2010年9月26日(日)

石州街道(旧山陰道)を歩いてみることにした。旧山陽道と合流する小郡から山口市内までは、既に何度も歩いているので、山口市内の萩往還との合流点である「札の辻」(写真上)から津和野方面に歩き出した。

歩き始めてすぐ先左手の万福寺で、今日も無事に歩き始められることにまずは感謝し、しばらく真っ直ぐな街道を往くと石観音堂に突き当たる。これを左折して、日赤入り口交差点で旧国道9号(現在は県道204号)を横断する。
すぐに左前方に山口赤十字病院が見える最初の四つ角を右折して、暫くは、気持ちのいいほど真っ直ぐで雰囲気のいい街道を往く。

金古曽町から三の宮へ入る少し手前の左側に、「聖ザビエル記念公園」なる静かな公園がある(写真中)。
説明板によれば、天文20年(1551年)に戦乱の京都に失望して山口でキリスト教の布教を始めたフランシスコ・ザビエルが、当時日本国随一の大名と言われた大内義隆から布教の許可を得て、その住居として与えられたのがこの地にあった大道寺だそうな。
しかし、大内氏滅亡の戦国時代から織豊・江戸・明治と時を経て、この地は誰からも忘れ去られていたのを、明治22年になってフランス人神父が、後世に残すべきこの土地を、周辺の有志の協力を得て買い求めたのだナ。この時、湯田温泉出身の詩人中原中也の祖父も協力していたそうな。
そして、ようやく大正15年に、ザビエル肖像の銅板を嵌め込んだ写真のような記念碑が建立されたのだ。あぁよかったね…とはいかずに、このザビエル肖像の銅板は第二次大戦中に供出され、昭和24年にやっと復元されたのだ。まぁそれにしても、戦時中の日本人(軍)はこんなものまで供出するとは、罰当たりであるがなりふり構わなかったんだネェ。

その先の「三の宮」と呼ばれる仁壁神社を参拝して更に往くと、やがて国道262号の下をくぐったすぐ先で県道204号と合流する。県立大学を左に見ながら進み、宮野中学校のグラウンド角から県道を右に逸れて旧道へ入る。
宮野小学校を左に見ながら進むと、周辺は長閑な田園地帯となり、田圃では稲刈りの真っ最中だ。やがて宮野新橋で国道9号と合流するが、石州街道は国道を横断して、椹野川沿いを北上する。

すぐ左手にこんもりとした森が見えてくるのが「龍王社」で、太い根回りのムクノキの巨木が五本、小さな祠を囲むように聳え立っている(写真下)。山口市指定の天然記念物だそうな。
椹野川沿いの石丸地区、龍花地区、泉地区を抜けて、るりがくえんの手前で県道196号を横断し、ここで椹野川から分かれて杖坂川沿いに更に坂道を上って行く。

その2へ続く

2010年9月11日(土) その1からの続き

陶峠に漸く辿り着いたが(写真上)、峠の頂上は余り見晴らしも良くなく、左へ更に登ると馬頭観音、右へ登ると魚切山の標識があるだけだった。
膝に多少の疲労感があったのでここで少し小休止して、いよいよ黒川方面に向けて坂を下って行く。

…が、陶峠の登り道がきれいに整備してあったのに比べて、この下り道はほとんど人が通らないようで、百mも下るとすぐに、道なのか渓流なのかが全く分からない状態になってしまった。
余り人が通らないということは、藪や倒木だらけなのはもちろん、蜘蛛がいたるところに巣を張っているので、枯れ枝を目の前でグルグル回しつつ蜘蛛の巣を払って進むことになる。『蜘蛛さんゴメンヨォ~』と時折声を出しながら歩く様は、我ながら可笑しい。
それでも、下って行けばその内には道らしくなるだろうと、足下が悪いなかを1km近く下ると、それまでよりは多少ましな「獣道」らしき道に出た(写真中)。
更に下って行くと、どうにか旧街道らしい道にやがてなり、途中には「四十九ヶ原古戦場」なる標識が建っていた(写真下)が、特に説明板は無かったのが残念。

大内氏時代から毛利氏時代にかけて、この秋穂街道でいろいろな歴史が刻まれたであろうし、今のJR四辻駅近くに居住していた大村益次郎(村田蔵六)は、度々山口へ出向いていたことから、幕末にはこの街道を何度も通っていたに違いない…と想いをはせつつ、坂を下って黒川地区へ出る。

県道61号に出てから高田橋までの間は、周辺の再開発でほとんど秋穂街道の道筋は残っておらず、それなりの道を辿って高田橋を渡り、JR大歳駅の少し手前で山陰道(石州街道)に合流して、旧道を山口市内方向へ向かう。
そして漸く、泉都町の袖解橋にゴールし、少し戻ってJR湯田温泉駅から帰宅することにした。
途中の休憩時間を除いて5時間半かかったが、坂の上り下りが少々きつかったせいか、結構な疲労感を足に感じたので、早々に帰宅して湿布薬でも塗ることとした。僅か100年前以前の人達にとっては、たかが半日の行程だからこのくらいの距離は何てぇことはないのだろうが、足腰の弱った現代人には少々辛いなぁ。


※「四十九ヶ原古戦場」について、帰宅してからネットで調べてみた。

大内氏29代当主大内義興の弟である大内高弘(隆弘)は、謀反の失敗で永く豊後の大友氏の許に亡命し、自分が大内氏の後継者たるチャンスを狙っていた。が、その願いは果たせず、その子大内輝弘が遺志を継ぐことになる。
一方、大内氏本家は、30代当主大内義隆が「大寧寺の変」で家老の陶隆房に討ち滅ぼされ、更に4年後の「厳島の戦い」ではその陶隆房が毛利元就の奇襲作戦で脆くも消え去り、その2年後には31代当主であった大内義長も毛利軍に敗れ、ここに大内氏本家は滅亡した。
周防・長門を手中にした毛利元就は、続いて筑前立花城攻めに出陣したが、これを大内氏再興の好機と捉えた大内輝弘が、永禄12年(1569年)10月、豊後の兵数千を率いて秋穂浦に上陸し、山口攻略を企てた(大内輝弘の乱)。
この時、山口を守る毛利勢の井上善兵衛就貞率いる少数部隊が、陶峠付近で迎え撃つことになったが、大内輝弘の軍勢は秋穂浦に上陸するや「お上使道」に沿って驀進し、そして井上善兵衛の部隊と出会い激しい戦闘になったのが、この「四十九ヶ原古戦場」だ。
井上善兵衛の部隊は大内輝弘の大軍に対して善戦したものの、多くの部下と共に大内輝弘の軍勢によって打ち倒され、大内軍はその後なだれを討って山口に乱入したのだ。

因みに、大内輝弘の山口攻撃を知った毛利元就は、すぐさま筑前攻略を中断して軍を返したので、今度は大内輝弘が山口攻撃を諦め、海路で豊後への脱出経路を探るべく海沿いへ脱出したが、毛利軍の追撃は厳しく、遂に富海の茶臼山で自害して果てたのだ。ここに大内氏一族は、本家に続いて完全に滅亡することとなった。チャンチャン


2010年9月11日(土)

今日は、異常に暑かったこの夏の最後の猛暑日になるだろうとTVでは言っていたが、構わずに出かけた。もちろん、充分な熱中症対策を忘れずに。

JR宇部線で新山口駅へ出て、ここからバスで秋穂へ行こうと思い、朝7時30分発には僅かに間に合わなかったので、次のバスは…と時刻表を見ると、何と9時20分と書いてある!!!。
事前に時刻表をチェックしてこなかったのは大きなチョンボだが、まさか2時間近くも待たされるとは思っていなかった。仕方がないので売店で山口新聞を買って、隅から隅まで読み終えたところで、漸くバスに乗ることができた。

秋穂のバス停で下車し、四月にも訪れた髪解橋を今日の出発点として、秋穂街道(秋穂お上使道)を一路北上し、山口市内の袖解橋を目指してみた。
髪解橋の記事でも書いたが、大内氏時代には舟で秋穂に着いた旅人は、髪解橋でまず髪を解き(整え)、服装はまだ旅姿のままでこの秋穂街道を歩き始め、約5時間ほどの歩き旅で山口の入口である袖解橋に着くと、狩衣や直垂の袖をくくっていた旅装を解いて身づくろいをし、愈々山口の大内氏館へ向かったということらしい。
古の人の、何とも風流で合理的なネーミングには脱帽するしかないが、現代の地名や都市名・駅名などのネーミングにも、こんな知恵が欲しいところだなぁ。
「新ナントカ」や「中央ナントカ」、浅知恵かつ浅薄な「ひらがな・カタカナ混じり」のネーミングには、ほとほと情けなくなるし、先人に申し訳ない気がする。

秋穂街道の道筋そのものは秋穂の街中には余り残っておらず、それらしき道を辿るしかないのだが、正八幡宮を過ぎて仁光寺辺りにかけては、旧街道の趣を感じることができる。
やがて勤務先を左に見ながら県道194号の梅の木垰を越え、不二サッシの先から県道を左に逸れて、JR四辻駅の西側に出る。踏切を渡ると旧山陽道に突き当たり、これを左折して暫くは旧山陽道を西進する。
セブンイレブンが右手に見える交差点で国道2号を横切り、その先の陶小学校角の交差点を右折して山側(北側)に歩を進めるのだが、この道には県道200号(陶湯田線)の標識が建っていた(写真上)のに吃驚。
何故なら、もう少し先にある山口県動物愛護センターから山側にかけては、車の通行が不可なのを知っていたからだ。山口県の県道は全て車両が通行できると思っていたのは、大きな間違いだった。

山口県動物愛護センターの前の道で確かに車は行き止まりになっていて、そのすぐ先には、陶峠下一里塚が見える(写真中)。江戸時代初期になって漸く徳川幕府が全国に一里塚を設置したのだが、その遙か以前に既にこの秋穂街道には4カ所の一里塚が整備されていたのだから、大内氏の政治力や経済力が抜きんでていたのはやはり確かだろうナ。

道はそこそこ急な登り坂となるが、下草がきれいに刈ってありとても歩きやすい。多分、地元の方がこまめに手入れしていただいているのだろうと思うが、心から感謝せずにはいられない。峠の8合目付近までくると、見通しのいい場所では、優美な姿の陶ヶ岳(火の山)連山とその向こうに広がる瀬戸内海の絶景を眺めることができる(写真下)。

その2へ続く

2010年8月28日(土) その3からの続き

特牛(こっとい)の港町に別れを告げ、旧道からスーパー丸和のところで国道191号に合流して、暫くは国道を北上する。
小さな峠を越えて下って行くと、やがて左手に肥中漁港が見えてきて、国土交通省の道路標識にも「下関市豊北町神田肥中」と書かれてあるのが目につく。

漁港に回り込むように左折するとすぐに、小高い丘の上に恩徳寺が見えて来て、石段を登る。この恩徳寺には、国指定天然記念物の「結びイブキ」なるものがあって(写真上)、由来によれば、枝が竜蛇のように屈曲交錯していて形態学的に学術価値が高いとのこと。写真ではちょっと分かりにくいが、画面中程の形が、太い枝を複雑に結んだように見えるのだ。

この結びイブキに絡む大内時代の悲話が、すぐ横にある「さすり地蔵」(写真中)の祠に書いてあった。少し長いが要旨を引用してみる。
平安時代から鎌倉・室町時代を経て永く興世を誇り、戦国時代を迎えてもなお西国一の大大名として栄華を誇った大内氏の治世だが、いよいよその時代の終焉を向かえ、大内義隆の側室であった「花の方」は身重のままでここ肥中に難を逃れ、義隆の霊を弔う為に尼となって建立したのが、恩徳寺だ。
じきに子どもは産まれたが産後の肥立ちがわるく、子どもを残して「花の方」は亡くなる。子どもは「お花」と名付けられて叔父に預けられたが、借金のかたに売られて遊女になった。
このお花と知り合った海の番所役人である重蔵も、貧家の生まれと幼少時の両親との死に別れという寂しい身の上で、いつか二人は愛し合うようになった。
ところがお花が重病にかかり、病を治すには身請けするしかないと悟った重蔵は、幕府の朝鮮への特使である偉い僧侶一行の献上品を盗み、それを売ってお花を身請けしようと図った。
しかし謀は失敗し、僧侶の前で経緯と悲しい運命を話すと、僧侶は重蔵に、弟子になって朝鮮についてくるよう命じた。
『三年後、必ず帰るから待っていてくれ』と言い残して重蔵は旅に出たが、何十年経っても重蔵は帰ってこず、その間お花は毎日、恩徳寺に参り、重蔵の無事を祈った。
そして何十年か後、肥中港に偉い僧侶が降り立ち、弟子を引き連れて恩徳寺に参ったが、そこに見つけたのは石を積んだ小さな墓で、墓には「お花の墓」と書かれてあった。僧侶は、朝鮮から大切に持って帰ったイブキの苗をその墓の元に植えさせた。
その後僧侶は都に入り、名僧として八十歳で亡くなるときに『肥中の「お花の墓」の隣に葬ってほしい』と言い残し、弟子たちが遺言により骨を埋めた。
いつのころからか、愛し合っている二人が、一緒にこのイブキに触れると『きっと結ばれる』と言い伝えられている ………そうな。

エエ話だけど、何とも切ないなぁ~。この「さすり地蔵」の顔がツルンツルンなのは、お花が毎日撫でたからとも言われてて、この祠から振り返って肥中港を眺めると(写真下)、お花の待ち焦がれ続けた視線の先に、朝鮮からはるばる帰って来た重蔵の船が見えるような気がするのダョ。

滝部から肥中までは、寄り道を含めても3時間半余りで、帰りはどこから山陰線に乗ろうかと思ったが、また特牛までもどるのも何だか癪なので、ついでにもう一つ先の阿川まで北浦街道を歩いてみた。1時間弱で阿川駅に到着し、ここから山陰線に乗って帰宅することにした。

結局五日ほどかかってしまったが、どうやらこれにて肥中街道を完全踏破できたのだ。バンザァ~~~い!!!

2010年8月28日(土) その2からの続き

峠から下りてきた旧道の突き当たりが特牛(こっとい)港になるのだが(写真上)、最も海岸に近い道(写真の一番奥)が国道191号で、その一つ手前の細い道が北浦街道(旧赤間関街道北浦筋)だ。写真手前左の「スナック・漁火」なぁんてのが、漁港町の雰囲気を出してるネェ~。

ここの北浦街道は、一部は狭い路地に昔の面影を残していて(写真中)、鄙びた漁村ながら水揚げの時はさぞ賑わうのであろう様がうかがえる。
漁港にも立ち寄ってみたが(写真下)、数百トン級のイカ釣り漁船が何隻も岸壁に係留していることから、日本海の美味いイカがここに揚がりそうだ。
特牛漁港をグルッと半周して潮風を満喫した後は、国道191号を北上し、ついに終点の肥中がもう目の前だ。

その4に続く

2010年8月28日(土) その1からの続き

この辺りの国道435号から右手の台上には、「肥中街道四日目(西市⇒滝部)その3」で紹介した白滝山の風力発電基地とは別物の、これまた巨大な風力発電群が迫ってくる(写真上)。
ここの風車は、民家にかなり近くて(写真中)とても威圧感を覚えてしまうのだが、住んでいる人たちはどう感じているのだろう?
この近さは、オイラだったらとても我慢ができないし、強風時の不安もさることながら、風車によって継続的に発生する低周波振動で、頭痛に悩まされそうな気がするぅ~。

やがて山陰線の線路は、知らない間に国道435号の下を潜って右手に出ていて、前方の高い所に見える特牛駅を過ぎると、もう一度国道は山間に入って行く。
その先では、左への分かれ道に道標が建っているが(写真下)、彫られた文字がよく読めない。読みやすいように文字に墨を入れるのが難しいなら、簡単な案内や説明板が欲しいところだナァ。
小さな峠を越えて下りになると、右側に旧道が見えたのでこれを辿り、暫くすると特牛の漁港とその向こうにいよいよ響灘が見えてくる。

その3へ続く

2010年8月28日(土)

いよいよ肥中街道も今回で歩き通す予定だ。朝から宇部線・山陽線・山陰線と乗り継いで、延べ2時間半かかって、前回終点の滝部駅に着く。
滝部駅に着いたのは既に10時を過ぎていたが、前回は滝部周辺を訪ねていなかったので、まずは近場から探索してみた。

下関市役所滝部支所のすぐ裏手にあるのが滝部八幡宮で、立派な鳥居の奥に八幡様が鎮座しておられる(写真上)。
この鳥居を潜ってすぐ右手には、「烈婦登波の碑」なる大きな石碑が建っていて(写真中)、次のような来歴が説明版に書いてあった。
滝部の宮番甚兵衛の次女である登波が、父と肉親数名を殺傷(1821年)した岩見の浪人枯木竜之進を討とうとして、六十余州を二十年間遍歴した挙げ句、遂に豊前の彦山で本望を遂げた(1841年)。これを大津代官が藩に申請して登波は表彰され褒美を与えられたそうな。
後に大津代官となった周布政之助は、師である吉田松陰に登波の表彰文を依頼し、いたく感激した松蔭は一ヶ月の間、松下村塾の授業を休んで表彰文を起稿した。それを大正5年になって地元有志の発起によって建碑したものが、この写真の碑である。
…にしても、二十年もの永きに渡って親の敵を追い求め、最後には本望を遂げるほどの烈情は、オイラのような凡人にはとても理解できない。しかし、肉親を理不尽に殺されたことに対する憎悪が、己の一生を棒に振ってでも何かの形として一区切りつけたいと思う気持ちになってしまうことは、やむを得ないのかなぁ。
今の世で、このような私刑は許されないとは思うが、従来のように犯罪者側の人権ばかりを聲高に叫ぶのはオイラにはとても違和感があって、もっと被害者側の心情を斟酌した裁判のあり方になるべきと思う。裁判員制度が、少しでもその方向に向くのならいいのだがネ…。

滝部八幡宮の左側には、豊北歴史民族資料館と書かれた看板があって、立ち寄ってみたが何やら改装中のようで(写真下)、入館は断念した。昔の小学校の校舎を利用した施設のように見えるが、なかなか威風堂々とした雰囲気を持っており、次回訪れたときの楽しみにしておこう。

肥中街道に戻り、左手に山陰線を見ながら暫くは国道435号を西進する。

その2へ続く

2010年8月22日(日) その2からの続き

みのりの丘を抜けて暫く往くと県道269号に突き当たり、その手前の橋のたもとに「浮石義民直訴之地」と彫られた石碑が建っていた(写真上)。
説明版によれば、宝永7年(1710年)7月10日(旧暦)に、この地区の5人が幕府巡検使に対して直訴を決行しようとした場所とある。旧暦の7月10日と言えば、今の8月初めだから今日と同じように酷暑の日であったと思う。
5人の内の庄屋藤井角右衛門が疲労と暑さで倒れたために、この日は直訴を断念したものの、翌日には内日まで追いかけて、遂に直訴に成功した。その結果、浮石村の農民は重税より救われたが、この5人の義民は同年12月22日に長府の刑場で処刑された。

村全体を救うためには、自分らの命を懸けてでも直訴するのだという考え方や行為は、個人が優先される今の世ではなかなか理解されにくいと思うが、当時はやはり、村或いは地域社会が健全であってこその個人だと言う考え方の方が優先していたのだろうかネ。
個と全体のどちらが優先されるべきかはとても難しいところだが、正常な人間社会を維持(優先)するために、つまり人間側の勝手な都合で、何十万頭という大量の牛や豚を簡単に「殺処分」してしまう一方で、正常な人間(市民)社会を脅かすことが明らかであるにもかかわらず、「人間であるというだけで」やたら複雑な手続きを踏まなければ人間を「殺処分」できないのは、何だかとても腑に落ちないのだが、そう思うのはオイラだけかぃ?
地球全体という目線で見たときに、人間と牛や豚の「命の差」は、そんなに大きいとは思わないのだがネ?。人間は、ちょっと思い上がりが過ぎてるような……そんな気がするのだ。

なぁ~んてことを、柄にもなくこの石碑の前に佇んで思ってしまい、懇ろに先人の御霊に敬礼したあと、ほとんど車も通らない長閑な県道269号をのんびりと西進する。
この道の途中には、「塔の本 首塚・伊勢大神宮・猿田彦」と書かれた案内板が建っていて(写真中)、なかなか味のある巨石には例によって見事な注連縄が懸けられていた。

やがて道は国道435号に再度合流し、暫くすると左からくる県道270号とも合流する出合地区になる。この辺りから右手の山上を眺めると、白滝山と呼ばれる昔からの名峰には、20本位はありそうな巨大な風力発電塔の林立に気がつく(写真下)。
風力発電と言えば、いかにも自然エネルギーを活用したエコロジーで未来的な発電方法だと思いがちだが、ここまで巨大な規模になってしまうと、当然ながら建設や維持の為に多くの山肌を削って、かつ長大な道路も造らざるを得ない。
これはどう贔屓目に考えても、貴重な動植物の生態系を崩すことはもちろん、山麓全体の自然治癒力をも弱めてしまう、当に「自然破壊」そのものではないかと思う。
こんなところにも、「人間の思い上がり」が現れているように感じてならないのだが、子々孫々の末代にこれらのしっぺ返しが来ないように祈るしか、今のオイラにはできないのかナァ…と、非力な自分を恥じてしまう。

出合地区の先、田耕(たすき)地区を抜けて国道435号を更に西進し、滝部地区に入る少し手前から左折して旧道を往き、滝部の中心部下市交差点に出る。
今日はここまでとして、下市交差点を左折して山陰本線の滝部駅からJRを乗り継いで帰宅することとした。ちょうど5時間の歩行で33,908歩だった。ほぼ5時間ずっと、炎天下ではあったが、適切(?)な熱中症対策のお陰か足に疲労を感じることなく、頗る快調なままで歩き終えることができたのが、ヒッジョォ~~~に嬉しい。
 ⇒次回の記事

2010年8月22日(日) その1からの続き

暫く国道435号を往くと、旧道との分かれ道に建っている道標が見えてきて(写真上)、道標には「右たきべ道」「左くるそん山」と彫ってある。この道標は明治期に建てられたもので、現在の国道435号の元になる道路が整備されて以降のもののようだ。
肥中街道は「くるそん山」方向の旧道になるので、写真の左側の道を辿り、やがて国道491号につきあたる。
これを左折して数分後には、今度は右側の山道に分かれ(写真中)、国道491号からも外れて浮石原方向へ登って行く。

山道が終わり周囲が開けたところには、豊田町農業公園「みのりの丘」なる施設があり(写真下)、ここでは農業体験やそば打ち体験などを始め、農業における実りを体験できる施設だと、説明版には書いてあった。
園内には、オイラにとってさしたるものは見あたらなかったが、懐かしの大賀蓮(オオガハス)に会えることができたのが収穫で、千葉検見川浜在住の頃に何度か蓮園を訪れたのをつい思い出してしまった。

街道はこの園内を貫通しているはずで、園を通過したすぐのところの民家にいたおばさんにまたまた聞いてみたところ、確かにこの道が肥中街道だよと教えてくれた。やはりこの辺りでは肥中街道はよく知られているようで、とても嬉しくなってしまった。
今日は西市から街道を歩いてきて滝部まで行くと言うと、すぐに近所のおじさんを呼んできて、このおじさんが丁寧にこの辺りの街道よもやま話を聞かせてくれた。大変ありがたいことで、しばらくの間、大内氏時代と肥中街道の話で大いに盛り上がったのだ。

その3に続く

2010年8月22日(日)

連日の猛暑で、日本中の老人がバタバタと倒れたり救急車に搬送されたりする中、無謀にも出かけてしまった。
前回の肥中街道歩き以来ほぼ一ヶ月は大人しくしていたが、どうにも居てたまらずに、自分なりの熱中症対策を摂ると言い聞かせて、山陽本線に飛び乗ったのだョ。

小月駅で山陽本線を下車して駅前のバス停で待つと、15分足らずでバスが来たのでこれに飛び乗った。日曜日の朝(9時過ぎ)だから、どうせバスはガラガラ空席状態だろうと思ったのが大きな間違いで(写真上)、席は全部既に埋まっていた。
写真で分かるかどうか、目の前の高校生(陸上部?)と思しき子以外は、全部70歳前後の爺ちゃん婆ちゃんで、どういう訳かこれが全員リュック姿だ。何人かが開いているパンフレットから想像すると、一位ケ岳に登るみたいで、まぁ元気な年寄りがいっぱいいるもんだと、関心したワィ。

西市でバスを下車し、前回の続きで国道435号を西進する。15分位歩いたところで国道から離れ、金道方面へ続く右側の山道へ入る(写真中)。この分かれ道のところで出会った腰の曲がったお爺さんに、『肥中街道はこの道でええですかいねぇ』と聞いたら、『ええよぉ、あぁたぁ若いそに、よぉ肥中街道を知っちょってじゃのぉ』と誉められてしまった。
美祢市や山口市では、出会った人で肥中街道を知っている人は皆無だったが、肥中に近くなったこの辺りまでくると、流石に名が通っているようで嬉しい。

くねくねした山道を登っていくと、小さな峠には、何と肥中街道と記した木製の道標が建っていて(写真下)安心させてくれる。
その先の分かれ道をそのまま直進すると金道地区へ通じるが、ここを左折して、すぐ先の明教寺を過ぎたところで国道435号を横切る。
少しだけ旧街道が残っているが、それを過ぎるとまた灼熱の国道435号を歩かざるを得ないのが辛いところだ。

今日の熱中症対策は、水とポカリスウェットの二本のペットボトルを携行し、それぞれを少しずつ口に含みながら、水分と塩分の補給を欠かさないようにし、更に、水に濡らして軽く絞ったタオルを頭から被って、体温の上昇を防ぐという、オイラにしては上出来の方法だ。
ポカリスウェットは、過激なスポーツの場合ならそのまま飲んでいいのだが、ウォーキングのような運動の場合には塩分濃度が少し濃いので、半分位に薄めて飲むのがいいらしい。
そこで、水とポカリスウェットの二本のペットボトルを交互に飲むことで、口の中(胃の中?)で二倍に薄めようという魂胆だ。これを専門用語で言うと、体内希釈飲用(の術)と言うらしい……… ンな訳ナイカ。

その2へ続く