雨がふたたび降り出していた。午後の日差しに照らされて、細い雨脚が白く光っている。
「ひとついい忘れたことがあったのですが……」
一通り病状の説明を終えた当直医が、再び病室に戻ってきた。白衣を着ていなければ、どこにでもいる若者である。
「――先ほど言ったようにですね、病状が急変する可能性があります。そのときの措置を訊(き)いておかなければいけないのですが……」
(措置……)
私は、固唾(かたず)を呑(の)んだ。
「二つのコースがあります。延命コースとナチュラルコースなのですが……、どちらになさいますか」
(コース?)耳を疑った。レストランのメニューを決めるような気安さに、唖然(あぜん)とした。
丁寧な言葉で、事もなげに人生の一大事の選択を迫ってくる。しかも、右手を白衣のポケットに入れたまま。傍らでは、相変わらず妻が昏睡していた。
平成十五(二〇〇三)年七月十三日。日付けが変わったばかりの日曜日の午前二時過ぎ、妻は医者から処方されている薬を、全て飲んでしまった。気づいた時には午前三時を回っていた。妻の異様な寝返りと、呻(うめ)き声に跳ね起きたのだ。慌てて階下に下りて薬を確認すると、抗うつ薬、精神安定剤、睡眠導入剤が空になっていた。十日分の分量である。うつ病を患っている妻は、ときおり深い絶望感に苛(さいな)まれ、人生を放擲(ほうてき)したくなるのだ。
この日、中学二年になる娘が、初めてバドミントン大会に出場することになっていた。私は午前五時半に起きて、弁当を作る予定でいた。困ったことになった……。タバコに火をつけながら最善策を練る。
まず、娘を大会に出そう。妻の過量服薬(オーバードーズ)は、これが五度目のこと。それが私を冷静にさせていた。深夜という時間だが、横浜で独身寮の賄いをしている妻の母親に電話をした。その日、義母のもとに妻の弟が泊まっているはず。車を飛ばせば、四十分もあればこれられる。二人に娘のことを託し、私が救急車に同乗すればいい、それが私の結論だった。
二人を待つ間、まず、弁当の用意をした。できるだけいつもと変わらぬようにした。ご飯も海苔(のり)を一センチ角に切って醤油(しょうゆ)に浸し、二重弁当にした。冷静なつもりであったが、手が震え、何枚も海苔をダメにした。
次に、入院の準備。衣類と健康保険証をリュックに詰め、飲み干した薬の空包をゴミ箱から拾い集める。焦(あせ)るな、焦るな。鎮(しず)まれ、鎮まれ、と自分にいい聞かせる。
そんな中、妻がいつも病状を書き付けているノートに、遺書を見つけた。本当に死ぬつもりだったのか……。読む間もなく、かかりつけの大学病院の救急部へ電話を入れ、受け入れの準備を乞う。続けて一一九番。
人の気配を感じ玄関を開けると、スズメのさえずりとともに冷気が流れ込んできた。早朝の青白い空気の中に、義母と弟が硬い表情で立っていた。もう雨は止んでいた。
薬を飲んでから二時間。まだ大丈夫だろうと高を括っていた。だが、大学病院までの搬送は、時間的に無理だという。
「血圧七十……、瞳孔一ミリ、意識レベル……」
救急隊員の声が部屋に響く。その一ミリが何を意味するのかわからない。ただ、逼迫(ひっぱく)した状況であることは感じ取れた。
二階の寝室から妻を降ろすのに、布担架が必要とのことで消防車まできた。いつもはパトカーもくるのだが、それがなかったのでホッとした。
午前五時、近所の救急病院に到着。ストレッチャーに乗せられた妻が、病院の薄暗い廊下を慌しく走り抜けていった。妻を見送って、受付で手続きをする。やっと書類から解放されたところに、救急隊員が血相を変えて走ってきた。
「奥さん、妊娠されてませんか」
処置室の前でも看護師から、同じことを訊かれた。
「いや、太っているだけですから」
と苦笑い。薬の副作用で、ここ数年、妻の体重は二十キロも増えていた。慌(あわただ)しい動きのなか、
「あらッ、先生は? まだ寝てるのかしら」
看護師が慌てて電話をかけている。ほどなくアルバイト研修のような若い医師が、ヌーッと姿を現した。
私は、薄暗い廊下の長椅子に座って、非常灯の明りを放心の体(てい)で眺めていた。
先生、まだ寝ぼけてますよ、と中年看護師の笑い声が漏れてくる。私は、深い溜め息をつきながら、スプリングがボコボコになっている長椅子の、すわり心地のいい場所を探していた。
処置室の向いには、病室がズラリと並んでいた。患者の寝息が聞こえてくる。好奇心に駆られ病室を覗(のぞ)いたとたん、ギョッとした。カーテンに閉ざされた暗がりの中で、ベッドに座っている高齢女性と目が合ったのだ。闇の中で冷たく光る目であった。死を待つ目だと思った。二時間近く廊下にいる間、座り心地のいい場所は、とうとう見つけられなかった。
いったん帰宅し、昼過ぎ、再び義母を伴って病院へ向う。そのとき研修医から、コースの選択を迫られたのだ。妻を見殺しにするか、それとも心肺装置につなぎ植物人間にするか、どちらかを選べ、と。医者の肩越しの窓に、真っ白な百日紅(サルスベリ)の花が、雨にうな垂れているのが見えた。そうか妻は死ぬかもしれないのだなと、遠いところで考えていた。どちらの選択もできないと思った。
薬の大半はすでに腸に吸収されており、大量の点滴で流す処置をしている。舌根沈下(ぜっこんちんか)が見られ、窒息寸前だった。明後日の朝までに意識が戻らない場合は、覚悟が必要。仮に意識が戻っても、重篤(じゅうとく)な障害が残る可能性がある。唯一の救いは、三十四歳という妻の年齢、若さがもつ快復力に頼むしかないという。妻は百錠もの薬を飲んでいた。
そうか、もう死んでしまうのか。ずいぶん若いな、と他人事のように考えていた。今まで遥か遠くにあった「死」が、手を伸ばせばすぐ届くところにあった。
「会わせたい方には、会わせておいたことに越したことはない状況です」
何ともまどろっこしいいい方で、とどめを刺された。その横で、妻は何事もなかったように眠っている。
連絡をすべき者には、一通り知らせた。後は、待つだけであった。日曜の人気のないロビーの長椅子にもたれていると、玄関脇の大きな桜が目に入った。葉桜の大木が大きな陰を落としている。その黒々とした陰に、背筋が凍るような恐怖を覚えた。私は何を待っているのだろうか……。夕暮れが近づいていた。
自宅に戻ると、「負けたー」と上気した顔で娘が帰って来た。寝不足でやってられなかった、とひどく不機嫌である。
娘を宥(なだ)めながら、ママが厳しい状況だと伝える。一瞬、娘の顔が強張った。その苦悩を娘は呑み下した。妻の過量服薬が繰り返されていることへの慣れであった。今回は今までとは状況が違う、とまでは言えなかった。長い一日が終わろうとしていた。
翌朝。午前四時に目が覚める。いつくるともしれぬ電話に、私は終始怯(おび)えていた。こうしている間にも妻が死ぬかもしれない。そう思うと、再び寝つけなかった。
いつもの月曜の朝のように娘を学校へ送り出し、会社へは休む旨を連絡して、病院へ向かう。「……ご迷惑をおかけします。ゴメンなさい」、妻の言葉が脳裏をかすめ、涙が込み上げてくる。周囲に悟られぬよう人を避け、道を急ぐ。
病院に着き、恐る恐る病室を覗くと、昨日のままに横たわる妻がいた。酸素マスクをつけ、何本ものチューブが妻を取り巻いている。
妻の顔を上から覗き込もうとしたとき、病室の片隅でモップがけをしていた掃除の女性が、にこやかに声をかけてきた。
「――さっきまでお話、していたんですよ」
「えッ! 意識が戻ったんですか……」
思わず声を上げた。その声に妻が目を開けた。
「あー……、ケンさん。カボチャのことが気になって……。カボチャ、カボチャって、今、私いってなかった?」
「……」
酸素マスクの中でのくぐもった声。そのうちに、妻はまた眠りに落ちていった。私は転げるように病院の階段を駆け下り、公衆電話に飛びついた。受話器の向うからは、いくつもの安堵の溜め息が漏れた。
病室に戻ると、様子を見にきた看護師が、妻の傍らにいた。
「あなた、酸素マスクをしているんだから、タバコはダメよ。爆発しちゃうわよ」
看護師の明るい笑い声が病室に響く。
妻の生還は喜ばしいのだが、また苦悩の日々が始まるのだなと思った。
「ここはどこ……」、「何これ、どうして手が縛られているの……」、「これちょっと痛いんだけど……」、スイッチを入れたり切ったりするような意識状態が、その日いっぱい続いた。
その後、妻は急速に快復し、翌日には、大幅な繰り上げ退院となった。
後日。百錠の薬を飲むのは本当に大変だった、と妻が漏らした。どうしても死ななければならない、と思ったという。そんなに頑張って死ななくてもいいだろう。生きていると、何かと楽しいこともあるし……。明るい喫茶店の片隅で、奇妙な会話を交わしながら、私たちはアフタヌーンティーを啜(すす)っていた。
2003年10月 初出 近藤 健(こんけんどう)
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