気の毒な患者様 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 たばこを吸う行為が病気と言われるようになって、どれくらいになるだろう。喫煙=病気という構図は、ある意味衝撃的だった。病名を「ニコチン依存症」という。ウイキペディア(インターネット百科事典)では「……タバコ商品の常習的な喫煙を継続した結果、薬物依存症と習慣依存と認知の歪(ゆが)みによって、自らの意思で禁煙をすることが困難になった精神疾患を指す」とある。容赦がない。精神病者だというのだ。

 むかしは、父親が居間でたばこを吸うのは、当たり前の光景だった。大人になったら、だれもがたばこを吸い、酒を飲む、そういうものだと思っていた。

 学生時代、肉体労働系のアルバイトを何度か経験したが、休憩時間になると、

「おーい、たばこにするどー」

 という声がかかった。そういう人たちも含め、全員が精神病者だったのか……。

 地下鉄のホームで電車を待っている間もたばこを吸い、線路には投げ捨てられたおびただしい数の吸い殻が散乱していた。もちろん柱には灰皿が括り付けられていた。気の利いた駅には、消火用の水の入ったペットボトルまで置いてあった。あの密閉された飛行機の中でも、禁煙サイン(離着陸時だけ禁煙ランプがついていた)が消えたとたん、あちらこちらでいくつもの煙が立ち上った。新幹線にも喫煙車両があった。今では考えられないことである。若い世代に話しても、「このオヤジ、何を大袈裟なことを言ってやがる」と取り合ってくれないだろう。

 たばこのない状態がすっかり常態化し、逆にたばこのある状況が不自然になった。かつての「常識」が化学変化でも起こしたかのように「非常識」に変わったのだ。まさにコペルニクス的転向である。今、男性の喫煙率は、三割を下回っている。

 吸わないのに吸わされている「受動喫煙」という考えが嫌煙権に勢いを与え、禁煙運動を一気に加速させた。たばこと病気の因果関係が明確になってきたことが、人々の禁煙意識を一足飛びに高めた。もちろん、先を走っていた欧米諸国の影響は大きい。

 「慢性閉塞性肺疾患」、「がん」、「虚血性心疾患(狭心症と心筋梗塞)」を、喫煙関連三大疾患という。「慢性閉塞性肺疾患」とは、気管支炎を起こし、痰(たん)・咳(せき)が出やすくなることや、気管支が細くなり、息切れを感じる症状である。喫煙者の二〇パーセントがこの病気を発症しているという。ほかにうつ病の発症率が高まったり、歯周病にも一役買っている。また、スモーカーズ・フェイスといって、いわゆる「老け」の要因も喫煙によるものとされている。要は、何でもかんでも「たばこが悪い」のだ。かくして「愛煙家の皆様」は、「ニコチン依存症患者の皆様」と天地が逆転した。

 

 平成二十三年(二〇一一)の春、東京から北海道に転居し、驚いたことの一つが喫煙者の多さだった。東京では喫煙場所を探すのに一苦労するのだが、北海道ではどこでもたばこが吸えた。これじゃ、たばこを止めるきっかけがつかめないだろう、と思った。ただ、これは北海道に限ったことではなく、大都市圏以外の地域では、どこも同じなのだろう。

 私がたばこを吸い出したのは、大学生になってからである。中学生になると、興味本位で隠れてたばこを吸う輩が出てくる。高校生になるとそれが加速する。そのころの私は、たばこにはまったく興味がなかった。

 初めてたばこを吸ったのは、十九歳、一浪時代の受験の最中だった。京都のとある大学を現地受験し、結果発表を見にいったら、落ちていた。自分にとっては、滑り止めの学校だった。翌日には本命の試験が控えていた。強い失意を抱きながら、トボトボと薄暗い街道を歩いていた。途中で見つけた喫茶店に入り、コーヒーと一緒にたばこを注文した。吸ったのは、キャスターだった。立て続けに二本ばかり吸って、あとは丸めてゴミ箱に捨てた。

 本格的にたばこを吸いだしたのは、大学入学後である。大学の持つ自由な雰囲気に圧倒され、一気に大人になった気分がそうさせた。酒を覚えたのも同時期である。

 四十歳からエッセイを書きだしたのだが、文章を書くのに、たばこは切っても切れないものとなっていた。ちょっといき詰ったとき、一服することで打開できることが多々あった。たばこがなければ文章が書けない、そんなふうにさえ思っていた。かといって、ヘビースモーカーだったわけではない。私は元来胃腸が弱く、ニコチン〇・一ミリのたばこを一日十五本ほど吸う程度だった。禁煙気運の広がりを感じつつも、止める気などさらさらなかった。

「たばこ? 止めるのなんか簡単だよ。オレなんかこれまでに二百回も禁煙してきたんだから」

 こんな調子で、周りを煙に巻いていた。

 妻もたばこを吸っていた。私と似たり寄ったりの本数だった。それが、精神疾患を得てから、一日に三箱も吸うようになった。チェーンスモーカーに変貌したのである。燻製(くんせい)になるのではと心配になるほど、たばこへの依存を深めていた。

 どこの病院も敷地内から喫煙場が撤去されていたが、妻が入退院を繰り返していた大学病院の精神科病棟だけは、喫煙所があった。患者の多くがヘビースモーカーなのだ。イライラが募って攻撃的になる状況を、ニコチンの鎮静力で緩和する。病気の性質上、喫煙を容認せざるを得なかったのだ。

 結局、妻は十二年半の闘病生活の後、同じく入退院を繰り返していた病気仲間の男性のもとに走った。私が五十歳、妻が四十一歳だった。私は妻との離婚を機に、人生を変えたいと強く願った。妻の知らない私になりたい、と。それが禁煙の動機だった。

 禁煙パッチなどの禁煙ツールを使わず、いきなり禁煙外来に頼った。ニコチンの離脱症状に打ち勝つ自信がなかったのだ。周囲の失敗事例をいくつも聞いていた。

 禁煙外来が功を奏し、二か月の投薬治療で三十年の喫煙生活に終止符を打った。文章を書いているときも、食後も酒の席でも、たばこを吸いたいという気が起こらない。依存症状を克服でき、本当によかったと心から思う。

 喫煙していたころ、食後の一服は不可欠だった。また、長旅の電車を降りた後や空港の到着ロビーでは、まず喫煙場所を探すのが第一だった。そんな労力が不要になった。こんな楽なことはない。

 狭い喫煙所でたばこをふかしている人たちを見ると、気の毒だなと思う。ニコチン依存症患者が、喫煙によってニコチンの離脱症状を一時的に緩和している、そんなふうに映るのだ。かわいそうな人々だ、と。

 今、喫煙している人たちも、遅かれ早かれ病気に罹患(りかん)し入院する。そうなれば、必然的に禁煙を迫られる。心臓にペースメーカーを埋める手術のため入院していた私の叔父は、病室のカレンダーを丸めて開けた窓からたばこを吸っていた。そんなけなげな努力も、すぐに看護師にバレ、こっぴどく怒られていた。

 喫煙しているだけで精神病者だといわれ、その喫煙行為により新たな病気のリスクが増大する。もはや喫煙者に勝ち目はない。「あいつ、まだたばこ、吸ってる。バカじゃねえ?」「やっぱ、ビョーキだな」そんな冷ややかな目にさらされている。喫煙者の肩身は、狭くなる一方だ。

 たばこは、税率負担額が六割を超える商品である。年間二兆円を超える貴重な税収財源だという。たばこ税は、国税部分もあるが、地方税としての貢献度が高い。

「オレは、高額納税者だ」

 と豪語する喫煙者をしばしば目にする。だが、しょせん負け犬の遠吠えに過ぎない。それは本人が一番感じていることだろう。

 どうせなら、たばこひと箱を千円程度に引き上げてやるべきだ。それが、たばこを止める大義にもなろう。喫煙者にだってプライドはある。そんな花道を作ってあげることも必要なのだ。

 それでも吸いたければ、好きにさせておけばいい。いずれ病に倒れ入院し、強制終了の日がくるのだから。何とも気の毒な人々である。

 

  2016年10月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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