山鹿市菊鹿町は上永野にある国史跡に指定された「隈部氏館跡」。
約500年前、菊池一族隆盛の頃に築かれた山城で
城主は前回アップした「あんずの丘」に建つ銅像の隈部氏。
標高340~370mの山腹に南北60m、東西85mの平場に築かれていた。
さらに天気のよい日は雲仙普賢岳を見ることができる。
山城には、堀切が数多く残っている。おそらく敵の侵入を防ぐために築かれたのであろうか。
春にはそのあたりにはツツジが咲きみだれる。
肥後国人一揆、隈部氏の滅亡・・・天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征伐後
肥後国人衆は本領以外は没収となり、隈部親永は当時1900町歩を所領していたが
800町歩というように、他の国衆ともども半分以下の所領となった。
そして、秀吉は肥後一国を佐々成政に五箇条の条件を付けて与えた。
しかし、佐々成政は、秀吉の付けた条件を無私して検地を実行したことから
親永父子はその検地実施に反対して挙兵
さらに、隈部氏を頭として肥後の有力領主が連合して国衆一揆が肥後全域に広がった。
成政は早速5千の兵で隈部親永の隈府城を攻め、敗れた親永は
嫡子親安の守る城村城(じょうむらじょう)へ逃げ込むと、堀をさらえ
柵を造って防備を固め、1万5千人で籠城した。
一方、成政軍は城村城攻めを開始したが
その間に甲斐親秀、菊池武国、赤星、城氏らが率いる3万余人の国衆は
成政の本城 隈本城を囲んだところから、成政は隈本城にとって返
一揆軍の内乱などもあって、これを撃退した。
城村城はその後も成政の猛攻撃に耐え、延々9ヶ月の籠城となった。
この事態をみて秀吉は成政を尼崎に呼びつけ、天正16(1588)年5月
命令を守らず一揆を引き起こした罪をもって切腹を命じている。
一揆軍に対しては、近隣の黒田・立花・毛利・島津氏らに攻略の動員令を出し
黒田孝高は使者をもって和議開場させ、親永は立花氏に、親安は小倉の毛利氏に預けられ
切腹を命じられて、それぞれ腹を切り隈部氏は滅亡した。
一揆に加担したその他の地侍や農民は帰農が許され、肥後国衆一揆は終結した。
隈部神社は主郭の東西に建てられた。現在の神社は昭和11年建立。
当時も神社が祀られていたと思われている。背後には小規模な堀切が残っている。
さらにその背後の北方の山には、猿返し城(山城)、米の山城の跡がある。
土塁や曲輪状の削平地が残っていて、共に隈部館の監視網を構成する砦として
重要な役割を果たしていたものと推測されている。
館跡には数棟分の家屋礎石が並び、泉水跡、庭園跡等も発掘された。
いまでもその原型を留めている。
庭園跡は室町時代の作庭とされ、中世庭園の姿をそのまま伝えている。
里山の風景の中に静かに時は流れている。
本日は以上です。
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