晩秋の情景 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 東京で就職し、二十八年を過ごした。学生時代の四年間は京都だった。そしてふたたび、ふるさと北海道に戻っている。間もなく十年になるが、折に触れ、東京で暮らした当時の季節の移ろいを思い出すことがある。

 十一月も半ばを過ぎると、季節は冬へと傾斜していく。季節を追い立てるのは木枯らしである。

 山茶花(サザンカ)の純白がひときわ清楚に、高貴な輝きを放つ。心が洗われるほどに白く、寒い。一方、季節の移ろいとは無縁といわんばかりに、濃緑で大きな肉厚の葉をもつのが枇杷(ビワ)である。枇杷には鬱蒼(うっそう)とした暗い印象がつきまとう。その葉陰で、小さな花が頬を寄せ合うように静かに咲き始める。温かみを帯びた乳白色の小花の集まりである。樹下に花弁の散らばりを見つけ、視線を上げて初めて開花に気づく。ひかえめな花である。枇杷は、四季の最も最後に咲く花といわれている。この花の美しさに気づいたのは、四十歳を過ぎてからである。残念ながら北海道には、山茶花も枇杷もない。もちろん木枯らしなどという情緒的なものも。

 落ち葉を踏みしめて会社へと向かう。赤、橙、朱、黄、薄緑、茶、焦げ茶、さまざまな色に染められた桜の葉が、寒々とした黒いアスファルトに散りばめられている。どれ一枚とて同じものはない。虫食い跡も一つのアクセントであり、とりわけ雨上がりの朝などは、匂うほどの鮮やかな光彩を放つ。季節が凝縮されたかのような色彩のグラデーションを楽しみながら、足早に駅へと向かう。

 気ぜわしい朝のひととき、人目を気にしながらも落葉を拾わずにはいられない。そんなことをしているサラリーマンは、どこにもいない。気がつけば、三枚も四枚も葉を手にしている。電車通勤とはすっかり無縁になってしまった今、気楽である反面、もの足りなさも否めない。

 書棚にある古い本を捲(めく)っていると、ときおり、パラリと葉が落ちてくる。拾ったころの鮮やかな色彩はすでに失せ、どれも茶色に変色している。読み終わった本の日付を見ると、いずれも晩秋の街角や散歩道で手にとったものである。

 いつも何かしらの本を持ち歩いていたので、この時季に読んだ本には、さまざまな木の葉が挟まれることになる。道端の塀に這っている小さな蔦(ツタ)の葉。街路樹の躑躅(ツツジ)や銀杏(イチョウ)。三島由紀夫の『潮騒』からは、四十年も前(二〇二〇年基準)に京都・金閣で拾った楓(カエデ)の葉が落ちてきた。ヘッセ詩集には、ポプラの葉が挟まっていた。札幌で過ごした高校時代の寮の窓辺に、ポプラの老木があった。

 すでに古書店に引き取ってもらった本の中にも、そんな季節のメッセージが挟まっていただろう。セピア色に変色し、少しでも強く触ってしまうと砕けてしまう脆(もろ)い葉である。汚らしいとゴミ箱に捨てられても仕方のないものだ。

 なかには、耳を澄ましてメッセージを聴き取ろうとしてくれた人もいただろうか。拾った場所を直接その葉に書き込んでおいたものもある。まさに「葉書」だ。そんな本を眺めていると、当時はこんなものを読んでいたのかと、懐かしく思う。挟んだ葉のおかげで、おぼろな情景が呼び覚まされる。

 修学旅行で歩いた晩秋の京の風情が忘れがたく、わざわざ大学を京都に選んだ。いくら歩いても飽き足らなかった二十歳前後の私の季節が、そこにはあった。

 すっかり葉を落とした柿の木に西陽が当たり、熟した実が真っ赤に点灯する。それはあまりにも鮮烈な朱の記憶として、今も深く私の中に刻まれている。

 嵐山や桂方面の山の端(は)にかかった落日の最後の煌(きらめ)きが、東山の紅葉を燃え上がらせる。そのわずか数分の光景を、息をひそめて待っていた。残照が演じる光のハレーションに呼吸を忘れる。そして、その後に訪れる静かな〝青の時間〟が好きだった。生が燃え尽きる瞬間にも似た光景に、仏教的な刹那(せつな)を視ていたのかもしれない。

 すでに門が閉ざされ、誰もいなくなった清水の舞台に腰を下ろし、暗くなるまで佇んでいた。そんな青年の目に、何が映っていただろう。

 待ったなしに待ち受けている就職。会社勤めなど想像すらできなかった。自分はどこで何をしているだろう。北海道に戻っているのだろうか。近場の大阪に安住しているかもしれない。サラリーマンの通過点として東京にいる可能性もある。一体、自分はどんな仕事がしたい? 数年先の自分が描けないもどかしさを抱えていた。

 たぶん二十代の間に訪れるであろう結婚、子育て。そんなのは嫌だ。もう少し学生でいたい。自分はまだ何も確立していないじゃないか。大学という猶予された防護壁の中で、もうしばらく自分を浸していたい、そんな甘ったれた思いがあった。当時の清水寺は、いったん門を入ってしまうと、閉門時間が過ぎてもいつまでも留まることを許してくれた。そんなおおらかな時代だった。

 将来への漠然とした不安と、あるかないかわからないかすかな夢。そんなものを、刻々と色を変える空のスクリーンに投影していた。

 本に挟まれた木の葉は変色しても、当時の情景は今もなお私の中で、鮮やかに色づいている。今年(二〇二〇年)、私は六十歳になった。いたずらに馬齢を重ねている。

 

 追記

 『随筆春秋』第五十四号(令和二年九月発刊)掲載にあわせて、作中の時系列を令和二年六月現在に修正。

 

  2003年2月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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