前立腺がんを疑われ | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 (一)

 「必死に生きる」という言い方があるが、字面(じづら)だけ眺めると変な言葉である。「必ず死ぬ」+「生きる」という正反対の言葉が連結して、「めちゃくちゃガンバって生きる」という意味になっている。「毒を以って毒を制す」的なヤツか? トンチンカンなことを言っても始まらない。

 私は二〇一五年八月二十五日、五十五歳にして人生初の入院を経験している。自宅の近所で酒を飲んでいて、突然、小便が出なくなったのだ。実は、数日前から会陰部(えいんぶ)、つまり肛門のあたりがモゾモゾしており、イヤな痛みがあった。会社の同僚にそのことを話すと、

「コンドーさん、それは石ですよ。尿管結石だわ。ビールをガーッと飲んで出した方がいいっすね」

 そのアドバイスを真に受けた。ふだんたいして飲まないビールをたて続けに飲んだ結果、小便が緊急停止したのだ。水道の蛇口のパッキンが非常ブレーキをかけたのである。同僚は、数年に一度、石の粉砕治療を行っている尿管結石のスペシャリストだった。

 やむなく救急車で緊急搬送してもらい、結果的に「尿閉」と診断された。翌朝の医師の回診時に、

「若いのにね……」

 と言われた。それがどういう意味なのかわからなかった。検査では結石も確認されず、排出された形跡もない。原因がわからず、ただ「尿閉」なのである。

 前立腺とは、男性特有の生殖器である。それは直腸と恥骨の間に存在し、膀胱(ぼうこう)の出口で尿道を取り囲んでいるため、前立腺が肥大すると尿道が圧迫される。小便が止まった原因は、これだった。前立腺肥大の原因はよくわかっていないらしく、簡単にいうと、老化現象である。「若いのにね……」は、そういう意味だった。後日ネットで得た知識である。

 私の入院した病院は、札幌では老舗の泌尿器科専門の病院だったが、医師からはきちんとした説明が何もなかった。検査こそしたが、あそこに管を入れたまま四日間も過ごした。その間、身動きの取れない私はずっと小説を読んでいた。結果的に症状は消えたのだが、自ら退院を申し出て、病院を変えた。

 二軒目の病院も泌尿器の単科で、大きな病院だった。例のスペシャリストのかかりつけの病院である。最初の病院で出された平滑筋を緩める薬が引き続き出された。副作用がないから飲み続けろというのだ。そんなわけで三、四か月に一度の割合で、その薬をもらいに泌尿器科に通っていた。

 いずれの病院も、外来患者のほとんどが男性である。中には女性もいるが九割はジイさんだ。人工透析患者もいるようだが、泌尿器科=前立腺肥大という図式があるようだ。ジイさん相手の細かい説明には根気がいる。どうせ説明したってたいして聞いていないし、理解できないだろう、泌尿器科医にはそんな諦念ムードが蔓延しているのではないか、というのが私の個人的な印象である。もちろんそんな医師ばかりではないだろうが、とにかく医者は忙しいのだ。この三年の間に、私は二軒の病院で計六名の医師とかかわった。だが、しっかりとした説明をしてくれたのは、たった一人だけだった。

 泌尿器科なので、年に一度、血液検査をしてくれる。前立腺がんの検査だ。昨年(二〇一八)七月、そこでがんの疑いがあると言われた。血液検査でPSAの数値(前立腺がんの腫瘍マーカー)が、前回の「3」から「4」に上がっているというのだ。血液検査をして、その結果を聞くのが次の外来である。つまり検査の三、四か月後になる。

「今日、もう一度検査しますから。数値が上がっていたら連絡します」

 数値が「4」を超えるとがんの疑いがあるという。ネットにもそんな記載があった。

 周りによけいな心配をかけたくはない。誰にも話さず、電話を待った。きっとくるに違いない、覚悟は決めていた。何があろうとも従容(しょうよう)と受け入れよう。こういう時こそ武士らしくなければ、そう自分に言い聞かせた。なぜか、ここで武士が出てきた。だが、そうは思いながらも、油断をするとどす黒い感情が、胸に満ちてくる。振り払っても振り払っても、ベットリと纏(まと)わりついてくるのだ。

 その電話が一週間を過ぎ、二週間を過ぎてもこなかった。小さな安堵を覚えた。しかし、一か月が過ぎたころ、万が一の不安が頭をもたげ出した。私のどこかに、この病院の医師を信頼していない部分があったのだ。念のため、という思いで病院を訪ねた。二〇一八年八月下旬のことだった。

 

 (二)

「先生、やっぱり結果が気になりまして……」

 診察室に入った私が、開口一番に発した言葉である。カルテに目を落としていた五十代前半と思しき医師が、

「あ、これはマズイな」

 と呟(つぶや)いた。

「生体組織検査、必要ですね。検査入院になります。なかには、会社休めないって、麻酔かけないで日帰りでやっちゃうツワモノもいるんですがね」

 不自然に饒舌(じょうぜつ)になっている医師の胸ぐらをつかみたい感情が沸き上がった。PSAの数値が、「4」から「9」に跳ね上がっていたのだ。

(きさまーッ、なぜ、電話をよこさなかった……。この一か月、オレがどんな気持ちで過ごしてきたか……)

 ジタバタしてもどうにもならない。私は丁寧なあいさつを残し、診察室を辞去した。だが、私はすでにこの医師を斬り捨てていた。

 自宅に帰り着いてから泌尿器科外来に電話し、紹介状を依頼した。電話に対応したのは、診察室にいた看護師だった。二日後、紹介状を手にした私は、がん治療に特化した近所の病院へと向かった。私はこの時点で、初めてパートナーのえみ子に自分の状況を打ち明けた。えみ子とは毎日頻繁にメールのやり取りをしているので、ヘタな隠し事はすぐにバレる。

「……それで今まで黙ってたんだ。一人で抱え込んでね……」

 えみ子は半ば呆(あき)れ、憮然(ぶぜん)としながらも、懐の深い部分で受け入れてくれた。涙がこぼれるほど、嬉しかった。

「まず、MRI検査をして、疑わしい場合、生体組織検査をしましょう」

 早い方がいいでしょうから、ということで二日後にMRI検査を実施した。

「画像を見る限り、がんの兆候は認められません。生体組織検査をして、確定診断までもっていきますか?」

 医師の歯切れが実にいい。

「いや、そこまでしなくても大丈夫です」

 現時点では入院検査までは必要ない、という医師の考えに私が同調し、笑顔で頷(うなず)きあった。三か月後に再びPSA検査をし、その結果により生体組織検査を考えることになった。

 三か月後の検査では、PSA値が「4.500」(病院を変えてから小数点以下の数値が三桁になる)まで下がっていた。何らかの原因で前立腺が炎症を起こしたのではないか、消去法でたどり着いた最終的な結論だった。なぜ、PSAの数値が上昇するような炎症が起こったのかは、わからないという。血液検査の結果は、検査の一時間後には判明するという手際のよさである。念のため、半年後にもう一度血液検査をすることになった。通常の外来ペースでの検査である。前の病院で処方されていた薬を確認していた医師が、

「この薬、必要ですか?」

 と訊いてきた。例の平滑筋を緩める薬である。飲めと言われたので飲んでいる旨を告げると、とりあえず半年分を処方された。その後、この薬はなくなった。前立腺の肥大はみられるが、現段階で特段の処置は必要ないという。

 これが五十八歳後半、二〇一八年の夏から冬にかけての出来事だった。

 私もいつがんになってもおかしくはない、そんな〝お年頃〟を迎えている。いつの間に、こんなに年をとってしまったのだろう、我ながら驚き、愕然(がくぜん)とする。現に、中学時代の同級生の一割は、すでに物故者となっている。事故死も含んだ死亡者の数だが。

 

 人は必ず死ぬ。でも、死ぬ直前まで一生懸命に生きようとする。「必死に生きる」とは、そういう意味である。今回、人生の期限を切られそうになって、改めてそんなことに気づかされた。

 

 (三)

 前立腺がんの腫瘍マーカーであるPSAの数値は、「4」を超えたらがんが疑われる。二〇一八年十一月時点でのPSA値は「4.500」であった。半年後の二〇一九年五月の検査結果は「5.080」と、わずかに上昇していた。この数値を目にした医師は、次の検査を半年後とはせずに、三か月後の八月とした。しかも前回のMRI検査からちょうど一年になるので、MRIも行うという。

 これまでの検査では、がんの疑いがスッキリと晴れた、とまでは言えなかった。二〇一八年七月に「9」に跳ね上がった数値が四か月後には「4.500」に下がった。だが、その後の数値の推移をみると、じわじわと薄雲が広がり出し、今ではすっかり曇天の様相を呈していた。

 迎えた八月。採血の後、呼ばれて入った診察室で真っ先に見せられたのが、PSAの数値が記された検査結果だった。「6.090」とあった。

「この一年間、ずっと右肩上がりなんです」

 そう言った医師が、MRIの画像をディスプレイに表示させた。

「ここ、この部分ですが……、(腫瘍を)疑わせるものがあるんです」

 そう言いながら、その部分の画像を大きく映し出した。

「どうです? 生検をやってみますか?」

 このままもう少し様子を見るか、細胞検査をして確定診断を出すかという選択である。迷う余地はない。一刻も早く白黒をはっきりさせるべきだと思った。最短の検査可能日である一週間後の八月二十八日に、検査入院の予約を入れた。

 細胞検査とは、「針生検(はりせいけん)」といって、下半身に局部麻酔をかけて前立腺に二十か所ほどの針を刺し、細胞を取り出す検査である。麻酔をかけるので、一泊の入院検査となる。さらに私の場合、怪しいものがある部位が針を命中させるのに難しい場所だという。確実に針を刺して細胞を取り出すためには、通常のエコー画像に今回撮ったMRI画像を重ね合わせることで、より正確な病変の生検が可能になるという。この手法は高度先進医療に該当し、保険が利かない。せっかく検査したのにちゃんと命中しなかったからダメでした、では話にならない。もちろんやることに同意した。

「先生、これはかなり疑わしいと理解していいんですよね」

 恐る恐る探りを入れると、医師は小さく頷きながら、

「生検結果をみなければなんとも言えませんが、現段階ではそう考えてもらっていいかと思います」

 PSA値が警戒水位を超えて上昇し続け、MRIの画像でも怪しいものが見える。つまり生検による確定診断を待つまでもなく、これは選挙でいうところの出口調査の「当確」ではないのか? おそらくそういうことなのだろう。自分が仮釈放中の身であったことを改めて思い知らされる。ふと、えみ子の顔が浮かんだ。

「禍福(かふく)は糾(あざな)える縄の如し」と言うが、もう少しいいことが続くかなと思っていた。えみ子と出会ってまだ三年である。残念だと思った。えみ子に心配をかけることが何より心苦しく、申し訳ない気持ちが胸に溢(あふ)れた。

 

 一泊二日の検査入院ゆえ、手ぶらのような身軽な荷物である。一緒にいかなくてもいいのかというえみ子や妹の申し出を振り払い、Tシャツにジーンズという近所のスタバにでもいくようなスタイルでフラリとやってきた。すでに覚悟は決まっていた。あとは手順に従って粛々と検査を受けるだけだった。

 病室は四人部屋だった。ほかの三人はいずれも年配者で、みな一様に顔色が悪く生気がない。病室の空気がずっしりと重い。その重苦しさが、病状の深刻さを物語っていた。早々にレンタルのパジャマに着替えたら、それだけでこちらも病人の気分になった。

 着替えたのはいいが、スリッパを忘れてきた。病室でテレビを観るためのテレビカードを購入したが、テレビから音が出ない。イヤホンの購入が必要だという。翌朝には退院なので、テレビは断念した。体重や血圧の測定など、すぐにいくつかの軽微な検査が待っていた。

 バタバタとしているうちに昼になる。午前七時までに食事を終えるようにとの指示があったので、さすがに空腹を覚える。午前中には生検が始まるのかと思っていたが、一向に呼び出しのかかる気配はなかった。

 入院に際し、特に何も制限がないので、病室にノートパソコンを持ち込んでいた。所属しているエッセイの同人誌会員の原稿の添削があったので、作品評を打ち込む。そんなことをしながら、ある種の恐れがつきまとっていた。半身麻酔を打つということは、その前に浣腸(かんちょう)をされるに違いない。看護師が浣腸をもって入ってくる、そんな場面を想像して緊張していた。

 

 (四)

 手術室に向かったのは、午後四時だった。浣腸を手にした看護師は、とうとう現れなかった。浣腸をしなくても大丈夫なのかという危惧と、小さな安堵感を覚える。ハンパない空腹感は、自分は今、修行をしているんだ、と思い込ませることでやり過ごした。

 手術衣に着替え、看護師に先導されながら点滴スタンドを押して、手術室へと歩いて向かった。手術室の扉が開き、別の青いナース服を着た看護師に引き渡された。バージンロードを歩いてきて、父親から新郎に引き渡されるような、そんな構図が脳裏をよぎる。

 手術室は、テレビドラマのセットさながらの様相を呈していた。手術台の横には大きなパソコンのディスプレイが二台あった。これだな、と思った。

 さほど広くはない手術室の中を、二人の男性医師と四人の女性看護師が慌しく動き回っている。私の緊張を和らげようと看護師が入れ替わり立ち替わり話しかけてくる。心電図、血圧計、パルスオキシメーター(血中酸素濃度を測る指に挟むモニター)が手際よく取り付けられていく。怖いことはないはずなのだが、六人の医療スタッフが放つ張り詰めた雰囲気に、いやが応にも緊張が増幅される。

 下半身の局所麻酔をかけるために、まず脊椎に痛み止めの注射を打たれる。「少し痛いですよ」と言われたが、少しどころか声を上げるほどの痛みが走った。痛み止めが痛いとはシャレにならない。続けて打たれた麻酔も、大きな鈍痛を感じた。ほどなく、肛門から足にかけて、カーッと熱くなってくる。麻酔が効き始めたのだ。

 エビのように背中を丸めていた体勢から仰向けにされ、両足を固定された。分娩台さながらである。もちろん下半身はむき出しである。鳩尾(みぞおち)のあたりに仕切りの布が張られ、下半身側が隠された。視界の範囲に誰もいなくなったので、六人は私の股座(またぐら)を覗き込んでいるのだ。感覚がないので、何をされているのか見当もつかない。陰毛は剃られていないようだった。

 麻酔が効いているかどうか、脛(すね)や太腿(ふともも)に氷を当てて確かめる。そのとき、左右の足で感覚が違うのに気がついた。麻酔がちゃんと効いていないのではないか、とうい杞憂(きゆう)がよぎった。だが、さすがにその辺はちゃんとするだろうと思い、何も言わなかった。それが恐怖心を煽(あお)ることになる。

 私の股間を前に、医師たちが結構長い時間、なにやら相談している。恐らくチ〇ポと睾丸は粘着テープで腹に固定され、露(あら)わになったチ○ポのつけ根から肛門にかけて印をつけているようであった。クルミ大の前立腺に、二十本もの針を刺すのだ。大変な作業だと思う。腕に巻かれた血圧計が数分おきに作動し、腕を圧迫する。自動的に血圧が計測されているのだ。

 やがて準備が整ったようで、

「これから針を撃っていきますが、かなり大きな音なので驚かないでくださいね」

 医師が不吉なことをいった。ちゃんと麻酔が効いているのか、不安が増大する。ブシュッという大きな音と共に、股座に衝撃が加わる。その音は、空気圧で弾丸が撃ち込まれるエアガンさながらの発射音であった。痛みがなくホッとする。だが、こんなことを二十回もやったら、前立腺が砕けるのではないかと不安に思った。どのような状況で作業をしているのか、モニターでもいいから見せてほしかった。

 針生検は、一時間ほどで終わった。手術台からストレッチャー、そして病室のベッドへ。私のベッド移動は、看護師四人がかりである。なにせ下半身が他人と化しており、まったくコントロールが不能なのだ。もし、切腹を命ぜられるようなことがあったら、まずは局部麻酔をお願いしようと思った。下半身が引きちぎられても気がつかないだろう。

 ベッドから頭をもたげてみると、ベッドの横に小便袋がぶら下がっていた。私のあそこと袋が管で繋がっているのだ。その袋を見てギョッとした。小便の色がアセロラジュースなのだ。血尿である。針のダメージなのだろう。

 病室担当の看護師がやってきて血圧を測る。

「やっぱり高いわねー」

 上が一六五だと言う。二度とも同じような数値だった。手術中は一八〇あったというのだ。再びギョッとした。私は平素一一〇から一二〇なのだ。退院して数日後に血圧を測ってみたら一一〇台に戻っていてホッとした。手術室での不安の増大が、最高血圧を跳ね上げていたのだ。

 私は取り置きしてもらっていた遅い夕食を摂った。十三時間ぶりの食事である。軽く二キロは痩せただろうと思ったが、翌日自宅で測ってみたら、わずかに二〇〇グラム減っただけだった。ダイエットとは、かくも難しいものなのかと思い知らされた。

 

 (五)

 令和元年(二〇一九)八月二十八日の針生検の結果は、二週間後の九月十日に結果がわかるという。そもそもPSAの数値が上がり出し、前立腺がんを疑われてから一年半になる。その間、グレイな日々を送ってきたことになる。

 針生検後の自分の股座(またぐら)がどのような状況になっているのか気になった。そこで自宅に戻ってすぐに局部を見ようとした。だが、どうしてもぶら下がっているモノが邪魔で、確認できない。やむなく局部の真下にスマホを置いて、写真を撮ってその画像を確認してみた。さながら、変態行為のようなものである。写った画像を見ると、局部にはゴマ粒が散りばめられていた。針を刺した跡が、瘡蓋(かさぶた)になっているのだ。スマホの画像はすぐに消去した。間違ってインスタやフェイスブックに上がってしまってはマズイ。

 しばらく局部の鈍痛は続いたが、血尿は三日ほどで元の色に戻った。厄介だったのは精液である。こちらは当初、赤ワインをドロドロにしたようなどす黒いものであった。それが次第にこげ茶色から茶色に変わって、正常に戻ったのは一か月半後であった。事前にネットで調べていたが、二か月ほどかかる人もいるとのことだった。人間の復元力と前立腺のダメージの大きさを思い知らされた。

 私は五十九歳(当時)である。いい年をして、という恥ずかしい思いもある。だが、これが偽らざる正直な姿である。わが曾祖父は、五十九歳で十四人目の子を産んでいる。もっとも曾祖父の妻は後妻で、二十歳下だった。

 がんが転移しているとかそんなことより、針生検によってできなくなったらどうしよう、それが最大の関心事だった。新たな子供は不要だが、スキンシップは大切である。

 私はプロの作家には程遠いが、表現者としてこれからも生きていきたい。だから、今回の災いも「これでまた書ける!」と膝を叩いている自分がどこかにいる。従容(しょうよう)として現実を受け入れる、そんな生き様、みっともない人生を描いていきたいのだ。

 なんだかすっかり悲劇のヒーロー気取りだが、この余裕は「どうせ初期のがんだろう」というところからきていた。私の会社はがん保険を扱っている。入社早々に三口加入させられた。つまり、がんだと診断されただけで一口当たり百万円の保険金が下りる。合計三百万円だ。棚から牡丹餅である。針生検の高度先進医療費(十数万円)だって、十年前に更改した生命保険の守備範囲である。そんなどす黒い思いが、私を楽観的にさせていた。むしろ、がんであった方が得をしていいとさえ思っていた。

 だから、九月十日の診察待ちの廊下の長椅子では、せっせとエッセイの添削を行っていた。悲壮感はまるでなかった。私は早朝から病院にいたので、泌尿器科外来の整理番号はトップバッターであった。

 医師二人による診察が始まった。だが、十五分が経過しても私の方の医師からの呼び出しがかからない。隣の医師の患者は次々に診察室に入っていく。なにやらややこしいことが起こっているのではないか、そんな不安が沸き起こってきた。手術担当の医師と私の外来担当の医師は別だった。私の主治医はがんに特化したこの病院の医院長であった。そんな思いを巡らせていた矢先、やっと私の整理番号が診察室入口のディスプレイに表示された。

 診察室に入って開口一番、

「実は、細胞検査の結果なんですがね……」

 と切り出された。医師が心なしか前のめりの姿勢で話しかけてきた。その様子に私は、「ん? がんじゃないの?」との察しがついた。今回の細胞検査の結果、悪性腫瘍は見当たらなかったという。「今回の」とつけるあたりが、この医師らしい。

 かくして、私はあっけなく「白」となって釈放されたのである。私にかかわる周りの人たちには、がんに間違いないと思うが、かなり「早期」だから心配はいらない、そんな主旨のことを吹聴して回っていた。抗がん剤治療もないだろうし、あったとしてもすでにこんなハゲ頭だから、何ら問題はない。そんなことを言って笑わせていた。その振り上げた拳の下ろしどころを失った。

 えみ子や妹にもその旨をすぐにラインで知らせる。安堵の溜息が伝わってきた。私は三百万円が飛んでいく、そんな思いを感じていた。

 しばらく後になってから知ったのだが、がん保険が定義するがんとは、「悪性新生物」のことであり、私が想定していたごく初期のがんは、「上皮内新生物」であって、がんには該当しない。つまり、保険金が下りないということを知らされた。保険会社の手口もなかなか巧妙である。この段になって初めて、がんではなくてよかったと心から安堵したのであった。

 次のPSA検査は、半年後の三月だという。数値が高いうちは、しばらくこういうことが続くのだろう。これで再びPSAの数値が上がっていたら……とりあえずこの作品、ここらで完結しておこうと思う。

 

※ 前立腺とは

 前立腺は男性特有の生殖器の一つである。前立腺の働きについては、まだわかっていないことが多くある。わかっている部分では、前立腺液といわれる精液の一部を作り、精子に栄養を与えたり、精子を保護してその運動機能を助ける役割を果たしている。

 また、前立腺は直腸と恥骨の間にあり、膀胱の出口で尿道を取り囲んでいる。このため、前立腺が肥大すると尿道が圧迫され、排尿に関わるさまざまな症状が出現する。射精管も前立腺の中を通っている。

 

 2020年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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