~ 霊巌洞(れいがんどう)への道 ~
青く澄み渡った秋の空!
目指すは “武蔵が籠った” 『霊巌洞』
熊本市の西方金峰山山麓。
奥に見えるは雲仙岳、手前に有明海。
みかん畑の山道を、景色を楽しみながらのんびりと車を走らせる。
このあたりは、平安期の歴史や文学の舞台となったところが多い。
駐車場がある「岩戸の里公園」に到着!
ここは小山の頂きの僅かの平地。
正面に巨大・武蔵座禅像が建立されている。
ここからは、以前書いた→ “ 漱石 『草枕の舞台』を歩く! ”
漱石ゆかりの小天(おあま)温泉へは8分ほど。
霊巌洞に祀られているの観音様は古くから「岩戸観音」と土地の人に慕われており
故にこの一帯は「岩戸の里」と呼ばれている。
ここから2~3分ほど上へ歩いて行くと
宮本武蔵所修錬碑がある。
この記念碑は
武蔵の没後300年にあたる昭和19年に建立されたもので
正面の題字は細川護立氏の書。
下段には「五輪書」の序の一節が刻まれている。
その先には
★黒岩展望所・・・ここから眺める雲仙岳の夕焼けが美しい!
この「岩戸の里公園」から
なだらかな坂を3~4分下って行くと
「九州西国14番札所、曹洞宗 雲巌禅寺、岩戸観音・五百羅漢」 と
刻まれた石柱が迎える。
右側の庭へ駐車して
本堂の前を通り霊巌洞へ足早に進むが
「ちょっと待ちなはれ!」(*^▽^*)
そっちは実はお寺の通用門であり
正式な道は、左の道を下って仁王像が両側に立つ山門からの道だ。
↓↓↓↓↓
仁王像を仰ぎ、周りの里の風景にとけ込んだ歴史を刻んだ
石段を上がって行く・・・。
★雲巌禅寺(うんがんぜんじ)本堂
~ 歴史を刻んだ時の流れの中へ ~
雲巌禅寺・奥の院、「霊巌洞」へ行くには
一方通行に回転する時代がかった鉄の回転式入口を通る。
錆びた鉄がギーッ と古めかしくきしむ音が空気を一転させ
歴史を刻んだ時の流れの中へ誘っていくかのようだ。 入場200円也
入ってすぐ古いガラス戸の中に
寺宝・資料が古式蒼然と並び入っている。
武蔵の木剣、画・・・
それに武蔵の時よりも600年も古い平安時代の媼(おうな)・桧垣が使った品々・・・。
※「桧垣」に関しては後日少し取り上げ書く事とする。
特にご年配の方々は入口に杖が置いてあるのでぜひご利用を!
杖 といっても、竹ぼうきが擦り切れて竹の棒だけになったものを
再利用しているものだが・・・(^_^;)
ここは、距離はさほどなく上がり下りの岩肌がむき出しの道は
手すりはついているが足場が悪いので
「ころばぬ先の杖・・・である」
~ 五百羅漢 ~
ゆっくりと足元に注意を払い歩いていると
右側はむき出しの岩肌になっており
その斜面には十六羅漢・五百羅漢が
思い思いの表情でたくさん並んでいる。
羅漢さんが奉納され2~3百年という長い時間の中で
どのお顔も体も苔むして、風・雨ざらし、陽ざらし
時には雪にも覆われて来たであろう
その長い歴史を物語っている。
首から上が欠けている羅漢さんも多い
明治27年に金峰山地震があったとき随分と損傷があったようだ。
「自分に似た顔の羅漢さんが必ずいる」 と 聞いたことがある。
ならば自分に似た羅漢さんは何処かと注意深く見ながら歩く。
ん、これか?
「そんな凛々しい顔ではない!
あっ、そーですか・・・( ̄_ ̄ i)」
なんだかやるせない表情・・・!
こちらは襟巻き?
雪でも散らつくさぞかし寒い日に
この羅漢さんに似た誰かが
首に巻いてくれたのだろう・・・
と勝手な想像をしながら歩く。
こちらはハンカチもっておられる!
暑い日だったんだろうなぁ~・・・。
おーっ!カッチョえ~
こちらはサングラスしておられる。
こちらはまた華やか・・・!
ところで、この羅漢群は宝永・安永の時代のものだから
武蔵の時代はなかったことになる。
従って今歩いているこの道もなかった。
いったいどこから上り下りしていたのか?
そんなことを考えながら、延命地蔵尊や閻魔(えんま)洞の前を通り
右手の羅漢群を見ながら手すりを握って僅かだがこの急な石段を上る。
上り切って
ちょっと息を整えて振り返ると奥に見えるは金峰山!
前方を見下ろすと洞の入口が見えて来た!
今度は用心して石段を下りていく・・・。
~ 霊巌洞 ~
見えた!着いたぁ~!(^O^)/
来たキタ━━━(゚∀゚)━━━!!
むき出しの岸壁にパックリと口を開けた洞に
ちょっと感動!
武蔵が籠って「五輪書」を書いた
“ 霊巌洞 ” である。
今は、洞に上る両端に石の階段があり簡単にのぼれるが
当時はおそらく岩肌をよじ登るか、縄梯子だったのだろう。
霊巌洞に、入る・・・広い!
100人位は入れるスペースか。
岩は金峰山系の火山岩で凝灰角礫岩(ぎょうかいかくれきがん)というらしい。
霊巌洞一帯の岩層は金峰山噴火の時の火山灰と火山礫が混在したもので
火山灰の部分は柔らかく彫りやすい。侵食作用も受けやすい。
一方、火山礫は硬いので全体として侵食の強弱で風化が異なり凹凸の多い奇岩となっている。
不思議と想像するような洞窟の荒々しさは感じられない。
奧には、横一間半(2.7m)、縦一間(1.8m)程の木組み格子の中に
岩戸観音様が祀られている。
その横には多くの奉納札が並んでいる。
その格子の上の洞の天井に文字が・・・!
写真では見えないので、オレンジ色の印をしているところの上。
現地でもよーく見て探さないと分からないのだが
右から左へ1m間隔で 「霊」 「巌 」「洞」 と40cm四方程の篆書(てんしょ)体の
文字が彫られている。↓↓↓
どうやってあの高さに文字を彫れたのか?
これまた不思議。
洞窟の中におかれているこの大きな石は「船頭石」。
「その由来は、楫(かじ)を過った船頭が
観音菩薩の前にその過ちを悔い、遂に石になった」
この格子の中の観音様は
かつてはそのお姿が見えて拝むことができたらしいが
今は盗難防止のためかガードの格子が三重になって護られており見ることはできない。
逆修碑が二つある!
※逆修:死後の世界の冥福を祈って、生前にあらかじめ自分のために
家康に認められ関ヶ原で功績をあげる。
右側に縦120cm、横70cm、深さ3cmほど削りこんで
岸壁の面を平らにして文字が彫りこまれている。
菩提寺は熊本市成道寺。
もう一つは
鹿子木寂心・・・熊本城の全身ともいえる千葉城を
文武に優れた戦国時代の肥後武将
(逆修碑は、外の岩壁に同じようにある)
この洞の感触が心地よく妙になじむ。
その秘密は、かつて武蔵が籠った時よりはるか昔
この洞に通い続け観音様にお参りをしていた老女の
肌のぬくもりが残っているからだといわれる。
その女性、「桧垣」の柔らかな息づかいが洞の岩肌に染み付いて
いるからか・・・と。
鋭敏な武蔵も、そのぬくもりを感知していたのだろうか。
母も知らぬ武蔵は、母の胎内にいる安堵の中にあったのだろうか。
武蔵がそれまで過ごしてきた「動」の世界に対して、ここは求め
続けてきた安寧(あんね)の世界だったというのか。
筵(むしろ)を敷き、ろうそくの火のもとで、「五輪書」を書き始めた。
武蔵がここに籠ったのが寛永20年(1643)10月。
それからおよそ1年半。
後半は病が重くなり死期が近まったのを知った武蔵は
己の臨終の日をこの霊巌洞で待つ旨を知らせる手紙を三家老宛に出している。
武蔵はこの霊巌洞で、静かに息を引きとりたかったのだ。
しかしその願いは叶えられなかった。
松井興長が
養子(細川忠興の六男)寄之を霊巌洞に赴かせて
武蔵を千葉城の家宅に移して介抱にあたらせたのである。
正保2年(1645)5月19日、武蔵は千葉城の自宅で亡くなった。
時に62歳
武蔵は 『霊巌洞』で、人間武蔵になった!
了
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「五輪書」
最後までお付き合い頂き
ありがとうございました。(=^0^=)
本日は以上です。