2010年11月21日(日) その1からの続き
翌日はまず、鳴門海峡手前にある大塚国際美術館へ行く。
ここは全く予備知識を持っていなかったのだが、世界初の「陶板名画美術館」という謳い文句らしい。入り口は、京葉線東京駅の地下ホームまたは東京メトロ副都心線を思い起こさせるような長大なエスカレータが入場者を迎えてくれる(写真上)のだ。
古代壁画から始まって現代絵画までの世界の名品千点余りを、写真陶板という特殊な技術で複製し、ここに集中して展示しているので、居ながらにして世界的名画のハシゴができるという贅沢な趣向だ。
ズラリと居並ぶ名画も勿論いいのだが、洞窟や教会などはその空間まで一緒に復元している(写真下)ので、より大きな感動を覚えることができる。
よくある、日本の美術館で海外の名画が特別展示される違和感丸出しの雰囲気とはまったく異なり、実際にその名画が通常置かれている状態で鑑賞できるのも、これはなかなかいいものだ。
その3へ続く

2010年11月20日(土)
勤務先の親睦旅行で、昨年の和歌山に続いて今年は金比羅・鳴門へ出かけた。
朝8時に勤務先を出発して、バスで山陽自動車道をひた走り、一路尾道を目指す。しまなみ街道を渡って、大三島で大山祇(おおやまずみ)神社に立ち寄り、数々の国宝を拝見する。
来島海峡手前の大島で昼食を摂るが、既に目の前には今治の町並みが見え(写真上)、幾多の貨物船が来島海峡を抜けていく。思わず、ユーミンの『ソーダ水の中を~、貨物船が通ぉるぅ~』てな一節を思い出したのは、柄でもないか。
予定より少し遅れて16時半ころに金比羅のホテルに到着し、夕暮れが近いことから、旅装を解く間もなくすぐに金比羅宮の階段を登り始める(写真下)。
ガイドのおじさんの駄洒落に付き合いながら、785段上の御本宮まで登り、展望台から下界を眺めた頃には、もう辺りは夕闇に包まれていたのだ。
参道近くのホテル(紅梅亭)はかなり大きい規模だったが、思いの外にスタッフの対応も良く、また食事と風呂も満足いくものだった。暖房が少し効きすぎていたみたいで、朝方暑くて目が覚めたら喉がカラカラになっていたのは自己責任かぃナ?
その2へ続く


2010年11月13日(土) その3からの続き
県道36号を横断して湯免橋を渡ると「香月ロード」なる道になり、香月泰男画伯の余技とも言われた廃物利用のおもちゃを模ったモニュメントが、香月美術館までの道路沿いに建ち並ぶ(写真上)。
一見、奇抜な出で立ちにギョッとするものもあるが、暫くの間周囲の風景と交互に眺めていると、次第に溶け合っていくように見えてくるのは不思議なもんだ。
その先の湯免温泉入り口には小さな祠の住吉神社があり、傍らには「湯免温泉発祥の地」と書かれているが(写真中)、この温泉も何度か来ているはずなのに、こんなものがあったとは今まで気がつかなかった。
後は、観月橋を渡って県道287号に入って三隅川沿いを往き、そのまま県道を西進すると左手に長門三隅駅が見えてくる(写真下)。
今日はここから山陰本線と美祢線バス代行を乗り継いで帰宅することにするが、ご多分にもれず山陰本線の本数の少なさから、帰宅できるのは3時間後くらいになりそう。約5時間半の40,883歩であったぁ~。

2010年11月13日(土) その2からの続き
その先、床並地区に入ると、国道からは少し離れた道を辿るのだが、九十九折りでかつ上り下りの連続となり、国道を歩くよりも道のりが倍以上長くなるのは仕方ない。
鎖峠の少し手前で国道と合流するのだが、その合流点のもう少し手前には、石造りの眼鏡橋(三見橋)を見ることができる(写真上)。説明板によれば、明治26年に県道の土橋として建設されたのが最初で、その後、大正3年に石造りとして改築し、昭和25年に県道から国道に格上げされたが、昭和38年に別ルートに国道が拡幅して完成されたために市道に格下げされ、それが幸いして今に生き延びたらしい。街道は、この眼鏡橋を見上げるようにして足下を登って行く。
登り坂の連続の後、ようやく萩市に別れを告げ、長門市との境の鎖峠に辿り着く(写真中)。峠を下ると、国道はトンネルが三つ続くのだが、街道は国道から離れて左に下って行く。滝坂、一ノ瀬を経て宗頭へ出て、ここからは国道とほぼ並行して湯免温泉方向へ向かう。
何の気無しにしばらく街道を歩いていたら、トットコトットコ歩いていく小さな動物に出会ったが(写真下)、よく見ればウリボーだ。思わず、近くに母猪がいるのではと辺りを見回したが、その気配は無く、またウリボーも無心に草の根を掘り返してはムシャムシャと食べていたのだ。
『はよぅ山に帰らんと、猟師に見つかって撃たれるぞぉ~』と言ってやったのだが、全く無視されてしまった。
その4に続く

2010年11月13日(土) その1からの続き
暫くは歩道の無い危険な国道を歩くしかないが、三見漁港方向への三叉路を過ぎると右手に旧道が残っているので、こちらを往く。この道は舗装してあって歩きやすく、大型車に脅えながら道端を歩いていたのが嘘のようだ。道ばたに咲く綺麗な山野草と共に、長閑なひととき(写真上)が満喫できる。
やがて街道沿いの宿駅である三見市に到着する。現在は、三見地区の中心は三見漁港の辺りになっているようだが、往時はこの三見市が栄えていたみたいで、色雲寺なる古刹(写真中)があったり仁王堂なるものも残っている。
宿屋が31軒もあったというのだから、相当な賑わいであったことがうかがえるが、説明板(写真下)にあるように、藩主一族の大寧寺参詣や湯本・俵山への温泉湯治客などがこの街道を行き来したのだろうか。
その3に続く

2010年11月13日(土)
赤間関街道は、
・萩から日本海沿いに大回りする「北浦道筋」
・長門市深川から南下して山間部に入る「北道筋」
・萩往還途中の明木市から呑水峠・美祢を経て吉田で山陽道に合流する「中道筋」
の3本のルートがあることは、前に記した。
この内、中道筋は既に今年5月に歩いているので、次の目標として北道筋を目指してみた。
新山口駅からバスに乗って萩バスセンターで下車し、まずは真っ直ぐ南下して橋本橋を渡り、JR萩駅前を右折して橋本川沿いに玉江駅方向へ歩き始める。すぐ左手に大照院が見えたので立ち寄ってみた。
毛利元就の孫にあたる毛利輝元が関ヶ原の後に防長2国に押し込められて隠居し、その子の毛利秀就が初代の萩藩藩主となった。幕末になって山口に藩庁が移るまでの260年間、13代の藩主が治めた訳だが、初代と偶数代の藩主夫妻の墓が、この大照院にあるのだ。
重臣やゆかりの深い人々が献上した603基の灯籠が参道に並ぶさまはなかなか壮観で(写真上)、毎年お盆には全部の灯籠に蝋燭を灯す万灯会があるとのことだが、一度その時にも訪れてみたいものだ。
国指定重文の「木造赤童子立像」がちょうど公開中だったので、ありがたく拝観させていただいた。また、同じく重文の庫裏(写真中)を眺めていたら、入り口のすぐ脇に、形は柿ながら親指の先ほどしかない小さな柿を見つけた(写真の中程の木)。説明のお爺さんは確か「シナノガキ」と言ったように思うが、豆柿のことだろうか。その形が見るからに渋柿のようであったので、多分食しても渋いだけと思われ、敢えていただいてみようとも思わなかった。
玉江駅の少し手前から左折し、国道191号に沿った旧道を往く。白水小学校を過ぎて次第に山中に入って行くと、長閑な山里の中に、これまた巨大な橋桁と共に道路工事現場が出現する(写真下)。
国道191号の大雨時やバイパス機能、それに将来的には山陰自動車道となることも考慮した道路なのだろうが、何ともはや似つかわしくない風景であることかなぁ。
地元の人々が、この道路ができることで不便な生活から解放されて、人間的な暮らしができるように願わずにはいられないのだが、実際は多分違うだろうなぁ~。
その2へ続く

2010年10月16日(土) その3からの続き
腹ごしらえの後は、津和野大橋から北側に広がる殿町周辺をゆるりと散策する。この橋の南側にある郷土館の前は、昔ながらの街道松の風情を残している(写真上)。
オイラが幼少のみぎりは、実家の近くやあちこちで、この写真のように道を塞ぐような街道松が結構あったように記憶しているが、いつの時代にかモータリゼーションの波に呑まれて消え去ってしまったのだろう。
そんな想いを巡らせながら改めてこの街道松を眺めると、さぞや邪魔であったろうこの松を今に残した津和野の人達は、エライなぁとつくづく思う。
殿町の武家屋敷に、ちょっと異彩を放つのが「津和野カトリック教会」で、これまで中を覗いたことがなかったので入ってみた。重厚な石造りの建物の内部には華麗なステンドグラスが煌めいていて、邪心多きオイラの心を鎮めてくれる(…無理か)。
入り口横には、近くの乙女峠に於けるキリシタン弾圧関係の資料館があり、とても悲しい事件が起こった地でもあることを認識させられた(写真中)。
つまり、明治維新後になってもまだキリシタン禁止令が続いていたこと、そして、改宗を迫られた長崎浦上のキリスト教徒たちの内の153名が乙女峠にあった光淋寺で幽閉収容されたこと、当初は緩やかに改宗を迫られていたがやがて残酷な拷問による棄教を迫られたこと、そしてついに、子どもを含む36名の信徒が火責め水責めに耐えられず殉教者となったことなど、知らなかったことの何と多いことか。
キリシタン迫害なんぞは、天草四郎の時代で終わったのだろうと思いこんでいた自分が、頗る恥ずかしい。それにしてもこの石州街道は、山口市内の「聖ザビエル記念公園」、地福の「隠れ切支丹墓標」、そして「津和野カトリック教会」「乙女峠」と、はからずもキリシタン絡みの史跡巡りとなったのだナァ。
乙女峠のある津和野駅の裏側(西側)には多くの寺院があるが、中でも大伽藍と荘厳な雰囲気に圧倒されるのが永明寺だ(写真下)。山門を登っていく途中の時点で、既に何となく心が静まってくるのは不思議なもので、このようなお寺であれば森鴎外さまも静かに眠っておられるだろうと思う。
という訳で、約3時間の津和野歩き巡りであった。

2010年10月16日(土) その2からの続き
津和野城に登ってみて、その造りや眺めに驚いたのはもちろんだが、何とここにも、SL撮影団(いわゆるトリテツ)がワンサといることにも吃驚した(写真上)。当然、こんな遠方から撮影するのだから、皆さんが持参しているカメラは、でっかいズーム付きの高級デジタル一眼と三脚他一式だワナ。
見れば、主力の年齢層はやはりオイラと同様のリタイア世代のようで、小金を貯め込まずに、国内消費向上に大いに貢献していただいているのは喜ばしいことだ。
再度リフトに乗って麓に降り、歩いてすぐのところにある津和野稲荷にも立ち寄ってみたが、まぁここの駐車場もトリテツがずらりと並んでいて、SLが津和野駅を発車するのを待ち構えていた(写真中)。
ひょっとすると、駐車場を占領している自動車の多くは、参詣客ではなくてトリテツさん達かも知れないナ。都会のトリテツは、マナーを守らない自分本位の無法者も少なくないと聞くが、ここら辺りのトリテツさんは皆さん紳士ばかりのようにお見受けする。
紳士のトリテツさん達には、どうかお稲荷さんのご加護がありますように…。
お稲荷さんに参詣した後は、北側の鳥居参道をゆるゆると歩いて下り、以前から気になっていた参道沿いの「美松食堂」へ入って、遅めの昼食とした。
真っ黒な「いなり寿司」がここの名物と聞いていたので、うどんとのセットを注文してみた(写真下)。確かに真っ黒ではあるが特に辛いという訳でもなく、全体としては僅かに酸っぱ目で、中身の五目ご飯とのマッチングはなかなか宜しい。
うどんはごく普通の素うどんだったが、小鉢に入った里芋、筍、ふきの煮物がとてもアッサリしていて、いなり寿司のおかずに最適だった。
その4に続く

その1からの続き
山上に上がって見ると、見事な石垣を始めとする本格的な城造りの有り様に驚く(写真上)。平地に造られた城と全く変わらない巨大な石垣群を、どうやってこんな山上に持ち上げたのだろうかと想いを巡らしてみるが、当然オイラのような素人に分かる訳がないワナ。
元寇警備のため、1282年に土塁だけの原始的な山城としての築城が始まったらしいが、関ヶ原後の1601年以降に今のような石垣造りや出丸の増築などの本格的な工事になったようだ。
江戸時代になってもそのまま城として使われていたのは、隣接する長州への目付役としての使命があったのではないかとも言われているらしい。
本丸辺りから下界を眺めると(写真中)山城であることを実感できるが、ここに三重の天守閣が聳えていたかと思うと、その威容は相当なものであったことが想像できる。
本丸の東側並びには出丸跡もあり(写真下)、ここだけでもかなりの人数の武者がいたのだろうかネ。
その3へ続く

2010年10月16日(土)
これまで津和野にはもう数え切れない程来ているのだが、三本松城とも言われる津和野城には登ったことがなかったので、今回行ってみることにした。
どうせなら登りくらいは歩いて行ってみようと思ったら、何と、登山道は閉鎖されていて、有料(往復450円)のリフトでしか登れないことが分かった(写真上)。おまけに、リフトに乗る際には、熊よけの鈴を腰に着けさせられるという有様で、まぁこれはこれで面白いが、山上ではあちこちでリンリンと音がするので多少五月蠅い感じはする。
リフトはごく普通の簡素なもの(写真中)だが、登るにつれて傾斜が急になり、終点近くではかなりの傾斜となってそこそこにワクワクする。この感じは帰りの下りの時の方がより一層大きく感じるので、是非お試しあれぇ。
リフトの終点に到着してもそこで終わりではなくて、尾根道をしばらくは歩くことになる(写真下)。山城と言われる通り、急峻な山上のかなり広いエリアを切り拓いて造られているので、隅から隅まで見ようとするとそれなりに足腰を鍛えておく必要がある。
その2へ続く