米良四郎次と屯田兵 (1)~(6) | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

(一)

 米良四郎次(めら しろうじ)は、私の母方の曾祖父で、現当主十三代周策(二〇一九年、満九十五歳で死去)の実父である。慶応二年(一八六六)五月十九日、熊本で生まれている。初代熊本藩主細川忠利に仕えた初祖米良吉兵衛から数えて十二代目にあたる。

 四郎次の父四助実明(八代)の代に幕末維新を迎えている。父の家督は明治三年(一八七〇)弟の市右衛門(のち左七郎)に引き継がれ、明治九年にはその家督が四助実明の長男亀雄に引き継がれている。四郎次の視点では、父の家督が叔父の後兄が受け継ぎ、それを自分が引き受けたことになる。

 明治九年八月二十日、左七郎から家督を受けた四郎次の兄亀雄は、十月二十四日に熊本で勃発した明治新政府に対する士族の反乱、神風連(しんぷうれん)の乱に参加し、翌日に自刃している。

 その後左七郎は、明治十年に勃発した西南戦争に熊本隊として西郷軍に合流し参戦。鹿児島の大口方面の戦いで戦死している。熊本隊は熊本鎮台の軍(明治新政府軍)ではなく、池辺吉十郎を隊長とした不平士族一五〇〇人によって組織されたものであった。このとき左七郎の屋敷は、熊本城にほど近い第四大区四小区島崎(しまさき)村三一五番宅地にあった。

 米良家は、初代勘助の代に三百石の知行を拝領し、二代市右衛門のときに赤穂義士堀部弥兵衛金丸(あきざね)の介錯を勤めるなどしたが、その後知行を返上するなど紆余曲折があり、九代左七郎のときに一五〇石で明治維新を迎えている。

 

 米良四郎次は、五歳で父四助実明を亡くし、十一歳で兄亀雄を失い、翌年の西南戦争では叔父左七郎を、そして母キトを十四歳で看取っている。「米良家法名抜書(ほうみょうぬきがき)」では、七歳のときに弟毎雄が夭折している。

 十四歳で天涯孤独の身となった四郎次は、その後どのように生きたのだろうか。米良家史料では、天野正寿に嫁いでいる姉はつ(生没年不詳)の存在が確認できる。はつが四郎次の生活をみたのか、それとも左七郎家族のもとで養育されたのか、全くもって詳(つまび)らかではない。

 ただ、はつの嫁ぎ先である天野家の「有禄士族基本帳(改正禄高調)」(熊本県立図書館蔵)は、はつの夫天野正寿が明治七年二月二十日に届け出たもので、「八代(やつしろ) 第四十二大区一小区長丁(ながちょう)六拾六番宅地」と居所が記されている。はつの嫁ぎ先が八代であることを考えると、四郎治の面倒を見たのは左七郎亡き後の左七郎家族と考えるのが自然であろう。

 四郎次は、兄亀雄の自刃から一年後の明治十年十一月十九日(除籍謄本では同月三日)、十二歳で家督を相続している(「有禄士族基本帳」)。

 明治十七年、十八歳の年に二歳年上の妻ツル(熊本県託摩(たくま)郡本庄村父鳥井繁蔵・母ヤヱの三女)を娶(めと)り、五年後の明治二十二年七月、妻と三歳の長男義陽(同十九年七月十四日生まれ)、それと生後五か月に満たない長女栄女(同二十二年二月十三日生まれ)を伴って、熊本を発っている。屯田兵に応募し、札幌の篠路(しのろ)兵村、つまり第一大隊第四中隊へ入隊すべく出発したのである。このとき四郎治は、家族四人のほかにもう一人女性を伴っている。「米良周策家過去帳」に記されている春道院であるが、これについては改めて後述する。

 

 屯田兵制度は、明治四年北方情勢を憂慮した陸軍大将西郷隆盛が、開拓使次官黒田清隆に屯田兵設置を建策したのが始まりといわれている。同八年五月、最初の屯田兵二四〇戸が札幌の琴似(ことに)兵村へ入植を開始した。

 この屯田兵制度は、ロシアの南下政策への憂慮もさることながら、当時、大きな社会問題となっていた困窮士族授産事業の一翼を担っていた。そのころの士族は、全人口の約四%、一二八万人に上っていた。彼ら困窮士族に職を与え、生活基盤をつくらせる目的で屯田兵制度は発足し、北海道に三十七兵村が設置された。

 屯田兵には、一家族に一戸の兵屋(へいおく)(住居)と、開墾して農耕地としなければならない未開地が給与された。兵屋が二二〇から二四〇戸で陸軍に準じた中隊を編成し、兵村と呼ばれる一画が形成された。兵村は市町村の行政区域内にありながら、なかば独立した強力な権限を持つ地域社会であった。

 屯田兵の組織は日本陸軍の歩兵隊に準じていたが、兵営という一般社会から隔絶された編成をせず、平時も武装し日常生活を続けた。篠路兵村の兵役は、現役三年、予備役三年、後備役八年と、約十四年にわたる拘束があった。

 札幌の四兵村を出身地別に見ると、前期の琴似(ことに)、山鼻(やまなは)兵村入植者は、東北・北海道出身者である。北海道出身とはいえ、もとをただせば東北の人々で、戊辰戦争、函館戦争で旧幕側として戦った者がその大半を占めていた。たとえば青森出身者は、戊辰戦争で薩長軍と戦った会津藩士の残党で、下北半島に斗南(となみ)藩を新設し移住した人々である。

 後発の新琴似、篠路兵村の入植者は、九州を中心とした中国・四国地方出身者である。彼らもまた、明治十年の西南戦争の旧幕加担者であった。つまり屯田兵制度とは、薩摩・長州・土佐の三藩が新政府や軍の中枢を占める中、第二の賊軍を屯田兵として採用したものである。送り出す側の出身県にとっては、合法的に厄介者を県外に放逐したことになる。皮肉なことに、かつて屯田兵制度を建策した西郷隆盛率いる薩摩軍を鎮圧するために差し向けられたのが、前述した前期屯田兵であった。

 

 

 (二)

 米良四郎次が屯田兵として北海道に向かったのは、明治二十二年(一八八九)七月のことである。除籍謄本で見ると「熊本県飽田(あきた)郡島崎村二二二番地」から、「札幌郡琴似村大字篠路村字兵村六五番地」へ入植している(転籍届は九月二十四日)。大日本帝国憲法が発布された年であり、帝国議会開設を目前にしていた。

 篠路兵村の位置は、現在の札幌市北区屯田の屯田町がすっぽりと含まれる。旧発寒川の左岸地区、石狩市の花川の一部も兵村区域内であった。屯田小学校、北陵高校を中心に屯田中央中学校、屯田南小学校などがある。今でも○番通りや第○横線といった当時の呼称で呼ばれている通りが存在する。

 四郎次のことを直接記している書籍は今のところ見出していないが、篠路兵村への入村状況がわかる資料(主に『屯田兵』)の中から、当時の生活状況を探ってみる。

 当時、屯田兵本部の召募官は予定した県に出向き、渡道する意思のある者たちを郡・村役場に集め、北海道の現状を細かく説明して歩いた。だが、応募者がなかなか予定に満たなかったため、召募(しょうぼ)官は言葉巧みに新天地の魅力を説いた。

「時期になるとサケやマスが川にあふれ、手づかみできる。原始林が北海道全域を覆っているから、好きな木を伐るだけで楽に生活できる」

「三年間は、食料から生活用品まで支給され、なにも心配はない。給与地として無償で与えられた一万五〇〇〇坪の土地が、将来は自分たちのものになる」

 困窮にあえぐ士族にとっては、夢のような話ばかりである。屯田兵本部が発送した屯田兵合格通知状を村役場に提示すれば、入植者の支度(したく)料や日当が支給される旨が記されていた。また、指定の港町での旅館の準備や出航の期日などが細かに書かれていた。

 

 四郎次の兄や叔父は、時代が大きな転換期を迎える中、かろうじて武士の対面を保って死んでいった。残された家族は、逆賊の汚名を一身に受けながら、ひっそりと身をひそめて暮らさなければならなかった。すでに武士の時代は終わっていた。十三年前の夕刻、お前は武門の家に生まれた男子である、母のことは頼んだぞ、といって出て行った兄亀雄の姿が当時十一歳だった四郎次の脳裏に焼きついていた。

 困窮する生活の中で、妻が二人目の子供を宿していることを知る。四郎次が屯田兵の話を耳にしたのはそんなころである。百姓になるのではない、兵士として赴くのである。同じような境遇にあった者たちが次々と屯田兵への志願を口にするようになる。四郎次もその一人に加わった。このとき熊本からは四十六名が屯田兵に応募している。

 その日から、屯田兵家族は多忙な日々を過ごすことになる。徳川時代から二五〇年に及ぶ墳墓の地を後にするのである。不動産の整理、家財の始末、親類近親者への挨拶と慌しい日々のなか、四郎次は菩提寺(ぼだいじ)の宗岳寺(そうがくじ)へと赴いた。当主として、せめて祖先の証しだけでも持っていきたいと考えたのだ。厳しい暑さの中、吹き出る汗を拭いながら過去帳を写しとった。二度とふたたび故郷の地を踏むことのない旅立ちを前に、一人静かなひとときを過ごしたのである。

 

 明治二十二年、屯田本部差し回しの御用船は、二一〇八トンの相模丸である。まず神戸港で徳島県の屯田家族を乗船させ、和歌浦港へ回航し、そこで和歌山県の屯田兵家族を乗せた。そこから瀬戸内海を航行して九州、中国地方の屯田家族をそれぞれ乗船させ、玄界灘へ向かった。玄界灘は穏やかな日であっても波が高い。初めて経験する長い船旅に嘔吐(おうと)する者、頭痛に襲われる者など、船内は阿鼻叫喚(あびきょうかん)を呈した。そして最終寄港地である福井県九頭竜川河口の坂井港(現在の三国港)に到着。ここで最後の兵員と家族を乗せ、相模丸は一路北海道を目指した。佐渡島を右手に眺めながら、これで故郷の山河も見納めかと思うと感慨もひとしおであった。

 一行は明治二十二年七月十四日、小樽の手宮埠頭(てみやふとう)に到着し、北海道上陸の第一歩を印した。その夜、手宮の港町にある宿舎に落ち着き、そこで兵屋の抽選が行われた。屯田兵たちは移住の書類に署名捺印したが、その抽選が後の生活を大きく左右するものになろうとは、このとき誰も考えてはいなかった。

 翌七月十五日早朝、一〇五六人の屯田家族が手宮駅前に集合した。久しぶりに旅館で一夜を明かした彼らだが、初めて経験する長い船旅の疲労は甚だしかった。期待と不安、そして目もくらむばかりの疲労が渾然(こんぜん)一体となって、ただ呆然(ぼうぜん)と立っているだけであった。

 やがて無蓋(むがい)石炭車が三連結で停車した。初めて目にする陸蒸気(おかじょうき)にどよめきの声が沸き起こった。一度に乗車できる人数は三百人、指揮官の命令で分散して乗車する。片道二時間半の往復輸送が始まった。

 琴似駅に到着した彼らは、屯田兵本部の係官の歓待を受け、そこから三里の道程を歩くことになる。途中、先に入植していた新琴似兵村の人々の生活や兵屋を眺め驚嘆した。自分たちも同じような密林の生活をするのだろうかと想像したが、その実感は乏しかった。彼らは疲労の極にあり、これからの生活の一切を天命に任せ、ただ黙々と歩くだけであった。

 篠路兵村に到着した屯田家族たちは、一大湿地帯の原始林を前に言葉を失っていた。この篠路の低地は、原始以来いまだかつて人間が斧を入れたことのない土地であった。巨木の繁茂にまかせ、つる草やクマザサの根が伸び放題に大地を覆い、人間が入ることを強く阻(はば)んでいた。屯田兵の入植地は、一般移民が入って容易に成功しうる豊かな土壌ではなかった。相当の覚悟で渡道したものの、現実は想像以上に厳しかった。

 原始林と泥炭質(でいたんしつ)の湿地帯に建てられた一戸あたりの兵屋(へいおく)の敷地(篠路兵村の場合)は、間口が三十間(約五五メートル)、奥行きが一六六間(約三〇〇メートル)で、それが二二〇戸集まって兵村をつくっている。それぞれの敷地は散居制の配置(凹の型)になり、兵屋は凹の窪(くぼ)みの中にある。間口から敷地内に幅二間、長さ二十間の道路があり、その奥に幅十間、奥行き十一間の兵屋の敷地があったため、四囲の密林で隣家がまったく見えなかった。それが屯田兵家族の孤独感をいっそう煽(あお)った。

 兵屋は新築であるが、ところどころ節が抜け落ち、外が見えていた。一般的な兵屋は木造一戸建て、ストーブのない一七・五坪である。畳敷の部屋が四畳半と八畳の二部屋、それに板の間と土間があった。いわゆる琴似型兵屋といわれるものである。

 後発の篠路兵村も概(おおむ)ね同型であったが、特別に篠路型兵屋と呼ばれた。ほかの兵村では土壁を打ち、その上に板張りがなされ一応は防寒が考えられていたが、篠路では土壁が省略され、直接四分板張りになっていた。そのため、吹雪の夜は雪が居間まで吹き込んできた。兵屋が粗悪になったのは、立地条件の悪さから建設コストがかさみ、さらに工期が遅れたことが原因であった。

 この地域は、鉄気(かなき)の強い泥炭(でいたん)質特有の水質であったが、水量は豊富であった。兵屋八戸毎に一か所の掘抜井戸と浴場が設けられ、そこには滾々(こんこん)と清水が湧き出ていた。陸蒸気に乗ったせいで、みんなの顔は煤(すす)で真っ黒である。女や子供たちは競ってその清水に手拭を浸し、顔を拭った。

 やがて中隊本部から戸主呼集(こしゅう)ラッパが聞こえ、屯田兵は急いで出かけ、間もなく各戸から二名集合との伝令がある。家族二人は配給の夜具と日用品を背負い、屯田兵は炊き出しを持って帰ってきた。この日から一週間の炊き出しが行われた。ようやく夕日が手稲山(ていねやま)を赤く染め始め、開拓第一日目は静かに終わろうとしていた。

 

 

 (三)

 毎朝四時、起床ラッパが中隊本部から各戸に鳴り響いた。六時に兵員は練兵場で軍事訓練を受ける。午後の開拓事業は、一番通りから四番通りまで道路の両側に深い排水溝を掘削することから始まった。それが終了すると、今度は南北の各兵屋の境界に排水溝を掘削した。この作業は原始林の真ん中だけに大変な重労働であった。

 さらに入植一年目は、巨木が林立する原始林の伐採に明け暮れた。周囲から集められた木やクマザサやツタなどがうず高く積まれ、放たれた火は一週間以上も燃え続けた。単純で骨身に応える重労働の連続であったが、今開拓している土地が将来自分の所有地になる、という励みだけが彼らを動かしていた。

 屯田兵の日常は、四月から九月までは午前四時起床、六時から午後六時まで就業。その間一時間の昼休みだけで、就業時間は十一時間であった。十月から翌年三月までの冬期間でも九時間の就業である。こうした日課の中で練兵訓練と農地の開墾耕作が行われた。休日は雨の日だけであったが、後に一と六の日が定休となった。

 

 明治二十七年(一八九四)八月、日清戦争が勃発する。この時期、札幌周辺を警備していた第一大隊第一中隊(琴似(ことに))、第二中隊(山鼻(やまはな))の屯田兵は後備役となっており、第三中隊(新琴似)、第四中隊(篠路(しのろ))は予備役であった。翌年三月、臨時第七師団が新設され屯田兵に動員の命が下る。四千名の兵員が征清(せいしん)第一軍に編入され、四月に東京へ終結し、近衛第一聯隊(れんたい)の兵舎で待命した。その間、毎日代々木練兵場で訓練が行われていたのだが、講和条約の締結となり、屯田部隊は戦地に赴くことなく復員した。四郎次もこれに参加していたものと思われる。

 十年後の明治三十七年には日露戦争が起こったが、琴似、山鼻の両兵村とも兵役の義務はなくなっており、将校・下士官だけが出征した。このとき九州から四郎次らを運んだ御用船相模丸が、第三回旅順口閉塞(へいそく)作戦で旅順港口に沈められている。

 

 札幌の各兵村でも水害はあったが、中でも篠路兵村の被害はとりわけひどかった。篠路はその低地を囲むように、創成(そうせい)川、発寒(はっさむ)川、旧琴似川、安春(やすはる)川が流れていた。毎年の融雪期、あるいは石狩川の上流に大雨が降ると、発寒川の下流から逆流した石狩川の濁流が、篠路兵村に流れ込んでくる。兵村全体が浸水し、それが二週間、長いときは一か月も水が引かない状態になる。これが毎年、五月から六月にかけて年中行事のようにやってきた。各兵屋ではそれを知っていて、毎年この水害の後に種まきが行われた。

 またこの兵村一帯は、泥炭質の地層が一、二メートルもあり、しかも低地のため地面から五センチほど下は水分を含んだ泥炭になっていた。明治二十五年六月、ここで大火が発生した。表面の泥炭が燃え出し、地を這(は)うようにくすぶりながら燃え広がった。人々は兵屋の周りに水をまいて燃えないようにするしか手段がなく、この火災は二週間以上も続いたのである。この火災により、十戸以上の兵屋が全焼し、数戸の屯田兵が脱落している。

 

 篠路兵村の主流作物は麻栽培であった。種まきの時期が遅いので、豆類、大麦、小麦の収穫が少ないなか、大根の栽培が定着した。明治二十四年から三十年にかけて篠路大根という銘柄が道内を風靡(ふうび)した。

 ところが、明治三十一年に北海道全域に暴風雨が吹き荒れ、甚大な水害が発生した。このとき、石狩川の水位は八メートルを超え、篠路兵村も全域が水没するという状況で、この年の大根は全滅となった。翌年、大根が一〇センチほどまで生長したところで根切り虫が大発生し、再び大根の収穫はなかった。この二年にわたる被害により、この地での大根の栽培はなくなり、牧草、燕麦(えんばく)の栽培が主流となっていった。

 その後も明治三十五年に記録的な凶作に見舞われ、三十七年七月の石狩川・天塩(てしお)川の氾濫(はんらん)など、篠路兵村入植者は苦難の年月を味わうことになる。明治二十二年に一〇五六名の家族とともに入植した二二〇戸の屯田兵は、明治四十年代には七十二戸、五五五人が残るだけとなった。昭和十三年(一九三八)の開基五十周年記念誌によると、屯田兵七人、相続者十八人、分家十三人の計三十八人が残留者であった。この地の厳しさを物語る数字である。

 入植当初、生後五か月であった長女栄女は、明治三十三年三月三十日に養子縁組を解消し、四郎次の籍に復籍している。養女に出した先は、「篠路村字兵村五一七番地 山田尋源」(「米良四郎次除籍謄本」)とあり、篠路兵村配置図では、四郎次の六軒隣の兵屋である。その経緯や時期は定かではないが、入植当初の困難を想起させるものである。

 

 篠路兵村では屯田兵一戸あたり宅地一五〇坪、農耕地にすべき土地四八三〇坪が給与され、その後五千坪が与えられた。さらに明治二十三年に五千坪、二十九年からは五千坪が追給され、合計二万坪近い土地が給与された。ただ、三十年間は土地の譲渡や質入、書き入れをしてはならないという制限つきの私有権であった。形式的には売買できない土地ではあったが、実質的な所有権の移動は頻繁にあったようである。明治三十七年、屯田兵条例が廃止され、土地の売買は自由になった。

 篠路兵村の場合、与えられた追給地が遠隔であったため、分家して子弟に開墾させた家族もあったが、大半は諦めざるを得ず、明治三十六年には開墾しない土地は追給地として認めないことになり、その大半は没収された。

 残留者は仲間から二束三文で土地を買い取り、それを小作人に与え小作料を取った。また、離村者は小役人や小商人となったが、その多くは道内を転々とした末に一家離散となっていった。

 

 

 (四)

 明治庶民の大衆的傾向として、農民生活よりは下級官吏や教師になって生計を立てるか、あるいは小規模な商工業者となって生活したいと願うのが一般的であった。そんな中、屯田兵は開拓に従事した後、郷里へ帰りたいと願っていた傾向が強かったといわれている。実際には、小学校の代用教員になったり、役場の書記や監獄の看守、警察の巡査、鉄道の駅員、郵便局の事務員になった者が多かった。

 明治三十七年(一九〇四)九月八日、屯田兵制度が廃止される。四郎次が所属していた第一大隊は、その二年前の明治三十五年四月に解隊している。このとき四郎次には、十七歳の義陽を頭に五人の子供がいた。札幌での四郎次の除籍謄本がすでに廃棄処分(一九九五年)されていて、家族の詳しい状況はわかっていない。

 明治四十五年四月十七日、四十七歳になった四郎次は「北海道浦河郡浦河町大字浦河番外地(のち常磐町二十二番地と改正)」に本籍を移している。この時点で、次男、三男の名は浦河町の除籍謄本にはない。営林署の職務に就き、国有林の監視員となっていた。四郎次がいつごろ屯田兵を除隊したのかは不明である。

 

 四郎次の浦河の除籍謄本には、妻ツルやその子、孫、さらに後妻とその子らが加わり、十八名が名を連ねている。子供だけで十三人である。最初の五人の子が本妻ツルの子で、あとの八人は妾(めかけ)佐山チナ(明治十九年生まれ)との間の子である。さらにチナの除籍謄本には、四郎次との間にもう一人、夭折(ようせつ)した子がいる。チナの除籍謄本については後述する。

 このころの四郎次には本妻ツルのほかに、妾佐山チナがいた。この二重生活がどのようなものであったかは、まったく伝えられていない。札幌を離れた後の四郎次およびその家族の足跡は、四郎次の浦河町の除籍謄本からの推測によるものとなる。

 四郎次の除籍謄本を見ていると、本妻ツルとその子らの複雑な人生模様が浮かび上がってくる。

 ツルの死は大正十四年(一九二五)二月十五日(享年六十二歳。法名は不明)で、四十歳の長男義陽が札幌で届け出ている。ツルの死亡場所の「札幌区北三条西一丁目二番地」(当時の住居表示)は、長女栄女(三十七歳)の後夫佐藤政之丈(大正四年に結婚)の本籍地である。このとき次女照(明治二十四年生まれ)は三十五歳であった。

 長男義陽は、母ツルが死んだ大正十四年に結婚している。義陽夫婦には子供がなく、妹栄女の三女芳(後夫との子)を養女として迎えているが、その僅(わず)か七か月後の昭和五年に、義陽は四十五歳で死亡(死亡原因は不詳)している。義陽の死亡届は、四郎次によって網走郡美幌町に届けられている。義陽が美幌町で何をしていたかも不詳。義陽の死にともない芳の養子縁組は解消され、四郎次の戸籍に復籍し、翌年には義陽の妻まつも青森の実家に復籍している。

 次女照も二人目の夫久保庭了造(大正六年に結婚)と昭和二年に離婚し、その後三人目の夫である栗崎近之助(昭和三年に結婚)を亡くし、昭和十一年に四郎次籍に復籍している。照は昭和二十四年、「東京都北多摩郡狛江村和泉一六六七番地」で死亡。五十九歳(同居の親族久保庭武男届出)。

 四郎次の浦河町の除籍謄本では、長男の次の表記が四男繁実となっており、次男、三男の行方はわからない。おそらく浦河町に転籍した時点で、すでに死亡していたものと推定される。

 

 四郎次の十四人の子のうち、平成二十五年現在で存命なのは、八女キク(九十三歳)と六男周策(八十九歳)の二人だけである。だが、四郎次に関することはこの二人には何も伝えられていない。チナは昭和三十三年まで存命であったが、チナの生い立ちや四郎次との出会いの経緯、さらにはチナが四郎次の後妻であることも、まったく聞かされていなかった。

 四郎次は、屯田兵除隊後、営林署の職員となって浦河へ赴任する。浦河での四郎次は、国有林の監視で定期的にえりも町目黒まで出かけている。これはキクの記憶するところである。チナがどこで何をしていたかは不明だが、チナの本籍がある歌別(うたべつ)は、様似(さまに)からえりもに続く険しい道を抜け、目黒へ向かうための日高山脈越えの入り口に位置する。

 浦河から目黒へ至るその行程にチナとの接点があったのだろうが、様似から目黒まではほとんどが断崖絶壁、切り立った崖に波が打ち寄せるという道なき道である。二人が出会うとすれば、歌別と考えるのが妥当であろう。

 チナが第一子ハルを産むのは、明治三十八年五月で、チナが満十九歳になって八日目のことである。つまり、明治三十七年七月ころには、すでに四郎次とチナに接点があったことになる。

 チナの除籍謄本には、ハルの出生地が「本村大字幌泉村番外地」とある。チナの本籍地は、父田中清兵衛と同じ「北海道幌泉郡歌別村番外地」(チナ除籍謄本)で、四郎次除籍謄本には「幌泉郡幌泉村大字歌別村番外地」と若干の違いはあるが、ハルの出生地はチナの実家の佐山家の所在と思われる。

 翌明治三十九年九月には、第二子のナツが生まれているが、このナツ以降の八子は、四郎次の本籍地である「浦河郡浦河町大字浦河村番外地」の出生となる。ただし、七女スエは「浦河町大字浦河村五七番地」(生後五か月の大正七年に、大字浦河村五二番地で死亡)、八女キクは「浦河町大字向別村番外地」と微妙に異なっており、次の六男周策は四郎次の本籍地での出生となっている。

 これらのことから、ハル出生の明治三十八年五月以降、チナを本宅またはその周辺に呼び寄せていたものと考えられる。それはまた、妻ツルが四郎次の許を離れた時期ということになる可能性もある。

 このころのツルおよびツルの子等の所在は判然としないが、四郎次の除籍謄本では、次女照の子英男の出生が、明治四十三年七月に「浦河町西舎(にしちゃ)村杵臼(きねうす)村組合戸籍吏」へ届けられている。また明治四十五年五月には、長女栄女の子美津の出生が「札幌区戸籍吏」への届出となっている。いずれも父欄は空欄で、四郎次の籍に入籍している。

 平成十九年(二〇〇七)に札幌の米良周策家から夥(おびだた)しい数の写真が発見された。いずれも明治後期から昭和初年にかけてのものである。その中に、長男義陽のものと思われる写真がある。短髪で着物姿に口ひげを生やし、メガネをかけた若者が腕を組んでいる姿が写っている。写真の裏には、

   明治三十六年十二月写ス

      天野公人

       生年十九年歳二ケ月

  呈米良義揚(陽ヵ)君

 とあり、写真館の名前が「熊本市南千反畑町 物産館前 松永写真所」と漢字とローマ字で印字されている。

 この写真の若者が、義陽である可能性がある一方、天野公人の写真で米良義陽に贈呈したものとの推定も成り立つ。また、四郎次の姉はつの嫁ぎ先の姓が「天野」であり、その関係性も考えられるが、あくまでも推測の域を出ない。

 この若者が義陽だとすると、義陽は明治十九年七月生まれなので、十八歳の写真ということになる。明治三十六年に義陽が熊本にいたということで、熊本との繋がりがあったことを示唆する資料として、興味深いものとなる。

 明治三十六年十二月に義陽が熊本を訪れている可能性がある。また、四郎次が少なくとも明治三十七年七月ころにはチナとの接点をもっていたことなどを考えると、明治三十五年の第一大隊の解隊まで四郎次が屯田兵として篠路にいたのではないか、という思いが頭を擡(もた)げてくる。だがいずれも推測の域を出るものではない。

 

 

 (五)

 さらにチナの除籍謄本からは、チナの生い立ちにかかわる新たな事実が浮かび上がってくる。私は、平成十九年十一月、北海道幌泉郡えりも町より佐山チナの除籍謄本を入手している。

 佐山チナの除籍謄本は、チナ自身が戸主である。父母欄は「亡父田中清兵衛、亡母佐山ユキ」とあり、戸主欄には「本籍に於て子出生。母佐山ユキ死亡に付、分娩を介抱したる田中清兵衛、明治三十八年三月三日出生届出、同日受付。母の家に入ることを得ざるに因り、一家創立。明治三十八年三月三日届出、同日受付。明治三十八年三月三日、幌泉郡歌別村番外地田中清兵衛の子、認知届出、同日受付。出生事項中、出生の場所、届出人の氏名並に其資格身分、登記に依り記載。認知事項中、認知届父田中清兵衛身分、登記に依り記載」(句読点は私による)と続く。

 チナの母佐山ユキは、明治十九年四月二十七日にチナを産んですぐに死亡し、父田中清兵衛によってチナの出生届けが行われている。ただしその届出は、チナ出生から十九年後の明治三十八年三月三日である。つまりチナは、十九歳まで戸籍がなかったのだ。さらに、除籍謄本のチナの父欄に「亡田中清兵衛」とあることから、この出生を届け出、認知した田中清兵衛自身、届出時点においてすでに死亡していたことを意味する。

 チナが第一子ハルを産むのは、この届出の二か月後の明治三十八年五月五日である。おそらく、チナの出産が間近に迫り、チナに戸籍がないことがわかり(以前から知っていたのかもしれない)慌てて戸籍を作ったものと思われる。戸籍吏の判断で、すでに死亡している田中清兵衛が認知した形をとったものだろう。

 チナの除籍謄本には、父欄空白のまま、ハル(明治三十八年)、ナツ(明治三十九年)、アキ(明治四十三年)、フユ(大正二年)、スエ(大正六年)、キク(大正九年)と女子の名が連なっている。私が平成十九年に八女キク(八十八歳)に聴き取り調査を行ったところ、昭和三年に四郎次籍へ入籍するまで、女の子供たちはみな佐山姓を名乗っており、男子である四男繁実(明治四十四年)、五男繁輔(大正四年)、六男周策(大正十三年)の三人は米良姓であったという。昭和三年に佐山家を相続する者が現れるまで、佐山家側から米良籍への入籍が許可されなかった、ということだった。

 四郎次とチナの年齢差は二十歳で、長男義陽とチナは同じ歳である。昭和三年(一九二八)五月二十一日に四郎次の戸籍に入籍したのは、妻チナ(四十三歳)、三女ハル(二十四歳)、五女アキ(十九歳)、六女フユ(十六歳)、八女キク(九歳)である。この時点で四女ナツは大正二年に浜崎清蔵家の養女となっており、七女スエは大正七年に夭折している。

 

 四郎次が国有林の監視の仕事で外出する際には、常に刀を持っており、当時、田舎で帯刀を許されていたのは、四郎次と警察官だけであったという話は、私がかねてから母親(五女アキの長女。昭和十年生まれ)から聞いていたことである。営林署の職員が帯刀を許されていたのは、ヒグマ対策のためだろうと思われる。だが、今回改めて四郎次の帯刀の事実をキクに尋ねたところ、刀を持って外出した父の姿は見たことがない、と明確に否定された。

 私の母が幼いころ、チナは〝米良のお婆さん〟と呼ばれ、しばしば泊りがけで様似町で銭湯を経営する娘アキのもとを訪れていた。私の母の記憶は、母親のアキ、またはチナから聞いたものかもしれない。母自身の記憶も定かではない。

 キクの記憶では、四郎次が国有林の見回りで、浦河町からえりも町目黒まで年に二度の割合で、定期的に出かけていた。目黒に定宿としている旅館があり、そこを拠点に数日間滞在しており、徒歩しか交通手段のなかった当時、浦河から目黒までの六〇キロを超える道のりを、四郎次は徒歩で出かけていた。途中、様似からえりもまでは、日高山脈の山々が海に迫る険しい道で、江戸末期に開削(かいさく)された様似山道を抜けながら、干潮をめがけて海岸沿いを歩くという行程であった。

 また、四郎次は外出するときはいつも袴(はかま)を穿(は)いており、自宅に戻ると大きな前掛けをして過ごしていたという。家にいても横になったり、胡坐(あぐら)をかくことはなく、いつも正座姿で背筋を伸ばし、子供たちが少しでも足を崩すと、たちまち睨(にら)まれたものだということを語っている。

 刀の存在の有無を訊いたが、女の目につくようなところにそんなものを置くような父ではなく、一度も見たことはない。父は士族の教育を受けており、神棚や刀などに対して、女がかかわれる状況ではなかった。父は昔のことを一切語らなかったので、熊本から出てきた経緯や屯田兵生活については、何も聞いていない、という。もっとも、四郎次が死亡したとき、キクはまだ満十三歳という年齢であったということもあるのだろう。

 

 残念ながら四郎次には浦河での除籍謄本しか残っていない。札幌市西区役所によれば、平成七年(一九九五)に札幌での除籍謄本が処分されているという。西区の戸籍係は、札幌全域で除籍謄本の探索を行ったが、どこにも存在しなかった、と伝えてきた。また、熊本市からも同様の回答を得ている。もう少し早くこの作業を行っていれば、と悔やまれてならない。

 

 

 (六)

 もう一つ付記しておかなければならないことがある。私は、平成二十年五月に米良周策家の過去帳を調査している。この過去帳は、様似町の等澍院(とうじゅいん)先代住職智行の筆によるもので、周策の母チナの代に作成されている。書かれた年代は、過去帳冒頭の「北海道日高国様似郡様似町字様似四一八番地」という表記から、様似町に町制が布かれた昭和二十七年以降チナが死亡する昭和三十三年までの間と推定される。

 この過去帳は、「米良家法名抜書」を直接写し取ったものではない。米良家には「女は神棚に触れてはならない」という家訓があり、四郎次死亡以降数十年間、引き戸式の神棚は、開けられていなかった。「米良家法名抜書」は、誰の目に触れることもなく、この神棚の中に保管されていた。

 米良家の過去帳は、仏壇にあった柾目(まさめ)の板に書かれてあった戒名を写し取ったものだと周策は記憶している。この柾目の板というのは、位牌の代わりになるもので、四郎次存命中に「米良家法名抜書」から写し取られたものだろうと推測される。過去帳完成後、柾目の板は処分され、現存していない。

 この「米良周策家過去帳」は、智行和尚の筆による者が最初の三十四名で、次の四名、すなわち大正七年(一九一八)夭折の佐山スエから、米良繁輔、米良四郎次と続き、昭和二十一年の米良繁実までが別の筆跡である。最後の二名は、周策によって書き込まれたチナと妻ツキで、四十名が名を連ねている。最後の二名の筆については、私が直接周策に確認している。

 智行和尚の筆跡による過去帳と「米良家法名抜書」とを比較すると、過去帳には一名の欠落(四代勘兵衛・本清院)と、一部順序の相違はあるが、「米良家法名抜書」とほぼ合致する。ただ、智行和尚の筆による最後の三十四番目の者が、明治二十三年一月八日死亡の「春道院自性妙心大姉」とある。この春道院は、「米良家法名抜書」には存在しない。その後の米良家にも該当する人物がいないのである。

 智行和尚が誤って他家の人物を書き加えてしまったとも考えられるが、この推測はかなり強引である。四郎次(満二十三歳)とツル(満二十五歳)は、明治二十二年七月に三歳の長男義陽と生後五か月に満たない長女栄女を伴って熊本を発って北海道に渡っている。乗船者同士での助け合いはあっただろうが、はたしてツル一人の女手で、そんな幼子に長い船旅をさせることができただろうか、という疑問がある。

 これはあくまで私の推論であるが、この春道院が四郎次の兄亀雄の妻、もしくは、叔父左七郎の妻ではないかと考えている。両者の妻帯の有無は不明である。だが、亀雄は二十一歳という若さで自刃している。妻帯の可能性は否定できないが、左七郎の妻と考えた方が自然である。熊本の左七郎の墓石に妻の名が刻まれていないので、存命だったはずである。

 つまり、亀雄自刃後、十四歳で母親を亡くした四郎次の面倒を見たのが左七郎の妻で、左七郎夫婦には子(男子)がなかった。八代四助実明の家督が子である亀雄に直接継がれず、いったん四助の弟である左七郎を経由し亀雄の成長の後に戻された、という経緯にも繋(つな)がるものである。四郎次にとって、左七郎夫婦は育ての親のような存在だった。だから、左七郎亡き後、四郎次の渡道に際して春道院を伴ったのだろうと私は考えている。

 春道院の明治二十三年一月の死亡は、北海道に渡った最初の冬に死亡したことを意味する。初めて経験する苛酷(かこく)な冬を越せなかったということでも、左七郎の妻ではなかったかという思いを強くする。また、四郎次が栄女を篠路兵村の六軒隣の山田尋源に養女として出しているのも、春道院の死との関係性を窺わせる。それまで子守を行ってきた春道院を亡くし、二人の子供を養育するにはあまりにも生活環境が厳しかった。そこでやむなく赤ん坊である栄女を養子に出したのではないか、という推測である。

 春道院の墓は、当時の篠路兵村の共同墓地であった場所に今も存在するはずである。四郎次の先妻ツルや長男義陽、次男、三男の墓が、同じ場所にある可能性も否定できない。明治二十三年の春道院の死が、ツルや義陽の墓の所在を解き明かすことになる可能性は十分にある。

 平成二十四年五月、私は屯田兵時代の古い墓があるといわれる「屯田墓地」(石狩市花川東)と「上篠路墓地」(札幌市北区篠路四条九丁目)をくまなく探索したが、墓の発見には至らなかった。

 以上は、私によるまったくの推測である。四郎次の札幌での除籍謄本があれば、かなりの部分が解明されたはずである。

 

 昭和八年六月二十八日、四郎次は本籍地浦河町において死亡。享年六十八歳。同居の四男繁実届出。法名は、頓誉良田儀忠居士。菩提寺は北海道様似郡様似町の天台宗等澍院(とうじゅいん) (帰嚮山(ききょうざん)厚沢寺)。後妻チナは、昭和三十三年五月十三日死亡。享年七十三歳。法名は、清誉浄願善大姉。チナの死亡届は、この時点で米良家に残った唯一の男子である六男周策が行っている。

 令和元年(二〇一九)七月、米良家は様似共同墓地の米良家の墓を墓じまいし、札幌の聖徳山太子寺の納骨堂に収骨。以降、菩提寺を太子寺としている。

 

 付記

 本文は、近藤健・佐藤誠著『肥後藩参百石 米良家』(平成二十五年六月一日発行 花乱社)の歴史編・第七章「北海道移住」に相当する。

 

〈参考文献〉

『屯田兵物語』伊藤廣著(昭和五十九年 北海道教育社刊)

『屯田兵』札幌市教育委員会編(昭和六十年 北海道新聞社)

「有禄士族基本帳」(明治七年 熊本県立図書館所蔵)

「米良家先祖附写」(明治七年 米良周策家所蔵)

「米良家法名抜書」(明治二十二年〈推定〉 米良周策家所蔵)

「米良四郎次除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

「佐山チナ除籍謄本」(北海道幌泉郡えりも町)

「米良繁実除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

「米良周策除籍謄本」(北海道浦河郡浦河町)

「米良周策戸籍謄本」(北海道様似郡様似町)

 

  2008年12月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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