前回まで、くまもとの “ 武蔵 ” を3回に渡り取り上げて来た。
最後は武蔵が籠って「五輪書」を書いた“霊巌洞”で終了した。
実は、この霊巌洞、武蔵が籠った時より600年も前に、この洞に
毎日水を汲んでは二里(8km)も離れた「岩戸観音」に通い続け
お参りしていた媼(おうな:年老いた女性のこと)・老夫人がいた
というから驚きである。Σ(・ω・ノ)ノ!
平安時代の歌人 『桧垣(ひがき)』 である。
謡曲(ようきょく:能楽の詩歌)に有名な「桧垣」というのがある。
謡の「高砂」は、結婚式などおめでたい式に歌われることが
多いから、なんとなく耳になじんでいるが
「桧垣」は・・・。 (*゚.゚)ゞ
(因みに「高砂」の主人公は、熊本の阿蘇神社の二十六代宮司
・阿蘇友成である)
「桧垣」は場所も登場人物も霊巌洞が主題である。
この謡曲の冒頭部分のあらましの意味は
ここ岩戸山の観世音の洞に三年もの間籠っている僧がいた。
岩戸観音のもとに毎日“白川”(阿蘇を水源として熊本平野を
流れる川)から水を供えに来る百歳近い老女がある。
今は近くの「山下庵」に草庵を備えているとのこと。
名を尋ねると「昔は太宰府で桧垣を構えて住んでいた白拍子でしたが
今は白川の畔に移り住んでいます。
・・・・そういって夕暮れに紛れて消えていく。
僧は白川の畔に行くと、川霧の中に幻想的な火がともる庵から
老女の霊が現れ、舞いを舞って消えていく。
・・・・というストーリーで
「謡曲三老女」ものの一つになっている。
こんな夢幻の物語が霊巌洞に秘められていたのだ。
その白川の畔に平安時代の末頃(980頃)歌人・桧垣が住んでいた。
前述したように、彼女は、そこから毎日水を汲んでは、二里(8km)も
離れた岩戸観音にお参りし、とうとう岩戸観音のすぐ近くに庵を構えた。
その跡地の「山下庵」が霊巌洞・岩戸観音から歩いて2分程の場所にある。
★山下庵跡・・・みかん畑に囲まれて小さな像が立っている。
奥に見えるのが雲巌禅寺。 この辺は山里の原風景が
今でもしっかり残っているような印象だった。
ところで
熊本市に「蓮台寺」という由緒ある古いお寺がある。
この浄土宗西山禅林寺派の名刹の起源に「桧垣」が深くかかわっている。
蓮台寺の境内には、岩戸観音へ供える水を汲んだ井戸(桧垣の井戸)や
桧垣の墓(供養塔とも)といわれる優美な女性らしい塔が残っている
(スミマセン!写真は撮れていません)
観音堂には「桧垣の像」が鎮まっている。
それは彼女が毎日お参りした岩戸観音の裏山に埋まっていた
「桧垣の自作の小さな像」を模して木彫にしたといわれる。
蓮台寺には「桧垣媼集」という歌集も残されているという。
後撰和歌集に彼女の歌が選ばれている。
年ふれば
わが黒髪も白川の
みずはくまで老い
にけるかな
この後撰和歌集の選者
、桧垣と同時期に、肥後の国司として京から下ってきた
清原元輔である。
当時国府は桧垣の庵の白川畔とほど近い二本木にあった。
白川の
底の水ひてちりたたむ
時にぞ君を
思いわすれめ
桧垣と親交のあった
清原元輔とは “ 清少納言の父 ”
清原家は代々和歌の家である。
「枕の草子」で有名な清少納言の知名度はメジャーだが、彼女の父・清原元輔が
平安のころ肥後熊本に居たとは遠い昔のこととはいえほとんど知られていないと思われる。
また、肥後藩祖・細川忠利の祖父にあたる細川幽斎の母は
清原家の出である。
これもご縁だろう。
熊本市春日、北岡神社の近くの道路下に元輔を祀っている
「清原神社」がある。
住宅地の入り込んだところにひっそりと目立たない小さな神社だが
和歌を志す人にとっては信仰の対象となっているそうだ。
本日は以上です。