婆さんのもてなし | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 元日から一泊で奥秩父の温泉へ出かけた。二〇〇三年の話である。

 十二月三十日の夕方、

「ねえ、正月、ずっと家にいる?」

 と妻に訊かれ、それもそうだよなと思い、重い腰を上げた。数年前から妻が精神疾患を得ており、事前に計画が立てられないという事情もあった。わが家の旅行は、いつもこんな調子だった。

 こんなに押し迫ってからでは、どこも空いているわけがない。突然のキャンセルに一縷(いちる)の望みをかけ、ネットで調べた宿に片っ端から電話をかけた。その数は二十件を超えた。もうダメだと諦めかけたとき、

「……だいじょうぶですよ。明日も明後日も空いていますから」

 探せばあるものだと、ホッと胸を撫(な)で下ろした。だが、電話を切った後で、なぜ空いていたのか、とひどく不安になった。秩父は当時の練馬のわが家から電車で一本、一時間半ほどでいける手軽な場所だった。

 そして迎えた元日。秩父駅からタクシーに乗ってひと山越えて道が途切れたところに、その温泉宿はあった。正確にいうと温泉ではなく、鉱泉宿だった。

 出発前のイヤな予感は的中した。

 タクシーが宿の前で止まったとき、できればこのまま引き返せないものかと思った。宿泊料金が通常の旅館並の高さだったので、大丈夫だろうと高を括っていたのである。目の前に現れた旅館と称する建物を前に、家族全員が言葉を失った。

 実は、前の年の夏、茅葺(かやぶき)屋根を売りにする築百数十年の民宿に泊まって、懲(こ)りていた。隣の部屋との仕切りが隙間だらけの杉戸一枚で、テレビの音がうるさくて寝られなかったのだ。そんなこともあって、正月ぐらいはと思い、旅館にしたのだ。

 タクシーを降りた私の耳元で中学生の娘がささやいた。

「ねえ……、なんだかアパートみたいだね」

 娘の言葉がグサリと胸に刺さった。

 部屋に案内される途中で目にした共同洗面所とトイレは、昭和四十年代のフォークソング時代のアパートを彷彿とさせた。古いのは一向にかまわないのだが、部屋に入って薄暗いなと見上げた照明具の中に、ヒジキを散りばめたようにごっそりと虫が入っていた。畳がブヨブヨとして波打っており、部屋全体がカビ臭かった。

 部屋が寒くて、誰もコートを脱がない。コタツの上で湯気を上げる湯呑茶碗をじっと見つめていた。明らかに失敗だった。二間の広い部屋を暖めていたのは、一台のポータブルの石油ストーブだった。いつまで経っても吐く息は白かった。着いたのが夕方だったこともあり、部屋の雨戸はすべて閉じられ、周りの様子が皆目わからなかった。

 忙しそうに行き来する婆さんに訊くと、その日の宿泊は私たちだけであった。七十代半ばと思しき婆さんが、たった一人でやっている宿だった。

 夕食用のガスコンロを運んできたので、秩父だけにメインは猪鍋だなと思った。立派な椎茸が盛大に盛られた大ザルを置いていった。飴色をした年季の入ったザルだった。だが、いくら待っても肉は出てこなかった。椎茸焼きだという。それがメインの夕食だった。

 焼けた椎茸にレモンを絞って食べる、ただそれだけのものである。こういう料理を食べさせるところを、ほかに知らない。一時にこんなに椎茸だけを食べたことは、後にも先にもなかった。自家製の椎茸なので、考えようによっては贅沢なことなのかもしれない。そう考えて、家族みんなで慰めあった。

 正月だから、とお節料理も運ばれてきた。偏食の娘が食べられるものは僅(わず)かである。それを妻と私で補ったのだが、それでも食べ切れない。胃下垂で小食の義母は、自分の分を食べるので精一杯だった。

「あらー、味噌汁、残ってるじゃないッ! この黒豆、大変なのよー、ここまで煮るの」

「美味かったけれど食べられなかった」は、この婆さんには通じなかった。残したものは片づけないで、置いていく。もったいないから後で食べなさい、ということなのだ。

 味噌汁の味噌も、漬物も梅干もすべて手作りだという。味は申し分ない。だが、いかんせん量が多かった。

 夕食が終わって、コタツに入った我々は、四角い箱の展開図のように伸びていた。ドンドンドンと階段を上がってくる婆さんの足音に、背中にバネが入っていたかと思う勢いで、皆、一斉に跳ね上がった。部屋に入ってきた婆さんの手には、お椀の載ったお盆があった。お汁粉だった。白々と湯気が立つお汁粉を見ながら、気が遠くなるのを覚えた。絶対にどこにも入らないと思ったのだが、意外とすんなりと腹に納まった。甘さとはこんなにも素朴なものだったか、という味だった。

 二時間おきに風呂で温まらなければ、やっていられない寒さである。テレビも「八三年製」というシールが貼ってある代物で、画像がひどく悪い。久しぶりにテレビの頭を叩いて調整した。百円玉を入れなければ観ることのできないテレビである。三十分ごとに画像が切れた。そのたび、ため息とともに沈黙が流れた。山懐に抱かれる静かな自然の中にきて、騒々しい正月番組などどうでもよかったのだが、寒さを紛らわすためにはテレビのバカ騒ぎが必要だった。

 

 朝起きると窓が白く浮かんで見えた。部屋の中が一段と寒い。外を見ると、白一色だった。予期せぬ雪景色である。右も左も後ろも、手が届かんばかりに山が迫っていた。木々の梢(こずえ)の雪に朝日が当たって、息を呑むほどの神々しさである。朝日はまだ、旅館には届いていない。頭上の山だけが輝いている。空は抜けるような快晴であった。

 野鳥が樹間を飛び交い、そのたびに砂時計のようにサーッと雪が落ちる。宿の前の木にザルがぶら下がっていた。婆さんが餌(えさ)を入れているようで、ひっきりなしに小鳥がやってくる。寒さを忘れて見入ってしまった。

 実は、朝七時過ぎ、婆さんの足音に急(せ)き立てられるように起こされたのだ。

「見てくださいよ、綺麗でしょう」

 開かないと思っていた後側の雨戸を婆さんが力任せに開けた。婆さんはこの景色を我々に見せたくて、階下で待っていたのだ。なかなか起きる気配のない我々に、痺(しび)れを切らして上がってきたのだった。

 起きてすぐに、婆さんは我々を風呂へと追い立てた。

「さあさあ、お風呂で暖まってきて」

 半ば、命令形である。これがこの宿のペースなのだ。我々のいない間に蒲団を上げ、朝食の用意をするのだろう。夕食のときもそうだった。

 風呂から出たのを見計らって、温かな朝食が上がってきた。長年寮の賄(まかな)いをしている義母は、この宿の食事が並々ならぬものであることを理解していた。それは懐かしい味であり、温かで優しいものであった。かつての日本人が、当たり前に食べていた日本の朝ごはんだった。

 

 婆さんの旦那はいつ死んだのだろう。婆さんはいくつでここに嫁いできたのか。どのようにして戦乱を潜り抜けたのだろう。婆さんの子供たちは、みんなここを出ていったのだろうか。どこで何をしている。正月なのに誰もこないのか。気がつけば、婆さんとは会話らしい会話をしていなかった。

 蒲団の上げ下げは重労働である。これだけの食事を一人で作る労力は、並大抵のことではないだろう。料理に出来合いのものがひとつもないのだ。お汁粉だって、どれほどの手間をかけたことか。

 ズボンにドテラ姿、女将とはいい難い老女である。婆さんは、スパッツとも股引ともつかない、ピッタリとした黒いズボンを穿(は)いていた。よく見ると毛玉だらけで、尻にいくつもの皺(しわ)が寄っていた。私は婆さんの萎(しな)びた尻を想像し、この宿にきて初めて親近感を覚えた。

 婆さんには、丹精込めて料理を作った、という自負がある。だから残すと怒るのだ。婆さんなりに精一杯、お客をもてなしているのだ。だが、なかなかそれが伝わらない。特に、今の若い者には。よほどの物好きでない限り、リピーターはいないだろう。

 

 宿のすぐ脇に小川が流れていた。小川からは、貝殻の化石が出てくると教えられた。初夏には、蛍の乱舞が見られるという。帰り際、玄関のゲタ箱の上に無造作に置いてあったカリンを、喉に効くからといって持たせてくれた。土産物ひとつ置いてあるわけではない宿の、ささやかなお土産である。

 婆さんはあと何年、この宿をやっていけるだろうか。そんなことを心配しながら宿を後にした。

「婆さん、またきたよ」

 そう言って訪ねてみたい、そんな気まぐれな思いつきが湧いていた。忘れられない正月の宿となった。

 

  2003年3月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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