2010年10月16日(土) その2からの続き

林を抜けて下り坂の途中に小さな集落があるが、その頭上を巨大な橋脚が覆う(写真上)。山林と僅かな田畑以外には何も無い(ように見える)集落だし、現に人も車も全く通らないのだが、このような立派な道路が必要なんだネェ。
畑仕事をしていたお爺さんがいたので、『この道路はいつ完成するんですかぁ』と聞いてみたが、『さぁ、よぉ知らん』と全く無関心だったのには笑ってしまった。

津和野町指定天然記念物の「タブノキ」を過ぎて更に下って行くと、眼下に津和野の町並みが漸く見えてくる(写真中)。画面左側の山腹に見えるのが、津和野稲荷だ。
中座踏切で山口線を渡った先の坂の途中には、高砂酒造資料館なる歴史を感じさせる造り酒屋(写真下)もある。

この後は津和野の街中に入り、何箇所かの名所巡りをしたのだが、それはまた別稿とする。
乞うご期待


2010年10月16日(土) その1からの続き

街道に戻り、国道9号を横断した先の領家集落を過ぎ、再度国道を横断すると道は少しずつ登り坂になる。野坂堤の手前で国道に合流すると、左手に、大型トラックのチェーン装着場があり、ここの片隅に「野坂御番所跡」と書かれた説明板が建っていて(写真上)、明治2年に御番所が廃止されるまでは、ここに国境の番所が在ったようだ。
この先の野坂峠が、長門国(長州藩)と石見国(津和野藩)との国境になるのだ。
野坂堤の北端辺りで、国道から左に逸れるのが石州街道で、比較的広くて綺麗な旧道が残っている。

峠の頂上より少し手前に、現在の県境標識が建っている(写真中)。写真は島根県側の標識で、見ての通りかなりの経年劣化が進んでおり、そろそろ交換時ではないでせうか島根県さん。ま、余り人や車は通らない旧道だから、このままでもいいっちゃぁいいんだがネ…。
道の反対側には山口県側の標識も建っているのだが、こちらは比較的最近建て替えられたようで、どこにでもあるごく普通の標識だ。

島根県側に入ってすぐのところに、「国道工事記念碑」なる石碑が建っていた(写真下)。説明板には、明治18年当時は国道であったこの峠越えの道は、巨費と多くの人足を費やした難工事であったと書かれている。石州街道はこの記念碑の所から右折し、未舗装の土道を往く。
この野坂峠の周辺は、元治元年と慶応2年の二度に渡るいわゆる長州征伐の際に、幕府方に無理矢理付かされた津和野藩と、これを迎え撃つ長州藩との間で、一触即発の緊迫した交渉が行われたところでもある。双方の兵や斥候などが忙しく行き来したであろう当時を忍びながら、林の中をひたすら下って行く。

その3に続く


2010年10月16日(土)

いよいよ石州街道歩きも三回目となり、今日は津和野までは軽く行けそうだが、取り敢えず津和野までを一区切りとしよう。

JR山口線の徳佐駅で下車し、まずは駅前の徳佐八幡宮(写真上)へ参詣して、今日も無事に歩き始めることができることに感謝する。例によって、道中安全祈願などの「願い事」はしない。
大内氏三代目の満盛公が平安時代末期に創建し、その後の毛利氏歴代藩主も手厚く崇敬したようで、特に参道の両側に連なる「しだれ桜」のトンネルは有名だ。桜の季節以外にはこれまで来たことがなかったが、徳佐駅から徒歩で向かうと、写真のように国道9号が参道を横断して続いていることに気が付いた。

駅前から続く街道はナフコの所で国道と交差し、国道右側の山裾をゆるりと歩く。これまで見えていた山と違って、正面の津和野側には何となく丸っこい形の山々が見えてくる(写真中)。
女性のおっぱいのようだと言うか、お尻のようだと言うか、いずれにしても柔らかな曲線の山を眺めながら歩くのは、何となく気持ちも和らいでくるから不思議だ。この画像では分かりにくいかも知れないが、右奥の山なんぞは誰が見ても「突き出したお尻」にしか見えないだろぅ~~~ ………シィーン
エッ、そう思ったのはオイラだけかい?   賛同者はどうかコメントを…

途中で、国道上にでかでかと「伝説・静御前墓所」と書かれた看板が見えたので、往復1時間の寄り道になるが、立ち寄ってみた。船平山駅少し手前の山裾に、その墓所はひっそりと佇んでいる(写真下)。
頼朝方に捕らえられた後、義経の遺児である最愛の息子も殺され、そして尼になって都を追われた静御前が諸国を流浪したことまでは確からしい。静御前墓所は日本全国に数十はあると言われるが、それだけ後世の人達が、静御前のことを語り継ぎそして慕ったのではないだろうかネ。
しかし、ここの全ての看板に、「伝説」と書かれたシールが、いかにも後から貼り付けましたという風に追加してあるのは、いただけないナァ。別に「伝説」であろうがなかろうがどっちでもいいことで、訪れた人が各自でそれぞれの想いに耽ればいいのではないのかネ。

その2に続く


2010年10月11日(月) その2からの続き

県道311号をしばらくそのまま往くと、赤根屋地区に入る。左手に、お地蔵様入り口と書かれた案内板があり、入っていくと確かにお地蔵様が鎮座していたが、その裏手に墓標のようなものが見えたので、元の県道に戻って裏側から見ると、藪の中から「千人亡者供養塔」と書かれてあるのが見えた(写真上)。
何でも、慶応4年(1868)の大水害で、阿武川沿いに打ち上げられた大量の水死人の供養塔らしい。ナマンダブナマンダブ…

その先の緩やかな登り坂の途中に、地味な村界標が建っていて(写真中)、手前が地福村で、向こう側に回って見ると徳佐村と刻んである。
昭和の大合併とかで、篠生村・生雲村・地福村・徳佐村・嘉年村が合併して阿東町が誕生したのが昭和30年のことだから、この村界標はその前に建てられたことになる。

その先の県道沿いは、いわゆる「りんご園」ストリートで、右にも左にも多くのりんご園が営業中だ。九州ナンバーの車も多く、家族連れで賑わっている様が、なかなか活気があって宜しい。
この週末は、「元気がでるっちゃフェスタ」なるイベントが行われているようで、りんご狩りだけではなくて、いろいろな催しがこの地区一斉に行われているみたいだ。ひょっとすると、SLの「やまぐち なにわ」号なる重連運転も、これと結託しているのかぃナ?

左手の小高い丘の上に船方農場が見えてくると、国道315号に突き当たるので、その交差点の少し手前から右へ降りていき、国道の下を潜る。更に嘉年踏切でJRを横断し、その先二つ目の十字路を左折すると、徳佐の旧メインストリートに出る。
旧阿東町役場の向かいに、椿家本陣門が残っていて(写真下)、代々徳佐村の大庄屋であった椿家の威光を示す堂々とした門構えだ。

徳佐地区には、徳佐八幡宮や静御前伝説など見所も多いが、次回にゆっくり回ることとして、今日は徳佐駅から山口線で帰宅することにした。長門峡駅付近の寄り道を含めて、6時間39,085歩のウォーキングであった。


2010年10月11日(月) その1からの続き

右手に少し離れていたJRの線路が、またすぐ側を走るようになると間もなく右に名草駅が見えてくる(写真上)のだが、ここも駅名の看板は無くて、一日二便のコミュニティバスのバス停表示で、かろうじてここが名草だと分かる。

さくら小学校辺りからようやく地福地区へ入るが、昔はそこそこに賑わいのある町だったであろうことを忍ばせる通りではある(写真中)。写真の左手に続く土塀の家は、この通りでも一際目立っていて、さも格式がありそうな家構えだ。

中心部を通り過ぎようとしたすぐ左側に、「隠れ切支丹墓標」なるものが建っていた(写真下)ので立ち寄ってみた。
説明板によれば、江戸時代初期に毛利領では幕府の意向でキリシタン迫害が激しくなり、山口の宮野にいた約2000人の信者が神父と共に逃れて来て、この地に潜伏したらしい。
写真に見える石室型の三基の墓標は、いわゆる「切支丹墓」と呼ばれ、旧阿東町各所に散在していたそうだが、これらに関する史料や言い伝え等は、現在は全く残っていないそうな。
日本人の信者達はもちろんだが、遙か異国の地で果てざるをえなかった神父(ポルトガル人かな?)の想いは、どのようなものであったろうか。迫害の脅威にさらされ悔恨の念を持ち続けたのか、はたまた、生死の境を彷徨う苦境の中にあっても信者達との殉教の想いで充足していたのか。
オイラには当然知るよしもないが、懇ろに手を合わせて墓標を後にした。

その3に続く


2010年10月11日(月)

SL騒動(?)を後にして、再び石州街道の続きを歩き始める。長門峡駅前から右折して、国道9号に出て150mばかり先に、国道から離れて右へ入る小径があり、これを往く。阿武川踏切を渡ってから暫くは、左手に阿武川上流を眺めながらの、のんびりした田舎道だ。
その先の久保田踏切を渡ると国号9号に合流し、歩道が無く危険な国道がやがて右にカーブしてJRを越える辺りに、右手に降りる小径があるのでこれを往く。一部は既に道の形を失っているが、すぐ先に築地踏切が見えてくるので、これを渡って往くと再び左手に阿武川が現れる。

左手前方に渡川駅が見えてくるので、渡川橋を渡る。そう言えば、ここまではずっと阿武川を左に見て来たが、この橋を渡ってから先はずっと阿武川を右に見ることになるのが、地図でも分かる。「渡川」の意味はそういうことか…。
渡川橋を渡ったすぐのたもとには、橋の安全を祈願した延命地蔵と繰舟永代録とが建っていた(写真上)。

渡川駅の横を通過して県道311号に突き当たり、これを右折してしばらくは県道を往く。左にJRの線路、右手に阿武川を眺めながら、中国電力の長門峡発電所を過ぎ、車も時折にしか通らない長閑な道を往くと、やがて三谷駅が左に見えてくる(写真中)。…が、駅名の看板も何も無いので、ホーム上の駅名表示を覗くまではここが三谷駅とは分からない仕掛けだ。
この先の幾つかの駅も同様で、初めて通りかかった人にとっては全く不親切極まりないこったぁ。

高の巣踏切でJRの線路を横断し、山代街道との合流点のすぐ先左手に諏訪神社がある(写真下)。こじんまりとした社だが、本殿内の壁には、百人一首をしたためたような歌と綺麗な絵の入った額が沢山掲げてあった。このような田舎でも、歌心や絵心のある人達が昔は居たのだろうかネ。

その2へ続く


2010年10月11日(月)

石州街道の二回目を長門峡駅からスタートしようとして、新山口駅から山口線に乗ったのはいいが、乗った電車が途中の宮野止まり。
さてその先の長門峡まで行く電車はいつ来るのかいなと時刻表を確認すると、何と、二時間後だというのが分かってガックシ。仕方がないので山口駅で一旦下車して、待合室で山口新聞を買い求め、隅から隅まで読んで時間をつぶすことにした。JR山口線の宮野から先は、朝から夜まで全部合わせてもたったの10本しか走っていないのだから、当たり前と言えばそうだが、事前に時刻表を調べてこなかった酬いではあった。

しかし、その10本の間には、特急「スーパーおき」が三本とSL「やまぐち」号が走っている訳で、要するに、地元沿線住民の特に交通弱者の足としての役割は、もう完全に放棄しているとしか思えないのだナ。徳佐からの帰路の際に、その感覚は確かなものとなった。
徳佐から新山口方面には、12時台に1本走ったら次は15時台、その次はもう17時という具合だ。つまりJRは、地元沿線住民に利用してもらおうなどとは欠片も思ってなくて、特急やSLで幾ばくかの収益を確保しているので、各駅停車便を廃止しないだけでもありがたく思え、とでも考えているのだろう。

ま、鉄道などの公共機関を民営化してしまうと、そのしわ寄せが弱者に向かうのは、当然目に見えていたことだ。郵政民営化でも同様の議論があったが、結局JRと同じ道を歩むことになるだろうし、田舎から郵便局が消えて老人が困惑してしまうのは、もう時間の問題だろうナ。
オイラの持論だが、公共機関は民営化する必要はないと思う。要は、社長から末端の社員に至るまで、頭の中の考え方を民営化すればいいことであって、組織は公営である方がいいと思う。今の民営化の現実は逆で、組織を民営化しただけで、社長や社員の頭の中は未だに昔の「公営」のままなのだョ。

と、JRに怒りをぶちまけても仕方がないので、数少ない山口線各駅停車に乗って長門峡駅で下車した。…が、やけにでかいカメラや三脚を抱えた重装備の乗客のまぁ多いこと。この乗客達は、駅を降りたら渓谷の撮影で長門峡方向へ左折するのかと思いきや、皆が右折してぞろぞろと国道9号を歩き始めたのだ。

何の撮影に向かっているのかが、この時点ではまだ分からなかったのだが、橋を渡ったところで線路脇に既にズラリと並んだカメラマンの群れを見て(写真上)、納得した。この三連休は、C57形1号機とC56形160号機の重連運転で、ネーミングもSL「やまぐち なにわ」号となっていて、大阪から回送してきたサロンカー「なにわ」なる6両編成の客車を牽引しているらしいことを、教えてもらった。
周囲の農道に止めてある車はほとんどが他県ナンバーばかりで、聞けば、前日から三脚を既に置いて場所取りをしているらしく、それを沿線の何カ所かに置いといてSLを追っかけ撮影する強者もいるらしい。いやはや、恐れ入ったぁ。

折角なので、30分程度津和野寄りに歩いた誰もいない場所で、コンパクトデジカメながらSL撮影を試みてみた(写真中、下)。ま確かに、黒煙をもうもうと吐きながら、白い蒸気で息つく様は、全力疾走する人間(動物)の姿に似てなくもないが、追っかけをする程のもんかいなぁ~? たまたま居合わせた時に撮影する程度で、エエんじゃない? …人それぞれだけど…


では、本編のその1へどうぞ


2010年10月2日(土)

所用で、1日から泊まりがけで仙崎へ行き、今日の午後に4時間くらい空き時間ができたので、仙崎港周辺をぶらりと徘徊してみた。

漁協前から南下して、仙崎駅前から「みすゞ通り」を真っ直ぐ北上する。30年くらい前に来たときには、こんな洒落た名前の通りではなかったと思うが、今は仙崎のどこもかしこも「金子みすゞ」ブランドで溢れかえっている。
錦町商店だかの壁いっぱいには、青をベースカラーにした8,000枚のかまぼこ板モザイク(写真上)で、みすゞの肖像と共に「星とたんぽぽ」の誌が描かれていた。ただ、土曜日の午後というのに、観光客らしき人が全く居なかったのには、ちょっとたまげた。

一番北側の州崎神社まで行った後は、海沿いをぐるりと左回りに一周してみたが、それでもまだ1時間半位しか経過していなかったので、この際だからついでに青海大橋を通って青海島へ渡ってみることにした。
青海大橋を渡ったすぐ左の小高い所には王子山公園があって、ここから眼下を見下ろすと、仙崎が突き出た様子がとてもよく分かる(写真中)。何だか、江戸時代の長崎の「出島」を眺めているような気もする………って、江戸時代の出島を知る訳ないだロゥが…。

王子山公園を下り、大泊港の入り江沿いにグルッと左回りに行き、左手に深川湾を望みながら更に行くと、「波の橋立」と書かれた看板が見えてくる。
「天の橋立」は知っていたが、規模はそれより少し小さいものの、深川湾の潮流が長い年月をかけて礫と砂を運んで作りあげた砂州とのことで、この砂州に閉ざされてできた青海湖は、淡水湖なのだそうな。
約1.3kmに渡って続く黒松林の中道は、右手が青海湖で左手が深川湾という、なかなか味のある散歩道だ(写真下)。

中道の終点まで歩き、ぼちぼち帰ろうかと思ったが、来た道をそのまま帰るのも何だか芸が無いので、今度は青海湖の対岸を、グルッと大回りになるが回り道で帰ることにした。この辺りは折しも、遅咲きの曼珠沙華が田圃の畦道一杯に咲き乱れていて、秋の風情を充分に感じさせてくれた。
都合4時間弱のちょいブラであった。


2010年9月26日(日) その2からの続き

木戸山峠を過ぎて旧阿武郡阿東町へ入ると道は下り坂になるが、心なしか空気がヒンヤリする感じがして、心地良い。道の傍らではコスモスがもう満開(写真上)で、峠を越えてきたオイラに、『お疲れさぁ~ん』と声を掛けてくれているようで、とても心が軽くなる。

暫くは国道9号を右に見ながら並行して街道を行き、やがて国道を斜めに横断して国道の右に出る。その先で県道310号に突き当たるのでここで右折して、少しの間県道を行く。
左手のJR篠目駅の方には行かずに直進し、その先の山口線踏切を渡ってから突き当たりを左折し、篠目駅と小さい川を左に見ながら川沿いに進む。
この辺りの田圃は、稲刈りが終わってからもうかなり日が経っていると見えて、稲を刈ったあとの株には二期目の穂が結構大きく育っており、まるで田植えの後のように田圃が青々としている(写真中)のは、なかなか面白い。

再度、山口線の踏切を渡ってその先で国道9号に合流すると、そのまま「道の駅長門峡」とその先の長門峡駅に辿り着く。長門峡も、ここ暫く立ち寄ったことがなかったので、片道30分で行ける、途中の「千瀑洞口」までついでに行ってみた。
紅葉の季節はまだ先だが、昔(ウン十年前)に比べて、かなり歩きやすいように遊歩道が整備されていたのは、なかなか宜しい。

長門峡散策の1時間を含めて5時間半のウォーキングであったが、帰路に長門峡駅内で面白いものを見つけた(写真下)。写真では一寸見づらいが、そこそこ昔に描かれたものらしい今でいう観光マップで、長門峡の見所を分かり易くかつ丁寧に紹介している。駅のホームに掲示してあるので、訪れた際は是非一見を!!
 

2010年9月26日(日) その1からの続き

山口ユースホステルのある岩杖地区を抜けていくと、路傍では曼珠沙華と蕎麦の花が競いあい、紅白の見事なコントラストを見せてくれる(写真上)。その先の小さな集落を過ぎると、山道への分かれ道には「クマ注意!!」の看板(写真中)があり、思わず身を引き締めさせられる。

暫くは、風の音と鳥の鳴き声しか聞こえない風流な道をただひたすら登っていくが、時折右手の高い箇所に、国道9号を行き交う車が見え隠れする。古来から、人の別れや出会いそして幾多の戦役も含めて、多くのドラマがあったであろう古道に、勝手な想いをはせながらのんびり歩くのも、これまた贅沢と言えるのかナァ。

やがて街道は、国道9号と262号の合流点である木戸山トンネル手前の交差点に出くわすが、街道は国道262号を横断して「風の谷」とか言う三軒ばかりのお店を左に見て、更に山道を登って行く。
但し、道は草が生い茂ってはいるものの一応舗装してあるので、歩くには支障は無く、草をかき分けながら進むとようやく大峠(木戸山峠)に辿り着く(写真下)。峠の頂上には明治になって建立された「国境の碑」があり、「南 周防国吉敷郡」「北長門国阿武郡」と刻んである。

その3に続く