熊本市黒髪にある桜山神社は
大正2年に建てられたもので、当初は桜山祠殿と称されていた。
その後、昭和23年9月に祠殿から神社へとなったことに伴い
桜山神社と称されるようになった。
肥後勤王党の親・林桜園(はやしおうえん)をはじめ
勤王党志士や神風連の乱(しんぷうれんのらん)に倒れた人々を合祀。
境内には顕彰碑や墓が並び、一番奥に林桜園の墓がある。
明治の初年熊本には敬神尊攘を信條とする神風連(しんぷうれん)という一団があった。
彼らは明治新政府の急激な欧米化の施策を国本を危うくするものと憂慮し
ひたすら神明の擁護を祈っていたが
明治9年廃刀令が出るに及んでついに宇気比(うけひ)によって挙兵した。
その数百七十人余、彼らは鎮台を攻め、軍官の要人を襲ったが
近代火砲の前には長く続かず一夜にして破れ、その多くは戦死、自刃して果てた。
世にこれを神風連の変といっている。
その後彼らの誠忠が認められて戒名がのぞかれ、加えて御贈位にもなり
桜山神社並びに護国神社に合祀されている。
神殿の背後には、『百二十三士の碑』 と 『誠忠之碑』 の二つが建っており
『百二十三士の碑』 は、神風連の変にたおれた太田黒伴雄(おおたぐろともお)ら
百二十三士を祀っており、『誠忠之碑』 は、維新の際に国難に殉じた
肥後勤王党の宮部鼎蔵(みやべていそう)ら二十三士を祀っている。
★宮部鼎蔵(みやべていぞう)の歌碑
宮部鼎蔵は、幕末の頃、肥後勤王党の中心人物として活躍した維新の志士である。
憂国の志が深かった父祖や勤王党の始祖林桜園(はやしおうえん)の影響を受け
尊王攘夷の考えを強く持っていた。
諸藩の勤王の志士と交流があったが、特に長州(山口)の吉田松陰とは深い交わりを持ち
松陰は、鼎蔵のことを 『君には忠、友には信、親に孝なり、懇篤剛毅(こんとくごうき)の人』 と評し
兄のように慕っていたといわれている。
『いざ子供、馬に鞍おけ九重の 卸はしの桜 散らぬそのまに』
この歌は、鼎蔵が、熊本を離れ京都に赴く時
まだ幼い子供たちを前に尊王憂国という自らの不退転の決意を詠んだ一首である。
この後鼎蔵は、尊王攘夷派の勢力回復に力を尽くしたが
京都の池田屋で新撰組の襲撃に遭い自決した。享年45歲。
★百二十三士の碑
神風連の乱に参加した小篠四兄弟の末弟で
18歲で割腹自殺した源三の死を悲しみ
食もとらずについに餓死した「とら」の義犬の墓。
★阿部以幾子の墓
神風連の参謀であった阿部影器(かげき)の最後を見届け
その後自決した影器の妻、阿部以幾子の墓。
林桜園(はやしおうえん)は寛政10年(1798)に林又右衛門の三男として誕生。
明治3年(1870)10月12日没の学者で、名を「有通」、号が「桜園」。
肥後藩の藩校 「時習館」 に入るが校風に馴染むことが出来ずに退学。
本居宣長の流れを汲む国学者「長瀬真幸(1765~1835)」に入門、国学と神道を学ぶ。
その後国学、神道、儒学、天文、地理、蘭学などの書物と出会い、幅広い学問に通じた学者で
宗教家、政治家、歌人、画家・・
特に教育者としての活躍に目を見張るものがあり、天保8年(40歲)
私塾「原道館(げんどうかん)」を開き、敬神・尊王を説いて子弟の教育にあたる。
その門人の数は1200人とも1400人ともいわれている。
勤王党の宮部鼎蔵、学校党の佐々友房(済々黌創立者)、実学党の横井小楠といった
幕末の熊本の3党派を代表する人物のほか
特に肥後勤王党や神風連(敬神党)の人々に大きな影響を与えている。
桜山神社の境内にある神風連資料館には
「神風連の乱」や彼らの思想を支えた林桜園の遺品500点あまりを中心に
年表、図表、劇画が展示されている。
神風連の志士たちの根本思想は、林桜園によって説かれた「神事は本なり、人事は末なり」
(神道をもって、国政人事を行なっていこう)の敬神尊攘を信条とするものであった。
その思想は大田黒伴雄(大田黒ともお)等に引き継がれた。
彼らの目には、明治政府の急激な欧米化が、2000年来続く国風を変化させるのは
わが国滅亡につながると映っていたのであろう。
本日は以上です。
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