スカートの中 | こんけんどうのエッセイ

こんけんどうのエッセイ

  Coffee Break Essay ~ essence of essay ~

 会社帰りの電車で、つり革につかまって本を読んでいた。後ろで若い女の子がしきりにしゃべっている。そのごちゃごちゃとした会話のなかから、ポンと言葉が飛び出してきた。

「ねえ、ねえ、私のパンツ見てよ。これ、いくらだと思う――」

 思わず振り向いたら、女の子と目が合った。

 むかし、生物の教科書に、ベルを鳴らせばヨダレを垂らす犬がいた。ヨダレを垂らしたわけではないが、迂闊(うかつ)にも条件反射が出てしまった。まさか電車の中でスカートをたくし上げて、パンツを見せているわけじゃあるまいし。あー、情けない、四十二歳、妻子あり。

 実は、私の隣で夕刊フジを読んでいたバーコード頭のオヤジも、勢いよく振り返ったのだ。同時だった。ハッとして顔を戻した瞬間、目の前に座っていた女の子が、クスッと笑った直後のような余韻を目元に残していた。バツが悪くて次の駅で車両を替えた。

 どうしてズボンのことをパンツというのだろう。じゃあ、あのパンツは何というのか。わけのわからない時代になったものだ。でも、あのパンツとこのパンツはアクセントが違う。パンツの方は「パ」に、ズボンの方は「ツ」にストレスの位置があるように思うのだが。そんなことは、どうだっていい。

 このところ、ジーパンの上にスカートを穿(は)いている女性をやたら目にする。いや、スカートの下にジーパンを穿いているのだ。その目撃頻度がこの春から増えている。変だよ、絶対。どっちかにしろッ! 声にしないでつぶやく。スカートがめくれても恥ずかしくないようになっているのか。どうでもいいことだが、見た目が悪い。

 中学生になる私の娘は、ヒラヒラしたスカートを穿かない。パンツが見えそうになるから嫌だと言う。女の子なんだから、たまにはスカートの方がいいよ、といっても頑として聞かない。そんなにパンツが見えるのが気になるなら、パンツ穿かなきゃいいじゃないかというと、軽蔑の眼差しが矢のように突き刺さってきた。

 パンツなんて見えたって、本当はどうってことないのだ。見えたときはドキンとするが、後は慣れたもので、ああパンツだくらいにしか思わない。ときおり、電車の中で正面に座っている女性にそういった光景を見出す。ただ、厄介なのは、見えそうで見えないときだ。どっちかはっきりしろッ! と言いたくなる。

 プールや海で見る水着姿の女の子には、さほどいやらしさを感じない。だが、それが下着となると、話は違ってくる。なぜだろう。下着は隠すもの、本来は見えないものだからか。

 デパートやスーパーの下着売り場は、強烈である。他人に見せたくてたまらなくなるようなかわいらしい下着から、瞳孔が開くほど妖艶(ようえん)なものまで、ワンサカ置いてある。そんな売り場を通るときは、オレは、興味がないね、という顔をしているのも不自然だし、興味本位でジロジロ見るのもおかしい。ポーカーフェイスで通り過ぎるのだが、心中は穏やかではない。

 女子高生は、極めつけだ。もうこれ以上めくれないというギリギリまでスカートをたくし上げ、女(おんな)ホルモンが充満した太腿をこれ見よがしに出して歩いている。冬の寒い日、こちらはモモヒキを穿いていてもブルブルしているのに、彼女らは、素足をニョッキリ出している。よく見ると鳥肌が立っている(よく見るな!)。たいした精神力である。

 遠くから見ると何ともかわいらしい彼女らが、ドギツイ化粧をして悪臭に近い言葉遣いで、しかも単語だけで会話している。幻滅極まりない。化粧なんかしなくても、十分にかわいらしく美しい年齢なのに。化粧によって美しさをなくしている。私はバカですと顔に書いているようなものだ。背伸びをしたい年頃なので、どうしようもないことなのだろうが。

 若者はエネルギーをもてあましている。余剰エネルギーは、スポーツによって放電するのが一番だ。青春の汗を流せるのは、人生のほんのひと時にすぎない。そうでもしなきゃ、ズボンの中で男が暴れ、制服の下で女が張り裂けんばかりに叫びだす。

 通勤電車で、大声で喚(わめ)きながら、女子高生やきれいなお姉さんに袖を引っ張られ、駅員に連行されるオジサンを目にする。バカだなあ。家族もいるんだろ。会社、どうするの。かわいそうに、といつの間にか同情に変わっている。

 チカンは犯罪である。だが、本当の被害者はオジサンではないか? 目の前に禁断の果実がある。手を伸ばさなくても届くキョリである。敵は、挑発的だ。とってもお腹が空いていて、目の前に美味しそうなご馳走があったら、誰だって少しくらいならいいんじゃないか、っていう気になるよ。

 オジサンはレッドカードを提示された。一発退場! 思わず手が出たのだ。サッカーと同じ、手を出しちゃいけないんだよ。誤解されてもいけない。私は、リュックを胸に抱くように抱えて、その上で本を読んでいる。「オレはやっていない、手はここだ」といつでも審判にアピールできる。それが都会のルールだ。

 駅へ向かう途中、毎朝、顔を合わせる女の子がいる。この春、女子高生になったばかりの初々しさがある。ごたぶんにもれず、スカートが短い。

 でもその子は、ほかの女子高生とは違う。二十メートルおきにひと休みしながら、額に汗を滲(にじ)ませ、喘(あえ)ぎながら歩いている。松葉杖をついているのだ。両方の杖に体重をかけて、ブランコを漕(こ)ぐときの振り子のような要領で前へ進む。そのたびに両方の足はダラリとして、あらぬ方向を向く。痛々しく、危なかしい。見ている方がドキドキする。

 私は、いつもギリギリに家を出る。時には走ることもある。だが、どうしてもその女の子を抜けないのだ。みんなどんどん追い越していく。女の子は、満身に力を込めて一歩一歩進んでいく。ときおり立ち止まっては、スタスタ歩いている人の後ろ姿を眺めるともなしに見ている。

 雨の日だった。半透明のレインコートを着ていたが、汗でワイシャツが背中に貼りついている。髪はずぶ濡れだった。駅まではまだ距離がある。声をかけたい衝動に何度もかられるが、言葉がみつからない。その健気でひたむきな姿に、胸が熱くなる。

 こんな強い雨の日にも、母親は彼女を元気に送り出したのだ。祈るような気持ちを秘めて。強く生きて欲しいから。送っていくという親を、彼女が拒んだのかもしれない。今まで親にかけてきた苦労を知っているから。もう高校生なんだから、大丈夫だと。

 スカートの丈が彼女の喜びを現している。そんな強さを女の子の後姿に感じながら、こちらの方が勇気づけられて、改札をくぐる。

 

  2002年7月 初出  近藤 健(こんけんどう)

 

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