昨年(二〇〇七年)、ボクは文芸思潮に応募していたエッセイで奨励賞をもらった。
今年、幸運にもまた賞をもらっていた。掬(すく)ってもらったといった方が正しいかもしれない。下位の賞なのでスピーチはないだろうと気楽に構えていたら、懇親会でお願いしますと言われた。困ったことになったと思った。
この日、授賞式の会場に入ると、選考委員の席に顔写真が立てかけられていた。昨年、懇親会で司会を務めていた作家河林満氏の写真である。
河林氏は、この(二〇〇八年)一月十六日に東京駅で倒れ、十九日に亡くなっていた。脳出血である。それでこの日、二十六日の授賞式は黙祷(もくとう)から始まった。作家集団「塊(かい)」のメンバーにとって、仲間の突然の死を受け入れるには、あまりにも日数が浅かった。長年、苦楽を共にしてきた話に共感を覚え、ボクもいたたまれない気持ちに包まれていた。
懇親会でボクのスピーチの番が回ってきて、
「昨年は、ふざけた話をしたのですが、どうも今回はそんな気分になれませんで……」と話を始めた。
二〇〇八年一月十七日夜、ボクは東京医科歯科大学病院にいた。すでに正面玄関が閉まっている時間だったので、夜間救急外来の通路を通って、薄暗い構内を出口に向かって歩いていた。そのとき、慌しい足取りで病院へ向かう二人の男性とすれ違った。すれ違いざま、その一人が文芸思潮の五十嵐勉氏であることに気がついた。一年ぶりであったが、すぐに彼だとわかった。ボクは反射的に駆け寄り、声をかけようとして躊躇した。一瞥(いちべつ)した五十嵐氏の横顔が、声をかけるのも憚(はばか)られるほどこわばっていたのである。人違いではないかと思うほどだった。授賞式で訊(たず)ねてみようと、二人の背が救急外来の入り口に消えていくのを見送った。
授賞式会場の河林氏の遺影を目にし、すべてが飲み込めたのである。五十七歳という若さだった。
河林氏は、一九九〇年『渇水』で文学界新人賞を取り、芥川賞候補となる。九三年には『穀雨』でふたたび芥川賞候補となった。
河林氏とは一度も言葉を交わさなかったが、威勢のいい人だな、という印象があった。こういう人に書き続けてもらいたいと思った。
ボクはスピーチの中で、この一月十七日の夜の話に触れると、斜め後ろにいた五十嵐氏の大きなため息が聞こえ、目頭をそっと押さえる姿が目に入った。死んだらおしまいなんだよォ、と叫びたいような衝動に駆られ、話を打ち切った。
その夜、ボクは、午後八時の面会時間がまもなく終わる、というアナウンスに急き立てられるように病室を後にしていた。妻が入院していた。
妻は、うつ病を発症して十年になる。重篤なうつ病で、今回の入院は十一回目になる。妻はしばしば人生に深い絶望を感じて、処方されている向精神薬と睡眠導入剤を全部飲んでしまうのだ。前回の入院もこの過量服薬(オーバードーズ)による自殺未遂だった。七回目である。このときは、ICUに四日間いた。
ボクが文章を書くようになったのも、妻の病気に負うところが大きい。こちらの方が先に参ってしまうという危惧が、それまでペンを持ったことのなかったボクに、エッセイを書かせるようになっていた。
二十九歳の妻を背負い、小学二年の娘の手を引き、もう片方の手にペンを握ってきた。この生き難い状況を乗り越える最良の方法は、困難に正面から向き合うこと以外にはなかった。逃げたら、生涯苛(さいな)まれる。こういえばカッコいいが、逃げ出す勇気すらなかったのだ。
今回の入院は、過量服薬の危険性があるので、妻自らの意思で入院していた。だが、病状が芳(かんば)しくない。年末年始を自宅で過ごす予定だったが、十二月三十一日の夕方には自ら病院に戻っていた。病状の快復が進まないことに嫌気がさした妻が、十六日に治療拒否を宣言した。そのため、ボクは担当医から呼び出され、この日、会社を引けてから病院へいっていた。治療を継続するために、任意入院から医療保護入院に切り替える必要があった。
精神科の入院形態には、患者の意思で入院する任意入院と、医師と保護者の同意で入院する医療保護(同意)入院、さらに強制入院である措置入院がある。入院患者のほとんどは任意入院である。今回は、医療保護入院への同意書類と電気痙攣(けいれん)療法への書類へのサインが必要であった。
電気痙攣療法とは、文字通り頭に電極をつけて脳に刺激を与える治療である。これはオペ扱いで、全身麻酔をかけて行われる。腕に麻酔を打たれると、五秒ほどで意識がなくなり、同時に呼吸も停止する。麻酔は十分ほどで切れるのだが、その間に数秒間の通電が行われる。人為的に脳に癲癇(てんかん)発作を起こさせるのである。
この治療は、六回から十二回をワンセットとし、週に二回のペースで行われる。途中で治療を中止してしまっては効果がない。任意入院では、本人が退院を申し出たら、医師はそれを受け入れざるを得ないという精神科特有の人権上の配慮が必要になる。それで医療保護入院に切り替える必要があった。
その日は、二つの書類にサインをし、それぞれに対して医師からのインフォームドコンセントがあった。ボクは疲労困憊(こんぱい)の体で重苦しい気分を引きずって、暗い寒空の下を歩いていたのである。十二日からは、ほぼ毎日、病院へ通い詰めていた。そんなとき、五十嵐氏に遭ったのだ。
ボクが病院に出入りしている間に河林氏が担ぎこまれ、ご家族や仲間が駆けつけ、突然の出来事に戸惑い、悲しみに暮れていたのだ。そんなことを思い、いたたまれぬ思いが胸を締めつけた。ただ、せめてもの救いは、河林氏の残してくれた作品を通して、ボクたちはいつでも河林氏に触れることができるということである。
心よりご冥福をお祈りする。合掌
『文芸思潮』23号 ―追悼河林満― (2008年5月25日 アジア文化社刊)に寄稿
2008年3月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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