2010年6月12日(土)

以前から、歩いて峠越えをしてみたいと思っていたのが、山口市の西北西にある「吉敷峠」で、今日はこれを目指して歩き始めた。
湯田温泉の旧道を抜けて国道9号を斜めに横切り、国道435号もすぐにそれて、吉敷大橋(写真上)で吉敷川を渡り、古四之宮(ふるしのみや)神社と円正寺に立ち寄りながら北上する。

国道435号と並行しながら進むと周防四宮(すおうしのみや)と呼ばれる「赤田神社」が見えてくる。拝殿入口には、「赤田神社もの知り図」(写真中)と書かれた丁寧な説明板が立っていて、確かにこれを全部読めば、赤田神社のことが一通り理解できる。
イラストや写真の使い方がとても的確で、全体像と詳細とを上手くバランスさせた、説明板のお手本のような、とても分かりやすくて素晴らしいものだ。美祢市教委も、ちょっとは見習ってくらはいぃ。
で、社殿の見事な彫刻もさることながら、拝殿の天井には、内藤鳳岳画伯の作による大迫力の龍が描かれていて(写真下)、これを拝むだけでも、立ち寄ってみる価値がある。

国道435号から、左の旧街道へ入るところに、「大内氏遺跡・凌雲寺跡」と書かれた標識が見えたので、少し寄り道になるが立ち寄ってみた。
野原に残る石垣跡と、大内氏の30代当主大内義興の墓があるのみで、辺りは殺風景なところだが、寺には似つかわしくないような石垣があるところから、有事に備えた城塞の意味合いもあったのではないかと説明板には書かれていた。
また、この石垣の石の積み方が、当時の日本国内のそれとは違って、沖縄や朝鮮半島のものと同じような構造であるとも書かれていて、大内氏の交流範囲の広さがうかがえる。

その2へ続く


2010年6月5日(土)

梅雨入りにはまだもう少しかかりそうではあるが、朝からメッチャいい天気になったので、久し振りにチャリで出かけた。
相原漁港を抜けて一路南下し、唐樋公会堂そばの唐樋樋門に立ち寄り、周防大橋をバックにして一休み(写真上)。チャリの横に、何やら曰くありげな祠があるが、特に説明板も建っていないので、何の祠やら一切不明だ。

周防大橋たもとの藤尾山の麓をぐるりと回って、新地海岸の堤防沿いを気持ちのいい潮風を受けながら、すいすいと走る。
鳩岡で土路石川を渡って、旧阿知須町に入り、道の駅「きららあじす」で昼飯を調達してから、きらら博記念公園の中をゆっくりと探索してみた。

この公園は、一体何を訴えたかったのかが全く意味不明だった「きらら博」が開催された時に、勤務先のイベントで一度来ただけで、それ以降は立ち寄ることもなかったのだ。
そう言えばあのイベントの時はELTがまだ全盛の頃で、生モッチーを見たい一心で、イベント開催企業の職権を乱用して、無理やり一番前のスタンド席に陣取ったのを思い出した。オイラもまだ若かったのかぁ?

ま、それはいいとして(…ョクナイカ)、ここには遠くからもよく目立つ多目的ドームの他にも、海浜広場やスポーツ広場、それに、ラグビー場(…なぜここにラグビー場なのかが、よく分からないが…)など、多くの施設が立ち並んでいて、家族連れも沢山訪れていた。
と、思っていたら何やらもう一つ、大きな施設が建設中だった(写真中)。案内板によればこれは屋内プールらしく、来年の国体で使うために急ピッチで工事が行われているのだ。

まぁ、山口県って、ほんとにカネが余っているんだねぇ。何度も言うが、たかが国体ごときで、県民がよく知らない間に県のあちこちで、億単位のカネが湯水のように使われているのだょ。
国体を開催する側とすれば、いろいろな所にいろいろな経費がかかるのだから、これはある程度は仕方がないのかもしれないが、それが果たして適正なものかどうかを、県議会はキチンと精査しているのかが、どうも怪しい気がする。
今流行りの「事業仕分け」が、ここでも必要ではないのかナ?

記念公園に隣接して、北側には「きらら浜自然観察公園」なるものがあり、その中程にある「ビジターセンター」では、かなり間近に野鳥を観察することができる(写真下)。
入場料の200円を払って中に入ると、数十台のフィールドスコープがずらりと並べてあり、野鳥好きの人達にとっては堪らない場所だろうことが想像できる。
ガイドの方達がとても丁寧に説明をしてくれ、フィールドスコープの方向や照準を合わせて野鳥観察を勧めてくれたりと、とても心安らぐ空間になっているのは、ありがたいことだ。
馬鹿でかい望遠レンズと、見るからに高価そうなデジ一眼レフカメラを、これまた頑丈な三脚に乗せた「オヤジ」達が、既に先客として何人かいた。
ま、年間を通すと、100種類近くの野鳥を観察することができるそうなので、せいぜい野鳥観察と器具調達で、大いに消費に貢献して欲しいものだナ。

帰路はJR本由良駅の方へ出て、農道をゆるゆると帰ることにし、延べにして6時間、距離が約45kmのチャリ行であった。

2010年5月29日(土)

湯谷温泉と言えば、何はさておき、ふるさと製菓の「親子饅頭」だわナ。
しっとりとした薄皮の下に詰まったたっぷりの白あんと、その中から(子)饅頭が現れるという驚きは、この饅頭でしか味わえない。
写真の六個入りで確か800円かそこらだったと思うが、全てが手作りでかつ、饅頭二個分の手間がかかっていること、そしてこの美味さからすれば、何とも良心的過ぎる値段ではある。

立ち寄った時は「がんこオヤジ」は見えなかったが、お店のお婆ちゃん曰く、『お客はめっきり減ったけんど、来てくれるお客さんがな、「楽しみにしちょったんよぉ」ってゆうて(言って)くれるのだけが励みじゃけぇ』…と呟いたのが心に残ったのだョ。

店頭入り口上の小屋根に、以前は大きな看板があったと記憶しているのだが、台風ででも飛んでしまったんだろうか…。
ご夫婦の体が続く限り、お店を続けて欲しいものだ。
この記事を読んだ方で、この店の前を通った時は、必ずお店に立ち寄るように…

2010年5月29日(土) その2からの続き

県道65号は200m位南下して、すぐ先で右折して再び県道233号に入る。その先、300m位行ったところで県道を外れて左の山道に入るのだが、この入り口でもまたまた迷ってしまった(写真上)。
写真のように道路の右側に黄色いガードレールがあったので、何も考えずにそのまま直進したのだが、暫く行ってから県道を外れなければいけないことに気がついて、後戻りした。

その先の平沼田区公会堂の横を抜けて、更に上り坂を登って行く。
ニュージーランド村の裏側(北側)をぐるっと回りこむと塩見峠に差し掛かり、美祢市から下関市に入る。塩見峠は今は掘割状態だが、往時はひょっとするともう少し高いところを通っていて、瀬戸内海が見えたから「塩見」または「潮見」だったのかも知れない。

更に川沿いの下り坂をとんとんと下って行くと、いきなり民家と共に温泉郷が現れる。ここが湯谷(ゆたに)温泉だ。
ここも既に何度か来ているのだが、県道33号を横断した街道沿いに、「八大竜王」と書かれた祠があり(写真中)、霊験あらたかな清水が湧いているので心していただくようにとの、ものものしい説明板が建ててあった。
ありがたく一口ほどいただいてみたが、我が家の井戸水の味とそんなに変わらないように感じたのは、気のせいか?

その後は県道33号しか歩く道が無く、また、中国縦貫道や下関ジャンクションができたお陰か、旧道はほとんどその跡形が無くなっているようで、貞恒川沿いのそれらしき道を行く。
やがて、長門吉田集落の中心地に入り、松林寺手前の三叉路で、左から来る旧山陽道と合流する(写真下)。昨年、旧山陽道を小郡から下関まで四日間かけて歩いた時に出会ったのが、ここの三叉路だ。
これにて、旧赤間関街道をようやく踏破した訳だが、地図でなぞってみると、絵堂から長門吉田までが約45kmくらいだから、二日間かけて歩くにはちょうどいい距離ではあるナ。

その後は、吉田からバスで小月駅に出ようかとも思ったが、バス停に行ってみると1時間近く後しかバスが来ないことが分かったので、ついでに木屋川沿いの旧山陽道を約1時間程歩いて小月駅に辿り着き、ここから帰宅することにした。
今日は、ほぼ炎天下の延べ6時間のウォーキングであった。


2010年5月29日(土) その1からの続き

四郎ケ原集落を抜けて、再度、危険な県道33号に戻り、美祢市衛生センターの少し先から右へ入る道があるのでこれを行く。
最初はそこそこ歩ける道だったのが、次第に藪と倒木で歩きにくくなる。…が、歩道の無い道を車がビュンビュンと行き交う県道33号に比べれば、こちらの方がまだマシだ。

小さな峠を越えて坂を下って行くと、江の河原公会堂前に出て(写真上)、県道235号を横断して県道233号へ入る。
藪道から出てきたオイラを見て、写真に写っているお爺さんが『あぁたぁ、どっから来んさったぁ?』と聞くので、美祢市内から四郎ケ原を抜けて旧赤間関街道を通って来たと言うと、『赤間関街道?…んなモン聞いたこたぁないのぉ』と言われてしまった。
が、写真の県道交差点には、「植松・柳井川←1.7km旧赤間関街道(中道筋)」と書かれた標識が立っているではないかっ!!!
思わずこの標識を指さして「これこれ」とお爺さんに言ってみたが、『ほぉ、まっことのぉ~』の一言で終わりじゃった………(爆

暫くは、長閑な県道233号をのんびりと行く。小さな峠の頂上に、「歴史の道(赤間関街道)」と書かれた説明板(写真中)に出会う。
往時の街道の面影を残す道が150m位残っていると書いてあったので、行けるところまで行ってみたが、柵で通行止になっていたのですぐに引き返した。
折角、こんな立派な説明板を建てても、ほとんど意味の無いことになっている。こんな無駄な説明板よりも、道に迷いそうな分岐点にキチンとした標識を建ててくれた方が、よっぽど赤間関街道を再認識させてくれると思うのだが…美祢市教委さんHOW?

植松二区と書かれた辺りでは、県道233号でさえどちらへ行けばいいのかが分からなくなる。例の黄色いガードレールも見当たらず、時折、崖崩れしそうな道端に「路肩注意・山口県」と書かれた小さな杭だけが県道を示す頼り、てな有様。
さんざん寄り道をした挙句に、漸く県道65号に出る。

その3に続く

2010年5月29日(土)

先々週は、赤間関街道の旧美東町絵堂から美祢までを歩いたので、今日はその続きで、美祢から長門吉田までを歩いてみることにした。
先々週は帰路を急いでいたこともあって、美祢市内の上領八幡宮と八幡摩能峰宮(やはたうすのみねぐう……うっ、読めネェよ)を通過したので、まずはここを散策。ここの神社にもあったのだが、この辺りの石像や庚申塚には、必ずと言っていいほど「注連縄」が掛けてあるのだが、なぜだろうねぇ。誰か知っていたら教えてくれ~ぃ。

美祢駅の裏側(北側)を抜けて吉則第1踏切で美祢線の南側に出て、県道33号を暫くは西進するのだが、美祢市に入ってからは、赤間関街道の標識が全く見当たらず、ネットで調べた情報とカンを頼りに歩くしかない。
それでも、あちこちで道に迷って寄り道を余儀なくされるのだが、こと赤間関街道に関しては、地元の年寄りをつかまえて聞いてみても、まず『ん~なもん、知らねぇぞぉ』と必ず言われるのがつらいところだ。
もし、この記事を読んで歩いてみようと思ったら、何度も迷うことを最初から充分覚悟しておくべしっ!!!

やがて厚狭川にかかる渋倉橋を渡り、その先を左側の旧道に入って、叔父ケ瀬橋(写真上)を渡る。車道はここで行き止まりになっているが、踏切の無い美祢線の線路を横断して左に南大嶺駅を見ながら、美祢線沿いに暫くは県道33号を進む。
もう少し先には、祖母ケ河内橋なんて名前の橋も架かっていたが、「叔父ケ瀬」とか「祖母ケ河内」とか、面白い地名ではある。ひょっとすると、「叔母ケ瀬」や「祖父ケ河内」もあるのしらねぇ。

その先に、四郎ケ原トンネルが見えてきたが、手前から右へ入る旧道が見えたのでこれを行ってみたらすぐに通行止めのガードレールがあり、道は倒木の山になっていて、とても通れない状態だった。
仕方なく、すぐ先の左に入る旧道(写真中)を登っていくことにした。確かこの旧道の峠を下ったあたりが、美祢線の車両撮影を目当てに、所謂「撮りテツ」が屯するところだったと思う。

再度、県道33号に合流するのだが、この辺りは歩道が全く整備されてなくて、車道を歩くしかない。大型車同士がすれ違う際は非常に危険で、歩くのを一時止めて路傍で退避するしかないほどだ。
オイラみたいに、たまに歩くモノ好きなオヤジはどうでもいいのだが、毎日自転車で通学している中高生の安全はちゃんと確保されているのかが、とても心配だぁナ。

右手に四郎ケ原集落が見えてきたので、右側の旧道に入る。小さい集落だが、中程に「諸隊(應懲隊)宿陣跡」と書かれた標柱が立っていて(写真下)、これも大田・絵堂の戦いに関係することが推測されるが、特に説明は書かれていなかった。

またそのすぐ先には、「吉田松陰投宿之碑」なる、何とも場違いで、かつ大きく立派な石碑が建っていた。
吉田松陰が、21歳にして初めて藩外へ旅立った際に最初にこの地に宿泊したことは、確かにそれなりの意義はあるのかも知れないが、大理石造りのこんなに立派な石碑を建てるほどのことかなぁ、と、ふと疑問に思ってしまった。
ここに宿泊したことそのものよりも、ここから後に何処まで行って何を修得し、その後の松陰の生き方にどう影響した旅であったのかの方が、重要だとオイラは思うのだが…。そして、その旅路に、この赤間関街道があったことも…。

その2へ続く


2010年5月15日(土) その2からの続き

この、街道説明板(写真上)には、赤間関街道の概略と、吉田松陰がこの道を歩いた時の日記の一部が書かれてあるが、街道の説明としては余りにお粗末。
古来、この街道が長州の政治・経済・軍事などでどのような位置づけであったのか、そして、日本歴史の大転換点である幕末にはどのような役割を果たしたのか、更に、何故どのような経過でこの街道が現在のように廃れてしまったのか、などを、正確に後世に伝えるべきではないかと思う。
吉田松陰の日記も悪くは無いが、そればかりを長々と書くのは、街道全体の説明板としては何の役にも立たない。

道はやがて、秋芳洞観光センターの正面に出て、その先の隋徳交差点に突き当たる。ここを右折して秋吉八幡宮の横を抜け、秋吉交差点を渡って直進し、国道435号に入る。
岩永本郷の集落の先から国道の右側旧道へ入り、愈々、旧秋芳町から旧美祢市伊佐町へと続く。
山口県畜産試験場の少し手前、県道240号と合流する三差路には、「右 山口 左 萩 道」と彫られた「河原の道標」があり(写真中)。その横には地蔵尊も祀られている。

畜産試験場を過ぎてしばらく行き、県道を離れて右側の旧道を行くと河原集落に入る。ここの旧家前には、「諸隊(奇兵隊・南園隊)宿陣跡」と書かれた説明板が立っていた(写真下)。
大田・絵堂の戦いの際に、奇兵隊などが伊佐に滞陣し、その先陣隊がここ河原宿に進出して、すぐ横の専正寺を本陣としていたと書いてある。
と言うことは、ここに宿陣した兵が、絵堂の萩政府軍本陣〈旧柳井氏宅)を奇襲し、あの門に銃弾痕を残したのであろうか?

その後は、夕暮れも近くなってきたので、急ぎ足で県道240号を辿り、18時過ぎに美祢線美祢駅に到着した。ここから美祢線・山陽本線と乗りついで帰宅することにした。旧美東町絵堂から美祢駅まで、ちょうど6時間のウォーキング旅であった。

2010年5月15日(土) その1からの続き

やがて、牛が放牧された台地が見えてきて、牧場ではのんびりと牛達が野の草を食んでいた(写真上)。すぐ先に、三角原なる案内板が立ててあったが、これがところどころ剥げ落ちてて、よく読めない(写真中)。
この案内板にしても、たかだか10年程度しか経ていないと思われるが、このような用をなさないみすぼらしい案内板をそのまま放置しているってのは、何とも恥ずかしい限りだ。
勿論、劣化したのを早期に発見して取り代えることができればいいのだが、そもそも、短期間に劣化するようなお粗末な案内板を発注すること自体に、根本の問題があると思う。

その先には山口県育成牧場があって、すぐ横を抜けてしばらく舗装道を行くと、やがて右の脇道へと街道は入っていく………が、ここの脇道への入口には、何と印刷面が全て剥がれた「ノッペラボー」の案内標識が立っているのだ。
やがて、案内標識の種類が金属製から木製のものに変わり、旧美東町から旧秋芳町に入ったことが分かる。この木製の案内標識はしっかりとしていて、文字も大きくはっきりと見え、とても分かりやすい。
しっかぁ~し、「赤間関街道」の文字は無くなってしまい、「歴史の道」としか書いてないのは、一体どういう訳だろう?
どうやら、平成8年に文化庁が選定した全国75ヶ所の「歴史の道百選」に選ばれたことが自慢(?)なのだろうと推測できるが、もしそうなら、一言で言えば『クダラネェ~』。
文化庁の選定なんぞはどうでもいいことで、ここはきちんと正確に、かつ先人に敬意を表して「赤間関街道」と書くべきだと思うが、違うかな?

しばしの藪道を抜けると、突然視界が開けて、県道32号のいわゆる「カルストロード」の急カーブ地点に出る(写真下)。
少しの間、県道32号と並行して歩き、その先の秋芳稲荷の入口近くで、初めて赤間関街道全体の説明板に出会う。

その3に続く

2010年5月15日(土)

先週、大田から明木まで歩いた時に見かけた「赤間関街道」の道標だが、調べてみると、萩から下関(赤間関)までの旧街道を総称して「赤間関街道」と呼んでいたことが分かった。
正確には三つのルートがあって、明木から萩往還を離れて、絵堂~秋吉~河原(美祢市)~四郎ケ原と辿り、吉田で山陽道に合流する幹線道路であった「中道筋」と、長門の海岸沿いを回る「北浦道筋」、そして、この北浦道筋の途中(長門市深川)から山中に入り、俵山~西市~田部~小月で山陽道に合流する「北道筋」だ。
中でも「中道筋」は一番重要な街道であったようで、幕末期に吉田松陰や高杉晋作などを始めとする志士たちが幾度となく駆け抜け、そしてまた、幾多の幕末騒乱(戦争)の舞台でもあった訳だ。
…って、こんなことは、小学校でも中学校でも、一度も教わった記憶が無いのだが、それとも教わったのに忘れてしまったのだろうかネ?

てな訳で、この赤間関街道を歩いてみることにし、バスで絵堂まで行って、先週歩いた道を一の峠まで戻ってくる。一の峠のほぼ坂上あたりに「左大田 右せき 道」と彫られた昔の道標が残っていて(写真上)、赤間関街道の標識も立ててある
それはいいのだが、この道標から先僅か数十m程で、未舗装だが綺麗な道路に出くわした(写真中の手前の道)。この綺麗な道路を横切って直進すればよさそうなのだが、直進すると明らかに深い藪の中に分け入って行かなければならない。

多分、藪方向(写真では左斜め前方)に行けば街道だろうとは思いつつも、ままよとばかり綺麗な道の方へ右折して、登り坂を歩き始めた。
4駆の車なら充分に登れる山道を25分程度登って行くと、鞍掛山の頂上に辿りついた。ここには、民放・NHKのサテライト、ドコモの小じんまりした基地局、そしてKDDIのどでかい基地局などが鎮座していた。ソフトバンクは………無かった。
頂上で行き止まりになったので、仕方なくまた来た道を下山し、先ほどの藪の中に入っていく。ほぼ1時間近くの寄り道であったが、ここは案内標識の一つでも欲しいところではあるナ。

この先、藪道は結構長く続くのだが(写真下)、旧旭村(現萩市)と思われる地域内では標識も見当たらないので、後は「カン」で先に進むしかない。
やがて旧美東町と思われる地域に入り、養鶏場や大理石加工場などの横を抜けて行くと、辺りの景色が段々と秋吉台風のカルスト台地に変貌してくる。

その2へ続く


2010年5月10日(月)

先週の金曜日(5月7日)は、見た目はどうみてもまだ「雛鳥」だったので、巣立ちまではもう暫くかかるのかなぁと思っていた(写真上)が、今日(5月10日)の朝、巣を覗いてみると、孵らなかった卵一個を残して、空っぽになっていた(写真下)。
ということは、土曜日か日曜日の間に三羽の雛が巣立ちをしたのか、それとも、外敵に攫われたのか?
どちらなのかは定かではないが、いずれにしても観察記録はこれで終了ぉ~。

無事に巣立ったとすれば「良かったねぇ~」だし、逆に外敵に狙われたとしたら、これはもう自然の厳しい掟だから、寂しいことではあっても「残念ん~」と言うしかないのだナ。
外敵は外敵で、自分の命を永らえるためにはごく自然のことなのだから。

新潟県だったかで、トキをテンが襲ったことがあったが、報道するマスコミの論調がことごとくテンを悪者に仕立て上げていたのには、とても違和感を覚えた。
テンを悪者にするのではなくて、自然に生きているテンの前に、トキという格好の餌を与えてしまった人間の方が、本来「悪者」と言えるのではないのかネェ。
トキを絶滅させたのも人間だし、慌てて人工交配という不自然な行為をしているのも人間で、更に、餌を漁るテンの前にトキという餌を不自然に与えたのもまた人間なのだョナ。

もうちょっと、人間は自然の前に「謙虚」になるべきだと、つくづく感じるワィ。