明治から大正、昭和にかけての約100年間、日本の近代化を牽引した三井三池炭鉱。
その輝かしい足跡が今なお残る 「万田坑」。
石炭の歴史がまちの歴史をつくりあげてきた。
その足跡に今、世界文化遺産としての注目が集まっている。
全盛期には3,500人もの炭鉱マンが働いていたという。
現地見学の際は、ボランティアガイドの方々もおられるので、ぜひお願いしたい。
~ 地底 (じそこ) に生きた男たちの 「夢の跡」 !~
それでは、「万田坑」 のみどころを紹介!(^-^)/
▼ 山の神祭祀施設 (やまのかみさいししせつ)
やまの守り神。
万田坑で働く人達の安全を見守ってきた施設。坑内へ入る作業員は
必ず入坑前にここで安全を祈願していた。
▼ 第二竪坑櫓 (だいにたてこうやぐら)
万田坑にそびえ立つシンボル的存在。作業員の昇降のための施設。
高さが18.9mの総鋼鉄製で明治41(1908)年に完成。
2009年の修復により操業当時のように綺麗になっている。
隣接する巻揚機によりワイヤーが巻かれ、吊るされたケージ(エレベーターのかご)が上下する。
▼ 第二竪坑 坑口 (だいにたてこう こうぐち)
▼ 当時使用していた地底への乗り物ケージ (エレベーターのかご)
1台のケージの定員は25名でかなりきゅうくつだ。 (右がその様子)
▼ 大きさ約8.3m×4.4m、深さ地下264mの穴が開いており
ここから作業員はケージに乗って坑底まで降りた。
2台のケージが 「つるべ」式の井戸のように、片方が地上にある時はもう片方は坑底にある
という仕組みで、約1分間で昇降していた。
石炭は揚げていない(石炭は既に解体されている第一竪坑の役割)。
この坑口は排気のために気密構造となっており、入口左側には、信号所施設があり
巻揚機室の運転手や坑底と 鐘・ベル・電話等で連絡をとりあっていた。
当時の炭鉱マンの坑底での作業の様子(万田坑ステーション資料館より)
〈坑内回想記より〉
日によっては、坑内を1日に10km以上も徒歩で巡回し
各所に設置された機械類の保守点検をすることもありましたが
異常のない限り基本的に単独行動であり、頼りになる唯一の親友は携帯無線機でした。
時折、坑内の湿度が90%以上にもなることや、電波の届かない状況になることもあり
暗闇の中に自分ただ一人と思うと、急に何ともいえない恐怖感が湧き上がってくることがありました。
また、坑道(坑内のトンネル)は入気道(新鮮な空気を取り入れる坑道)と排気道(汚れた空気を外に出す坑道)とがあり、気温や気圧の差により 幾重にも通気門が設けられ濡気のないような仕組みになっており、通り抜けるのも一苦労でした。
加えて、坑道には岩盤に色々な種類の岩質が混在していて補強のための枠張りができていない箇所もあり、岩肌がむき出しの場所を通ると不気味な感じがして走って通り抜けたい気持ちになったことや強度面での安全確保はされていたとはいえ、坑道の天井の岩盤にドリルで穴を開けてルーフボルト(鉄の楔を挟んだボルト)を打ち込み、それに重量のかさむものを吊り下げる時の恐怖感などは
今でも鮮明に覚えています。
このように暗く、危険と背中合わせの坑道の仕事を終え
地上の光が遠くに見えると、全身の力が抜けたようにホッとした気持ちになったことが
懐かしく思い出されます。
三池炭鉱内の維持管理用として平成9年閉山まで使用されていた。
閉山時に選炭場の土砂により坑底への穴は埋め立てられている。
▼ 第二竪坑櫓と巻揚機室が美しく見えるベストポイント!
▼ 第二竪坑 巻揚機室(だいにたてこう まきあげきしつ) 南側の建物
▲▼ 赤煉瓦が印象的な第二竪坑巻揚機室は煉瓦造りの切妻2階建てで
明治42(1909)年に完成。
▼ 巻揚機室 北側の建物
▼ 中2階に資材重量物の巻き上げ用のウインチが
2階には炭鉱マンが乗るケージ(エレベーターのかご)を昇降させる巻揚機が格納されている。
内部の壁面には、機械の仕様、信号(合図)、操作上の注意事項等が貼ってあり
炭鉱マンの命を支えた巻揚機とそれに巻き付いた黒く太いワイヤーロープから
当時の緊張した雰囲気が伝わってくる。
▼ 倉庫及びポンプ室
明治38(1905)年の建設当初は、坑内の換気を行うための扇風機室であった。
当時(1906~1914年まで)は蒸気を動力する巨大な扇風機が備え付けられていたが
その後予備の消化器などを置く倉庫、坑内から汲み揚げられた排水用のポンプ室として
利用されていた。現在も地下に灌漑用水槽がある。
▼ 安全燈室及び浴室 (右側の建物)
万田坑の建物の中でも倉庫・ポンプ室と同じく最も古いものの一つ。
明治期は隣接する扇風機室に関連する機械室であったようで壁面に多くの痕跡が残っている。
用途の変更が頻繁に行われており、昭和26(1951)年、万田坑の閉坑にともない
坑内管理のための安全燈室及び浴室として利用された。
安全燈室には、暗闇で使用する安全燈(ヘルメットに付けるランプ)の充電機が備え付けられている。
▼安全燈 ▼ 当時のロッカー
▼ 浴室
ここでススを洗い流した。
炭鉱マンには気性の荒い人たちも多かったらしく
喧嘩になっても危なくないように風呂桶は黒いゴム製になっている。(゚_゚i)
全盛期の大規模な浴室と比べるとかなり小さいらしいが、当時の様子が想像できる。
▼ 事務所 (旧扇風機室)
大正3(1914)年頃の建設当初は坑内の換気を行う電気を動力とした
巨大な扇風機が備え付けられた扇風機室であった。
昭和26年の閉坑後から用途が変わり1階を更衣室などに
2階を事務室と坑内の監視室として使用されていた。
▼ 建物の裏、南側壁面には向かい側のポンプ室及び倉庫に繋がった痕跡が見て取れる。
かつては、このあたりは、桜並木があったらしい。
▼ 職場 (修繕工場)
北のはずれにあり、ちょっと見落としがち。かつて職場と呼ばれ
万田坑で使用する機械類の修理や工具の工作を行うための施設。
昭和初期の建物。現在、屋根の一部が落ちてしまっているが
内部には設備を修理する工作機械が多く残っている。
▼ 汽罐場跡(きかんばあと)
明治31(1898)年に建設された汽罐場は、石炭を燃やして蒸気を発生させ
万田坑の各施設へ蒸気を送っていた。現存する壁は、明治初期のもの。
▼ 奥には煙突の基礎などが残っている。全盛期(昭和初期まで)は、汽罐場が3棟あり
煙突も5本あった。 動力が蒸気から電気へ移っていくにつれ、規模も縮小していった。
第二竪坑の南側奥には、当時東洋一の高さ(30.7m)と呼ばれた第一竪坑櫓の巨大なコンクリート基礎が残っている。 竪坑深さ273m、今も開口する第一竪坑口は、そばに立つと足がすくむらしい。
見ていません・・・
第一竪坑は、直接石炭を採掘していた施設で、昭和26年の閉坑以前の中心施設。
第一竪坑及び周辺施設は、閉坑後ほとんど取り壊されているが、坑口は坑内吸気道確保のため
現在も開口しているのだそうだ。 寒い日は、地熱の関係で蒸気が上がっているのが見えるという。
▼ 桜町トンネル
▲万田坑全盛期の正門の手前には熊本県荒尾市と福岡県大牟田市がつながる
生活道路(地下通路)があった。 通称桜町トンネル。
トップライトがありちょっと異空間。昭和8(1933)年頃造られた。
坑内の地下を東西方向に走り、壁は切石(一部はレンガ積み)で積まれ
入り口は2.7m、高さ2.4m。 ▼
▼ 沈殿池
坑内から排水された水を一時的に溜め、不純物を沈殿させるため池。
池に設けられた排水溝から上水(うわみず)を河川に流す仕組みになっていた。
万田坑は明治35(1902)年操業開始。
大正・昭和初期の主力坑で当時わが国最大規模であった。
地の底で命懸けで石炭を採掘した男たちの熱い想いを
世界文化遺産となったこの地、「万田坑」 で感じていただきたい。
三池炭鉱 『 万 田 坑 』
熊本県荒尾市原万田200番地2
0968-57-9155
「万田坑ステーション」
※万田坑資料館あり!
本日は以上です。
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