2010年7月24日(土) その1からの続き

麻生地区に入り、旧道が国道435号と再度合流したすぐ先に、豊田前郷土資料館なる建物がある(写真上)。今日は生憎と閉館だったが、説明書きによれば11世紀頃からの開墾の歴史と、近世に入ってからの石炭鉱山関連の資料を展示してあるらしい。これを見ても分かるが、美祢市全体のあちこちで石炭が採掘され、市全体が活況を呈していた時代の様子が想像できる。

その先、麻生交差点手前のヤマザキショップで食料と水分を補給したが、全身汗でびしょ濡れのTシャツ姿の私を見た店のおばちゃんが、『あぁ~たぁ、どねぇしちゃったかねぇ』と気遣ってくれ、大嶺から炎天下を歩いて来たと言うと、『まぁなんてことぉしてかね、このくそ暑いそに』と言いながらも、レジ横から塩アメを出してきて、『水分だけじゃのぉて、塩分も忘れちゃぁいけんよぉ』と手渡してくれた。
いやいやちょっとしたことなれども、他人様の親切はホントにありがたく心に沁みる。

国道435号をそのまま進むとやがて上り坂になり、小さな峠を越えていよいよ下関市に入り、右手に旧道が残っているのでそちらを下って行く。県道34号に突き当たる少し手前から木屋川沿いに左折して旧道を往き、下関市豊田町殿敷地区に入る
殿敷地区の中程に、向山(むかえやま)豊田氏館跡なる説明版が建っていて(写真中)、それによれば平安時代後期よりこの地に豊田氏として定住を始めたのがこの地の歴史の始まりだそうな。
鎌倉時代を経て室町時代後期に、大内氏に滅ぼされるまでの250年間に渡り、この地の殿様であったようで、古くは「豊田殿屋敷」と呼ばれていたのが「殿屋敷」から「殿敷」に変化して現在に至っているとのこと。
蹴鞠を楽しんだ庭や、諏訪神社を奉ったり水車があったりと、広大な敷地で威光を示したであろう殿様の暮らしを忍ぶことができる。

その先はもうすぐに西市(写真下)で、スタートからちょうど5時間を経過したので、炎天下でもあるし今日はここまでとした。約40分後に来たバスに乗り、小月駅までがまた約40分のバスの旅、そしてこれまた約40分待ってJRに乗ることができたが、小月駅から新山口駅までがまたまた約40分の電車の旅なのだ。
つまり、次回スタートの西市まで来るのに、片道2時間は覚悟しておかないといけないことが分かったのだョ。
 ⇒次回の記事

2010年7月24日(土)

肥中街道の続きを歩き始める前に何だカンダあった挙げ句に、ようやく「常森の分かれ」に辿り着き、ここから本日の旅が始まった。
県道240号は車もごく偶にしか通らないのでノンビリと歩くことができる。小さな峠を越えると大嶺町奥分麦川地区に入り、県道38号に突き当たるのでこれを右折する。この交差点の手前すぐ左側に、麦川川に架かる旧大嶺支線の錆び付いた鉄橋が見えたので、近くまで行ってみた(写真上)。
平成9年に廃止になった僅か2.8kmの旧大嶺支線だが、旧大嶺駅舎と思われる建物は地元の企業が再利用しているようで、入り口近くには、地元の小学生が描いたと思われる当時の大嶺駅やSL風景が壁画として展示してあった。

そもそも美祢線は、明治時代後期の日露戦争勃発に呼応して海軍省徳山燃料廠での石炭需要が急増し、産炭地のここ麦川と山陽本線の厚狭とを結ぶ為に作られたそうな。つまり、大嶺駅と厚狭駅との間を結ぶ大嶺線がそのルーツなんであって、大正時代後期になって於福から正明市駅(現長門市駅)が開通したことで全体を美祢線と改称したのだナ。
大嶺線開通当時の麦川の賑わいはいかばかりであったかと想像するが、その名残とも思える建物が小さな通りに幾つか残っている。平原(ひらばる)地区への分かれ道角にある大きな二階建ての入り口には、風格のあるガラス戸に「□□時計店」と書いてある(写真中)。
ここから、写真奥に見える坂が県道240号でこれを登って行き、平原地区に向かう。

登り坂の途中で「山頭火の道」なる道標が見えたので、そちらへ行ってみた。平原集落中程の大嶺酒造前に、山頭火が宿泊したと言われる辺りに句碑があり(写真下)、『よい宿で、どちらも山で、前は酒屋で』と刻んであり、酒に目がない山頭火の面目躍如たるストレートな句である。

肥中街道はここの三叉路を右折し、更に坂を登って平原堤の横で左から来た県道と合流する。小さな峠を越えて上桃木地区に出ると、後はどんどん下って行き、やがて桃木小学校のところで国道435号に合流し、その先の三ツ杉地区を抜けて国道から左へ逸れる旧道を行くと、美祢市豊田前町麻生だ。

その2へ続く

2010年7月24日(土)

厚狭駅から美祢駅までは本来の美祢線なら約30分かかるところ、代行バスに乗ること僅か約15分で美祢駅に到着した(写真後方のバス)が、美祢駅から更に長門方面に行く乗客は、前方のバスに乗り換えるのだ。
オイラはここから、前回のゴール地である「常森の分かれ」を目指して約3kmを歩きはじめたのだが、ここで普通では考えられない偶然が合い重なって、昨年同じ職場で仕事をしていたSさんと再開できたのだョ。

経緯はこうだ。
 ★偶然その1
本来なら国道435号を西進して美祢ダム入り口の先を右折するはずだったのに、何故かこの日は何も考えずに県道33号を辿ってしまい、1km位行ったところで間違いに気付いた。こんな勘違いは初めてだ。
 ★偶然その2
県道33号から国道435号に戻るのに、美祢市吉則下の県道・国道分岐点まで戻らなくても、途中で5経路位、ショートカットできる小径があったが、何故か、大嶺中学校の敷地内を通る道を選んでしまった。
 ★偶然その3
大嶺中学校のテニスコートで、何故かその時、Sさんがコートに水撒きをしていた。…が、その時はまだコートの方を向いていてオイラには背を向けていたし、オイラも、まさかSさんとここで居合わすとは思ってもいなかった。
 ★偶然その4
オイラがテニスコートに近づきつつあるその時、オイラの後方から、生徒がSさんに何やら話しかけ、その為にSさんは、水撒きを続けながらも顔だけをオイラの方に向けた。
 ★偶然その5
オイラを見かけたSさんは反射的に『こんにちはぁ~』と挨拶を送ってくれ、周りの生徒達も合わせて『こんにちはぁ~』と挨拶してくれた。…しかし、まだ双方の距離は50mくらいあり、お互いに真っ黒な顔をしているので誰かは分かっていないのだが、何となく親しみやすそうな雰囲気を感じたので、コート方面に歩を進めた。

そして更にオイラがコートに近付いて、ようやくお互いに知己の間であることが判明し、『やぁやぁ』と言うことになった次第だ。

人生の内でそんなに偶然なんてあるわけはないと思うが、ここまでその偶然が重なると、人生もそう捨てたもんじゃぁないなぁと、改めて感じたのだョ。
そして、気分良く「常森の分かれ」に辿り着き、肥中街道の三日目をスタートしたのだ。

肥中街道三日目(大嶺⇒西市)その1へ続く

2010年7月24日(土)

肥中街道の続きを歩こうと、新山口駅から美祢駅までの切符を買って山陽本線に乗ったのはいいが、美祢線への乗換駅である厚狭駅に着いたところで、先の豪雨被害のために美祢線が未だに不通で、代行バス輸送中とのアナウンスがあった。
バスの出発時刻までに50分位時間があるので、どの程度の被害だったのかなぁと思い、厚狭駅前から商店街の方へと歩いてみて、吃驚(写真上)。

ほとんどの家で、まだ片付け作業の真っ最中で、水浸しになってどうしようもない廃棄物が軒先に山積みしてあり、市役所の廃棄物回収用のダンプカーが頻繁に出入りしていたものの、なかなか追いつかない様子。
こんな状態では商売どころではないだろうし、商店街の通りは、泥水と石灰(多分、消毒用?)とが入り交じったような臭いもしていて、毎日の生活に大きな支障が出ているだろうと想像する。このようなときにこそ行政のきめ細かな支援策が継続して行われることを、陰ながら期待せずにはいられない。
商店街を抜けたところにある厚狭川に架かる橋にも立ち寄ってみた(写真中)が、全国ニュースで放映された時はこの橋の下辺すれすれを濁流が流れていたのだから、いかに増水の量が大きかったのかが分かる。

今回の豪雨被害の主要因は、記録的な短時間の降水量であることは確かではあろうが、思うに、それ以外の要因、例えば上流の山々が持っていた保水や畜水などの「山力」が、近年は衰えてきている…てなことはないのだろうか?
落葉樹を中心とした豊潤な自然活動を支え、水源涵養林としての機能も併せ持っていた雑木林を、軒並み切り倒して造ったのは何かと言うと、杉や檜の造林や植林、大規模住宅地、ゴルフ場などで、その結果、山々に降った雨は山に蓄えられることなく一気に川に流れ込んでいるのではないかと思う。
もしこの推測が正しければ、これからも、豪雨による浸水被害はますますひどくなるのではないだろうか?そうなれば、天災とばかりも言っておれなくて、人災の一面もあるのじゃぁないかと思う。
山が豊かなら、川も豊かになるし、その結果、海も豊かになる。そんな自然の偉大な好循環を太古の昔から人類は知っていた筈なのに、何故か現代人はそれらを忘れて、当面の便利さや欲望ばかりを優先してしまっているように見える。人類はもっと、自然に対して謙虚であるべきじゃぁないのかなぁ………(と、珍しくマジメな雰囲気?)

不通のために、サビて泥を被った美祢線のレール(写真下)を眺めながら、自然が人類に対して、『ぼちぼち気がつけョ、オマイラ!!!』と警鐘を鳴らしているのではないかと、しみじみ思ったのだ。
 ⇒次の記事

先日お知らせした「カテゴリー分け」を、関東赴任時代の古いものも含めて、一通り完了ぉ~。
ご覧のように「東京23区」のカテゴリーのみ119件と、かなり多量になってしまったので、その内またカテゴリーを小分けするかも知れないが、とりあえずはこれで一区切りだぁ。いかに東京23区内をよく歩いたかが、この数だけでも分かるってぇもんだ。

「日光街道」のカテゴリーも追加したのだが、改めて日光街道踏破の頃(2004年)の記事を読んでみると、かなりあっさりした書込であったことが分かり、また歩行時間や距離も今よりかなり少ない(短い)ことも分かったナ。
江戸時代の旅人のように、4日で日光街道を踏破するのはまだまだ無理だが、今の体力なら6日くらいで踏破できる自信はあるので、いつかまたトライしてみたいものだ。

何処にどんな記事があるのかが、よぅ分からん
というお叱りを多数の方からいただきましたので、カテゴリーを今までより少し細かくして、一覧で見易いようにしました。
画面の右サイドバーにある「カテゴリー」内のどれかをクリックすることで、そのカテゴリーの記事だけが左側のメイン画面に一覧表示されます(新着順)。
最近の記事から順にカテゴリー分け作業をしていきますので、関東赴任時代の古い記事も、その内に分類してカテゴリーを増やします。
 ※今は「関東歩き旅」に全て(250)入っています

また、トップページの上部にある「フォトチャンネル一覧」をクリックし、次画面で「関東の美味いもの」をクリックすると、関東赴任中に味わった銘品の一部をご覧いただけますぅ~

その1からの続き

山露交差点で国道435号に入るが、すぐまたその先で右折し、再度県道240号を西進する。山口県畜産試験場の少し手前で、右から来た赤間ヶ関街道と合流し、美祢市内までは同じ道を辿る。この道ぃ~はぁ~♪、いつか来た道ぃ~♪………ではなくて、既に5月に歩いた道だ。
5月に畜産試験場前を歩いた時と少し違って、今回は入り口道路が消毒剤(石灰?)で真っ白になっていた(写真上)。ユンケルの影響が、宮崎から遙か離れたこんなところにも現れているのだナァ、いやご苦労様。

前回も立ち寄った河原集落を抜け、小さな峠を越えて坂を下ると、左手には宇部興産のとてつもなく広大な石灰岩採石場が広がり、そして頭上には、これまた長大なベルトコンベアー(写真中)が架かっている。
確か、旧秋芳町別府にも長大なベルトコンベアーがあったように記憶しているが、長門市仙崎にある巨大ベルトコンベアーとは、一体どう繋がっているのだろうかネ。誰か知っていたら教えてくらはい。
いつか、この長大ベルトコンベアーには一度乗ってみたいものだ……って無理か?

美祢市内の曽根地区で赤間ヶ関街道とは別れ、更に西進する。来福台団地の南側を抜けて常森地区まで辿り着いたところで、歩き始めてから4時間半が経過し、この先、路線バスがありそうな豊田前麻生まではまだ2時間近くかかりそうなことに気がついた。
で、今日は無理をせずにここまでにして常森の分かれ道から南下し、遙々来たついでに美祢ダムに立ち寄ってみた(写真下)。国道435号を車で通るときに幾度となく横目に見てはいたが、なかなか訪れる機会が無かったのだ。
ま、普通のダムだから特に変わったところはなくて、近くの中学生らしき集団がのんびりと釣り糸を垂れていたくらいで、誠に長閑な風景ではある。

この後、肥中街道は、⇒豊田前麻生⇒西市⇒滝部⇒特牛と辿って、ようやく肥中に至るのだが、果たしてあと何日で踏破できるのであろうか?
何せ、自宅から行き帰りする公共交通機関が都会のように恵まれていないので、慎重に検討してから歩かないと、帰りたぁ~い♪、帰れなぁい~♪……てなことになってしまうのダョ、ハハハ
 ⇒次回の記事

2010年7月10日(土)

先月の続きで、肥中街道の綾木から先を歩いてみた。新山口駅から防長バスに乗って綾木バス停で下車し、国道490号を南下して、柿の木原交差点を右折する。

すぐの左手に、腰から下の病に御利益があると言われる「どじょう森大明神」入り口なる看板が立っていたので、立ち寄ってみた(写真上)。説明版によれば、どじょうの絵を自分の歳の数ほど書いて奉納すると、腰から下の病がたちどころに治癒するらしく、毎年8月25日のどじょう森祭りには多くの参拝客で賑わうそうだ。
この辺りの人達がそんなに沢山、腰から下を患っているとは思わないが、何せ百姓を生業とする方が多かったのだろうから、腰から下が健康ということは、生きていくことにとても重要なことだったんだろうナァ。

清水集落に入ったところで国道を右折し、県道240号に入る。左手を流れる太田川が直角に曲がったところの先で、工事中の小郡・萩道路をくぐるのだが、くぐったところで、この道路にちょいと上がってみた(写真中)。今日は工事はお休みのようだが、写真のように既に料金所看板も出来ていて、路面の舗装工事が終わればすぐにでも通行ができそうではある。
この辺りは、雉や猪を始め色々な動物が多く棲むところだが、人間の都合で動物たちの生活圏を勝手に乱してしまっていることに、少しは申し訳ない気持ちを持っておかないといけないと思う。

山田集落の入り口から左へ入る旧県道があるので、これを往くと、途中に旧美東町と旧秋芳町の境がある(写真下)。新県道に以前あった町境の標識は、美祢市との両町の合併に伴って既に撤去されているのだが、こちらの旧県道にはまだ昔のままの「秋芳町」の標識だけが残っているのも面白い。
多分、道の反対側にあったであろう「美東町」の標識は、誰が撤去したのか、はたまた、なぜ「秋芳町」側だけが残ってしまったのか、お役所仕事への興味は尽きない………ワケナイカ

御坊交差点を横切り、下郷小学校を右手に見て岩永集落を過ぎ、山露交差点で国道435号に突き当たってここを左折する。

その2へ続く

2010年6月25日(金)
折角の平日の休みなのだが、朝からの雨模様。梅雨だから、まぁこれが当たり前なのだが、逆に雨の季節ならではの楽しみもあるもんだァナ…って訳で、防府市の阿弥陀寺に出かけた。先週、既に「あじさい祭り」は終わっているので、人出も少ないだろうと見込んだらその通りで、ゆっくりと紫陽花を楽しむことができた。

入山料の200円なりを払って境内に向かうと、寺創建当時から唯一残ると言われる仁王像(重要文化財)が、「阿吽」と迎えてくれる。
俊乗坊重源上人を開山として、文治3年(1187)に奈良・東大寺の別院として建立したそうで、最盛期には今の数倍の規模の大伽藍が立ち並んでいたそうな。
今では、西日本一のあじさい寺として有名になったが、よく見ると、小ぶりの可愛くて緑がとても綺麗な「もみじ」も境内のいたるところにあり、紅葉の季節にもまた楽しめそうではある。

…で、紫陽花だ。写真のように、やはり慈雨を含んだ紫陽花は殊の外綺麗で、例えるなら「すっぴん美人」とでも言えるかナ? ……化粧をした女性が嫌いってぇ訳じゃぁなくて…(ま、あまり好きではないが…)
関東赴任時代にも、都内や鎌倉を始めとして関東周辺の紫陽花名所はほぼ全て巡ったが、雨がしとしとと降り続く中で出会う紫陽花には、独特の表情があるもんだ。
紫陽花の方から、『あたしって綺麗なんだから、もっとこっちを見てくれなきゃぁ』って話しかけてくれるように感じるのは、気のせいか年のせいか?

本堂に上がらせていただき、座敷側から庭を眺めてもこれまた結構で(写真下)、何とも贅沢な気持ちにさせてくれると同時に、心がとても落ち着くから不思議だ。
金銭的な贅沢は、残りの人生の間にはもうできないだろうしその願望も既に無いけども、こうして心の贅沢を味わえるのは、『健康で生きてて良かったぁ~』と思える、貴重な瞬間で㌃ナ。

2010年6月12日(土) その1からの続き

再度旧街道に戻って、吉敷峠(大峠)を目指して坂を登り始める。
国道435号が今のように整備される前は、センターラインの無いツヅラ折りのスリリングな道で、昭和40年代には、ホンダのN360でこの辺りをよくかっ飛ばしていたのを、思い出した。
今は、高架部分も含めてかなり安全な道になってしまった(写真上)し、峠もトンネルになってしまったので、国道は、昔のようにドライビングを楽しむ道ではない。
高架部分の国道の下をくぐったすぐ先には、西鳳翩山登山口の、これまた分かりやすい案内標識がある(写真中)。

国道の喧騒から離れ、風の音と鳥の鳴き声しか聞こえない旧道を暫く登って行くと、ようやく、大峠に差し掛かり、旧美東町に入る(写真下)。
写真のように、石標には「国境」としか書いてなくて、とてもシンプルだ。旧山陽道や萩往還では、明治時代に建て直したと思われる立派な国境碑が建てられているのに比べると、いかにこの街道が見捨てられた存在だったかが分かる。

峠を後にして、旧美東町の大石地区を抜け鳳鳴小学校を左に見ながら、綾木の植竹交差点に辿り着き、ここからバスに乗って帰宅することにした。
寄り道も含めて5時間半の道のりだったが、きつくて長い登り坂のせいか、多少の疲労感を覚えてしまった。
もう梅雨に入るので、この続きはいつになるか分からないが、次回は綾木から美祢までか、その先の豊田前まで行けるかどうか…お楽しみに。 ⇒次回の記事

★タイトルの「肥中街道」とは?
帰宅してから、今日歩いた道のりをネットで検索していたら、肥中(ひぢゅう)街道なる、初めて聞く名の街道を見つけた。
江戸時代より更に前の大内氏の時代には、この街道が大内氏にとって最も重要な街道だったようで、なぜ重要だったかは、大内氏の巨万の富の基である海外貿易にその秘密があるようだ。
更に、吉敷の山奥に凌雲寺を建立した理由も、そして、大内氏31代当主の大内義隆が、重臣陶隆房(後の晴賢)の謀反に抗しきれず、湯本大寧寺のような山奥で何故自害して400年に渡る大内氏が滅亡したかの理由も、この肥中街道を理解することで、謎が解けてくるのだナ。

さて一体、「肥中」って地名は山口県のどこにあるのか?
これを知ってる方は、かなりの「大内通」であるナ
詳しく知りたい方は、少し長文ながらこちらをどうぞ