人吉市の東に接し、町の北部を球磨川が流れる錦町。
気が遠くなるほど高く晴れ上がった青空の下、遠くの山々は色づくコラボレーション。
稲刈りが終わった田園の風景に癒されながら、町の歴史を刻む場所を先月末に訪れた。
九州山地にかこまれた海のない人吉盆地にある山の中の海軍航空基地資料館。
愛称、山の中の海軍の町にしき「ひみつ基地ミュージアム」である。
今から78年前。太平洋戦争末期の1943年、錦町と相良村にまたがる知敷原(ちしきばる)台地につくられた航空基地。
錦町北部の木上(きのえ)地域を中心に、全長1500m、幅50mのコンクリート製滑走路を有する飛行場だけでも、広さは300ha余り。
ほかに本部庁舎や実習棟、兵舎が立ち並び、後には地下に工場や作戦指令室なども設けた本格的な航空基地であった。
現在のこの資料館は、その滑走路の東端にある。
1944年に人吉海軍航空隊が発足。
しかしなぜ海の近くではなく、山の中に海軍の航空基地が置かれたのか?
この土地が、広く平たんな台地上にあったことから鹿児島県や宮崎県の海軍航空基地への中継基地としての役割が考えられていたと推測されている。
本格的な航空基地であったにもかかわらず直接の作戦航空基地として使われなかったのは球磨地域特有の濃霧が原因だったとも。
戦況が徐々に悪化し、飛行予科練生が大量に採用されるようになると、この基地で「赤とんぼ」と呼ばれた複葉の練習機を使ってエンジニアの育成、特攻隊の訓練なども行われた。
全国から入隊してきた予科練生は8期で計約6千人。
九三式中間練習機、通称「赤とんぼ」のレプリカ
館内には基地に関する資料や基地跡で発掘された品々が展示され、当時の様子を今に伝えている。
45年になると米軍機の空襲も受けるようになり、基地周辺には本土決戦に向けての多くの地下施設が造られるようになった。
現存する地下壕は総延長約4km、総面積約1万㎡という巨大なもの。
この「ひみつ基地ミュージアム」の見どころは、地下魚雷調整場をめぐるガイドツアーだ。
資料館東側の台地斜面を下りて行く
下りついたところにあるのが「木上(きのえ)加茂神社」。終戦当日、海軍兵はここで玉音放送を聞いたそうである。
この神社の隣に台地斜面に開いた大きな洞窟のような地下壕魚雷調整場の入り口がある。
薄暗い地下に入ると、中はひんやりとし壁や天井につるはしで削った跡が残っている。
地下壕の中に立っていると戦火に散った若者の思いが胸にこみ上げ
平和のありがたさを再認識させられる。
魚雷の最終組み立てなどを行った区域は誤爆に備えて上下周囲をコンクリートで固めてあり、現在は魚雷のレプリカが展示されている
近年の調査で地下壕は50本ほど残っており、作戦室や無線室、爆薬庫、兵舎などさまざまな目的で使われていたようだ。
1945年8月15日、終戦。
人吉海軍航空基地はわずか1年9か月でその任務を終えた。
時の流れとともにその役割や事実を知る人も少なくなり、人々の記憶から姿を消していった。
長いこと埋もれていたこの地下壕もごみや廃棄物置き場に使われていたそうである。しかしそのことで地下壕が貴重な戦争遺構として残ることになった。
戦後70年が経った平成27年、地元有志の方々の調査・研究により当時の姿を鮮明に留める地下施設を始めとする様々な遺構が発見されている。
多くの若者の犠牲の上にある今日の平和を我々は忘れてはならい。
本日は以上です。