今は亡き村下孝蔵でしょう。彼のアルバムは全て所有しているが、録音の音質的には一番悪いのに、村下孝蔵の息遣いと魅力を一番感じられるのが「GUITAR KOZO」(上写真上)だ。
サラウンドの再生環境でじっくり聞くと、ホール客席前方の特等席で、彼と時折目を合わせながらライブを楽しんでいる自分を発見できるのだから、こっらぁ~堪らない(‥‥何という自己満足ぅ~)。

さて、大晦日の夜は、どれにしようか・・・・・
そして、2013年が皆様にとって素晴らしい年でありますように

2012年11月25日(日)

今年の2月に完成させたネットワークメディアサーバーだが、この時の記事でも書いたように、全体としては頗る静音PCであるにも関わらず、システム用(Cドライブ)のHDDだけからカリカリという動作音が聞こえ、例えば夜中の予約録画が起動すると、その動作音が耳障りに感じていた。

そこで一計を案じて、このHDDをSSDに換装することにして色々物色した結果、「Silicon Power」社製の「SP128GBSS2T10S25」なる128GBの品(タイトル写真)をチョイスした。この程度の性能のSSDなら、高々6千円程度で買える程に値下がりして来たので、買い時かなぁとの判断だ。

サーバーに組み込んだのが下の写真だが、「P4」と書かれたのが電源コネクタで、そのすぐ下の青いのがSATAコネクタだ。

尤も、こうして組み込む前に仮に外付けの状態で、「EASEUS Disk Copy」なるソフトを使ってCドライブを丸ごとコピーしておくのは当然のこと。うまく起動するかがちょっと不安だったが、特に何のトラブルもなくあっけないほど簡単にドライブ換装作業は完了。

電源をONにしてからWindows7のデスクトップが表示されるまでの時間が、RAIDを組んでいる関係かHDDの時は80秒程度かかっていたのだが、SSDに換装すると40秒程度になり、ざっと半分の起動時間になった。
サーバーだから、通常は電源を入れっぱなしなのでそれほど大きな影響はないのだが、WindowsUpdataなどで再起動を要求されても余り気にならなくなったのはありがたい。

そして気になる動作速度だが、完了後に「CrystalDiskMark」を走らせて、事前に取っておいたデータと比較してみた(写真下)。

左がHDD(1TB)で、右がSSDだが、全ての項目で動作速度が上がっているのが一目瞭然で、前記のシステム起動時間以外にも、Officeアプリの起動や動画の大量コピペなどがサクッと完了するのが体感的に分かる程だ。
普段使いのPCは別にあるのだが、SSDのこのサーバーの方があまりに軽い動きなので、最近は普段使いのPCをあまり起動しなくなったのは、ちょぃと誤算かも。

とは言え、SSDのもう一つのメリットである静音性は、そもそも動作音が発生しないので当たり前の話だがチョォ~快適で、ようやくこれで静音サーバーとして一件落着したと言える・・・・カナ?

PCを買い換えるほどではないけれど、動作速度や動作音に不満がある方には、ディスク容量が大きくなって価格が手頃になってきた今のSSDは、一押しのお薦めですぅ~
・・・と言っても、HDDを自分で交換したことのない方にはちょっと敷居が高いかも知れないので、詳しい方にアドヴァイスをいただいた方がいいでしょうネ。

2010年10月20日(土) その2からの続き

「道の駅萩往還」は、さっと通り過ぎようと思っていたのだが、売店に入って商品を眺めている内に何か買いたくなって悩んでしまい、結局30分程度店内をウロウロしてしまうはめになってしまった。
結局これが、萩へついてから帰途のチョンボに繋がるのだが、・・・まぁ、それは置いといて。

道の駅横の地下道を潜ると直ぐに、「女体解剖地跡」なる何だかおどろおどろしい説明板と、その直ぐ横に「刑屍体腑分之跡」と書かれたこれまた不気味な石碑が建っている(タイトル写真)。
宝暦九年(1759年)にこの地にあった大屋刑場で、毛利藩医の栗山孝庵が、我が国で最初の女体解剖を行った場所らしい。石碑の後ろ側には刑死者を供養する石地蔵が建っているので、いつもより懇ろにご冥福をお祈りしておいた。

更に進むと、悴坂(かせがざか)一里塚が見えてくる(写真下)。ここは萩往還起点の「唐樋札場跡」から最初の一里地点になるので、ゴールまではあと一里と言うことになる。


「萩往還梅林園」を左下に見たすぐ先にあるのが「涙松遺跡」(写真下)で、ここにも吉田松陰歌碑が残っている。

往時の涙松そのものは既に枯れてしまったが、萩を出入りする旅人が思わず涙したであろうことが、この地に立って萩市内方向を眺めて見ると、よく理解できる。
同様に、吉田松陰が安政の大獄で江戸伝馬町へ護送される際に、『かえらじと、思いさだめし旅なれば、一入(ひとしほ)ぬるる涙松かな』とこの地で詠んだのだが、もう二度と故郷へ返ってこられない覚悟を決めてはいても、思わず流れる涙を抑えられない松陰自身の無念さも感じられる。

で、漸く萩市内へ入り、JR山陰本線を高架で跨いだあとすぐに左折して、一旦JR萩駅前に出る(写真下)。

大正14年に建てられ、国登録有形文化財に指定されているとても趣のあるこの駅舎は、平成10年に復元されたとのことだ。駅舎の向かって左側半分が本来のJR駅機能で、右側半分は鉄道資料館や萩を紹介する展示館のような有様になっている。
また、写真の右端にも見えるが、駅舎前の電話ボックスは、大正末期頃に日本で2番目に設置されたものを、写真を元に復元されたもので、この型式の電話ボックスは日本ではここだけにあるそうな。・・・ヘェ~

後は、大木戸のあった金谷天満宮を右手に見て、(上から読んでも下から読んでも・・・の)橋本橋で橋本川を渡り、萩バスセンターのすぐ先にあるゴールの「唐樋札場跡」へ到着ゥ~(写真下)。


寄り道を含めて、佐々並から約6時間の3万4千歩だった。ここからはJRバスに乗って佐々並へ戻るのだが、そぅ、これが悪夢の始まりだったのだ。
ま、その話は、CM2の後で   (・・・ってヲィヲィ)