米良周策とレイテ沖海戦 (1)~(3) | こんけんどうのエッセイ

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(一)

 米良(めら)家十三代、現当主米良周策は、私の祖母の弟、大叔父にあたる。周策は、大正十三年(一九二四)三月八日、北海道浦河郡浦河町大字浦河番外地生まれ。父四郎次(しろうじ)五十九歳の第十四子で、末っ子である。

 四郎次死亡時、周策は九歳になったばかりであった。それが四郎次に関する情報が現在に伝えられていないゆえんでもある。昭和二十四年(一九四九)三月十五日、シベリア抑留死した兄繁実の除籍に伴い、二十六歳で家督を相続する。

 当初、周策はタクシーの運転手をしていた。姉アキの夫三橋嘉朗が様似(さまに)町で銭湯を経営する傍ら、タクシー業も営んでいた。周策はそこで働いていたのだが、兄繁実が昭和十八年に陸軍に臨時召集され、そのわずか半年後、周策自身も志願して海軍に入隊している。

 私がこれまで周策から聴き取り調査をし、それをもとに調べ上げた内容を紹介する。

 

 周策が十九歳で入隊したのが横須賀海軍航空隊で、後に厚木航空隊に派遣される。厚木には、第三〇二海軍航空隊があり、厚木戦闘機隊と呼ばれていた。やがて静岡の第十六嵐特別攻撃隊(通称八田部隊)に所属し、その後伊豆下田に移ったが、昼も夜もない火のつくような凄まじい訓練に明け暮れていた。

 戦況が悪化していく中、昭和十九年十月十七日、米軍がフィリピンのレイテ湾に集結し、スルアン島に上陸を開始した。軍部は同日夜、急遽(きゅうきょ)「捷(しょう)一号作戦」を発令する。捷一号作戦とは、米軍によるフィリピン奪還作戦(マスケティーア作戦)を阻止するため、日本海軍が全艦を挙げていどんだ総力戦である。

 当時日本軍は、進攻地域を四方面に分けて作戦を立てており、フィリピン島周辺への進攻を一号作戦、台湾・九州を二号、本土を三号、北海道を四号とし、総括して「捷号作戦」と称していた。日本軍にとって、米軍のフィリピン奪還を許すことは、本土と南方資源地帯を結ぶルートの遮断、戦争継続能力の喪失を意味していた。

 すでに航空戦力を消耗していた海軍は、第三艦隊(通称小沢隊)の空母群(十七隻)だけでは、米機動部隊には太刀打ちできない状況になっていた。そこで、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将が、囮(おとり)となって米機動部隊を北方へ誘導し、その間隙(かんげき)を衝いて本隊である第二艦隊(戦艦、軽巡洋艦、駆逐艦合わせて三十七隻)と、第五艦隊(同七隻))がレイテ湾に突撃するという作戦が立てられた。この本隊には戦艦「大和」、「武蔵」、「長門」などが加わっていた。

 昭和十九年十月二十日午後五時三十分、第三艦隊は空母四隻、戦艦二隻、軽巡洋艦三隻、駆逐艦八隻にて別府湾を出撃した。搭載機は総計一一六機で、通常の半分の機数であった。旗艦は、当時、海軍最新鋭かつ最強といわれた戦闘型空母「瑞鶴(ずいかく)」(総排水量二万五六七五トン、全長二五七・五メートル、最大速度三四・二ノット、航続距離一八ノットで九七〇〇海里、乗員一六六〇名)であった。

 瑞鶴は真珠湾攻撃からマリアナ沖海戦まで幾多の海戦を経ながら、一発も被弾したことがなく、当時は、「幸運艦」と称されていた。ミッドウェー海戦(昭和十七年六月)で、海軍が正規空母四隻を失ってから、「瑞鶴」は「翔鶴」とともに海軍航空艦隊の主力空母となっていた。その「瑞鶴」が旗艦(きかん)となって、全滅を覚悟の出撃をしたのである。このとき周策は、零式艦上戦闘機(零戦)の操縦士として、この「瑞鶴」に乗艦していた。

 

 海軍は三方から一斉にレイテ湾を目指した。囮部隊である第三艦隊の主目的は、敵艦を発見することではなく、敵艦に発見されることにあったため、目立つように無線電波を発信しながら南下を続けた。

 別府湾を出撃してから四日後の十月二十四日、第三艦隊は本隊南方一七〇海里に敵艦を確認する。小沢司令長官は攻撃に先立ち、搭乗員に対し次のような訓示を行っている。

「諸君はこれより敵艦の攻撃に向かう。しかし、帰艦するころにはすでに本艦の姿は洋上にないであろうから、攻撃後はフィリピン島の基地に帰投してこれからも元気で戦ってもらいたい。諸君の武運を祈る」

 昭和十九年十月二十四日午前十一時四十五分、攻撃隊七十六機(実動五十八機)が発艦した。

 翌二十五日午前八時二十分、「瑞鶴」に敵機来襲(第一波、一八〇機)を告げるラッパが響く。それはエンガノ岬沖海戦(ルソン島沖)の始まりを告げる合図であった。敵機はウィリアム・ハルゼー大将(第三波攻撃からトーマス・キンケイド中将に代わる)率いる第三十八任務部隊の大編隊で、ハルゼー機動部隊は、六十五隻、三空母からなる大部隊であった。

 「瑞鶴」は上空掩護(えんご)の戦闘機二十九機を迎撃に発艦させたが、多勢に無勢で全機が失われるのに時間を要しなかった。周策はこの掩護部隊の一機に機上していた。

 午前十時の第二波三十六機の襲来で、「瑞鶴」は艦尾を吹き飛ばされ、通信設備を破損した。旗艦として指揮の続行が不能となり、「瑞鶴」にあった司令部が巡洋艦「大淀」に移された。第二波攻撃をハルゼー機動部隊の本隊と確信した小沢司令長官は、「ワレ敵機動部隊ノ誘致ニ成功セリ」と連合艦隊司令部に打電している。

 午後一時の第三波二百機による攻撃で、「瑞鶴」は決定的な打撃を受ける。敵機が去った直後、「瑞鶴」の艦内に総員集合の警笛が響いた。沈没はもはや時間の問題であった。艦長貝塚武男は傾いた甲板に立ち、不動の姿勢で立ち並ぶ兵員を前に最後の訓示を行った。

「諸君は乗艦以来、最後まで実によくその任務を尽くしてくれた。艦長として最大の満足を感ずるとともに実に感謝に耐えない。改めて礼をいう。ただ、共に今日の戦いに臨みながら、幾多の戦友の英霊に万感いい現わせないものを覚える。同時にその尊い兵士を多く失ったことは、陛下をはじめ奉り、一般国民に対して深くお詫びを申し上げる。諸君もどうか一層奮励し、敵を撃滅せずんば止まずの闘魂をいよいよ鍛えてくれ。そして次期の戦闘に参加し、御国のために頑張ってくれ。死んではならぬ。生きてくれ。切に諸君の奮闘を祈る。艦長はただいまより軍艦旗を降ろすと共に、総員に退艦を命ずる」

 艦長の頬には、幾筋もの涙が光っていた。

 副長は御真影(ごしんえい)と軍艦旗を捧持(ほうじ)し、左舷(さげん)に繋(つな)がれた短艇に移乗し舷側を離れた。それを見定めた貝塚艦長は艦橋にある戦闘指揮所に戻り、沈む艦から次々と海に飛び込んでいく兵員に対し、いつまでも帽子を振っていた。その後、戦闘指揮所の扉は再び開かれることはなかった。

 

「貝塚艦長の『総員退去』の命令がくだり、部下が一斉に私の顔を見た。心の中を見透かされぬよう無理に平静を装い、『行くぞ』と号令して海に飛び込んだ。艦長は戦闘指揮所にもどり、静かに帽を振っておられた。

 波間に浮き沈みし、重油を飲み、目や鼻を刺激されながら、静かに沈んでいく『瑞鶴』を見守っていた。顔を海に沈めて泣いた。海上に流れる『海行かば』の歌に和し、大きな声を張り上げた。

 駆逐艦『若月』と『初月』の救助作業が始まっているのが、波の間から見えた。兵学校同期生の顔を思い出し、『どうせ拾われるなら若月にしよう、若月で彼の服を貰えばいい』と思い、力いっぱい泳ぎ出した」(昭和十九年十月二十五日 高角砲指揮官「兵七三」の証言)

 

(二)

 午後二時十四分、七本の魚雷と数十発の命中弾を受けた「瑞鶴」は、エンガノ岬沖北緯一九・二〇度、東経一二五・一五度の海上にその艦首を高々と挙げ沈んでいった。

 このエンガノ岬沖海戦における米軍の攻撃は四次六波にわたり、延べ総攻撃機数は五二七機に上った。これにより第三艦隊は四隻全ての航空母艦と軽巡洋艦一隻、駆逐艦二隻を失った。戦死者は八四三名であった。

 囮作戦は成功したものの、通信機の損傷により本隊(第二艦隊)との交信がうまくいかず、三方からレイテ湾に向かった本隊も、それぞれフィリピン島周辺のシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、サマール沖海戦で大敗した。

 「瑞鶴」の沈没後、護衛についていた駆逐艦「若月」と「初月」は、兵員の救助にあたっていたが、「初月」は敵艦十三隻からの攻撃を受け、午後八時五十九分に撃沈する。午後十一時四十五分、残る第三艦隊の艦艇は夜戦を断念し、本土へ戻るべく北上を開始する。二十六日の夕方には、軽巡洋艦「五十鈴」が沖縄南東部の中城(なかぐすく)湾に、二十九日深夜には、戦艦「日向」、「伊勢」、軽巡洋艦「大淀」、駆逐艦「霜月」、「若月」、「槇」が相次いで呉港(広島)に帰港した。

 

 平成十九年(二〇〇七)、私は周策に聴き取り調査を行っている。このエンガノ岬沖海戦での周策の記憶を呼び起こすべく、様々な角度から質問を試みた。八十四歳(当時)になる周策の六十三年前の記憶は、深い霧の中で時系列も覚束ないほどに断片化されていた。

 当時周策は、零式戦闘機の操縦を行っていたが、この「瑞鶴」掩護のときは機銃にあたっていた。周策を乗せた戦闘機が母艦に帰艦しようとしたところ、「瑞鶴」の姿がどこにも見当たらない。そのうち燃料が尽き、やむなく洋上に着水した。同様に着水した機がほかにもあったという。着水地点は、「瑞鶴」の沈没地点からさほど離れていなかった。それから一日半(三日ともいっており、この当たりの記憶は極めて曖昧(あいまい)である)ほど漂流した後、日本の艦船に救助されている。

 救助された周策は、パプア・ニューギニアの東端にあるブーゲンビル島、ルソン島のマニラ湾入り口にあるコレヒドール島などに短期間おり、そこから広島県の呉に戻り、終戦を迎えている。

「生きるので精一杯だった。何も覚えていない」

 というのが周策の言葉である。

 周策の記憶にある一日半の漂流というのは、着水後日没を迎えたためであろうが、この時点で第三艦隊の艦艇は救助を断念し、日本本土へ向かって北上している。おそらく周策は、沈没を免れた本隊(第二艦隊)の艦船によって救助されたのではないかと推測する。

 

 この捷一号作戦により繰り広げられた海戦、すなわちシブヤン海海戦、スリガオ海峡海戦、エンガノ岬沖海戦、サマール沖海戦の四海戦を総称してレイテ沖海戦という。日本海軍が総力を挙げ、米軍も太平洋に展開する全艦隊を挙げて戦ったことから、レイテ沖海戦は史上最大の海戦といわれている。

 この海戦により、日本軍は空母四隻、戦艦九隻を含む多数の艦艇を失い、海軍は組織的な攻撃能力を喪失する。これ以降、戦いの舞台は、硫黄島、沖縄へと移っていくことになる。また、この海戦では、神風特別攻撃隊による攻撃が初めて組織されている。

 

 平成二十一年三月、私は厚生労働省社会・援護局から周策の軍歴を入手している。軍歴の内容は次のとおりである。

 

入籍番号   横徴 水 第94323号

氏  名   米良周策   誕辰(しんたん)大正13.3.8

本籍地及族称 北海道浦河郡浦河町常盤町二十二番地

兵  種   水兵

入 籍 時   学力 国高了 青本五在   職業 運転手

所  管   横須賀鎮守府

服役年期   昭和十八年十二月一日 (入籍時)三ケ年

 

(日付)        (所轄)       (記事)

昭和十八年十二月一日             現役編入

昭和十九年九月二十五日 武山海兵団      入団海軍二等水兵ヲ命ズ

昭和十九年十月三日   横須賀海軍通信学校     兼久里浜第二警備隊附

昭和十九年十二月五日             海軍一等水兵ヲ命ズ

昭和十九年十二月五日             第73期普通科電信術練習生

 

昭和二十年一月四日   第二相模野海軍航空隊 第115期普通科飛行機整備術練習生

 

            第十六突撃隊

昭和二十年九月一日              海軍上等水兵ヲ命ズ

昭和二十年九月一日              予備役編入

 

 ※「誕辰」とは誕生日のことで、「辰」は「日」の意である。

 ※「入籍時 学力」欄に「国高了 青本五在」とあるのは、「国民学校高等科を終了し、青年学校本科五年在学」を意味する(中村元氏ご教示)。

 

 これまで周策から聞いていた海軍での体験と、軍歴の内容に大きな齟齬(そご)がある。

 軍歴によると、周策は昭和十九年十月三日に横須賀海軍通信学校に入学しているのだが、空母「瑞鶴」が別府湾を出撃したのが、昭和十九年十月二十日なのである。すでに戦力を失っていた海軍は、即席で操縦士を養成しており、大混乱をきたしていたことは事実である。軍歴の記載内容は、ほとんどがゴム印による押印なのだが、その押印の乱れが、当時の混乱を語っているようにも感じられた。だが、どう考えても、この日数は不自然である。

 空母「瑞鶴」に艦上することは、海軍を志願した当時の少年兵にとっては大きな憧れであり、夢だったに違いない。周策はその夢を私に語ったのである。六十余年の歳月を経て当時の状況を訊かれ、周策の夢が思わず現(うつつ)の境界線を凌駕(りょうが)し語らせたのだろう。私はそう理解している。

 

(三)

 昭和二十一年(一九四六)に復員した周策は、様似町役場に勤務。昭和三十二年一月に本田ツキと結婚し、様似郡様似町潮見町九番地に転籍している。その年の三月に長男優樹が誕生。翌三十三年に母チナが死去し、昭和三十四年五月に次男優二が生まれる。

 平成四年二月二十八日、妻ツキが六十歳で死去(法名、浄月院梅誉良香大姉)。平成十一年からは二人の息子のいる札幌で生活している。

 長男優樹には、一男一女があり、すでに結婚してそれぞれ一人ずつ子がいる。次男優二には、一男二女がいる。

 周策の二人の子は、私の母と従弟の関係になるが、次男の優二と私とは同学年で、中学まで様似町にて学校を共にしている。幼いころ、この二人の息子らと、かつて周策が使用していた戦闘帽を被って、戦争ごっこをして遊んだ記憶がある。

 現在、米良姓を名乗る者は周策を含めて十一人である。周策の五人の孫のうち、二人の男子はいずれも平成生まれである。

 米良家はこれまで、幾多の時代の波に翻弄(ほんろう)されながら、八代四助実明(周策の祖父)以降、戦乱をかいくぐって今日を迎えている。米良家の十五代目を担う彼らが戦禍(せんか)に遭遇することなく、次世代を継いでいってもらいたいと願ってやまない。

 

 付記

 本文は、近藤健・佐藤誠著『肥後藩参百石 米良家』(平成二十五年六月一日発行 花乱社)の歴史編・第八章「太平洋戦争から現在へ ㈡ 十三代米良周策(現当主)」に相当する。

 令和元年(二〇一九)十月八日、米良周策死去。満九十五歳。法名「雄峰院誠徳周賢居士」。菩提寺、聖徳山太子寺(札幌)。家督は長男米良優樹(六十二歳)が継ぎ、十四代となる。

 

〈参考文献〉

「軍歴(米良周策)」(厚生労働省社会・援護局)

「米良周策除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

「米良周策戸籍謄本」(北海道様似郡様似町)

 

  2009年8月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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