八代(やつしろ)市は
熊本県の南部に位置する県下第2の都市。
江戸時代以来干拓によって広がった平野部では農業が盛んで
かつては、畳表の原材料となるイ草の生産は日本一であった。
しかし近年は安い中国産が入って来ると、作付面積は最盛期の
3分の1へと急激に減少。
また、国内最大の柑橘類「晩白柚(ばんぺいゆ)」も特産品で
日本一も生産量を誇る。
最近では、トマトの一大産地としても知られている。
八代は、中世は名和氏、相良氏、薩摩の島津氏、近世になると
小西、加藤、細川、松井氏と支配が目まぐるしく変わり
時代に翻弄される。
領主の居城も古麓城、麦島城、八代城と移った。
この間、急流球磨川の治水や八代海の干拓が進み、政治・経済の中心は
東部から平野部に移ってくる。
八代城は
元和5年(1619)の地震により、麦島城が崩壊したため
加藤清正の子で熊本城主加藤忠広が重臣の加藤正方(まさかた)に命じて
現在地に築城したもので、元和8年(1622)に完成した。
石垣に白い石灰岩を用いていることから、白鷺城とも呼ばれる。
一国一城令が公布された後も立派な城造りを幕府が許したのは
全国的にもめずらしいことで、対津島の布石であったのだろう。
加藤家の改易後は
寛永9年(1632) 細川忠興(三斎)が入城し
忠興没後の正保3年(1870)、家老・松井興長(おきなが)が入城し
以後、明治3年(1870)まで松井氏が代々在城した。
城の大きさは、南北582m、東西500mで、その城下町は南北1037m
東西1655mにわたり、熊本に次ぐ城下町として、多くの文化が生まれ繁栄した。
創建当時は
本丸に4層5階の大天守と2層2階の小天守、7棟の櫓などが立ち並んでいたが
落雷による焼失や明治維新後の取り壊しによって
現在は本丸の石垣と内堀が残っている。
ここは、本丸正門にあたる表枡形門(ますがたもん)があったところで
「高麗門(こうらいもん)」または「欄干橋門(らんかんばしもん)」とも呼ばれた。
枡形門は四方を石垣で囲み2箇所に門を設けたものでこの門を通り抜け
右に直角に曲がった所に二の門である「頬当門(ほおあてもん)」があった。
これは、外部からの敵が直進して城内に入るのを防ぐためである。
廊下橋門
、本丸の勝手口にあたる裏枡形門の一の門。
表枡形門同様な造りで、敵の直進を避けるとともに
側面及び背面から攻撃するために食い違う二箇所に門を設けたもの。
廊下橋門は両側の石垣の間に東西五間、南北二間半の平櫓を渡し
その下部に門を設けていた。
現在でも、門の礎石が残されている。
この先に二の門の埋み門(うずみもん)跡がある。
明治以降、本丸跡に 八代宮 旧官幣中社 が創建された。
御祭神は
征成将軍・懐良親王(かねながしんのう)。
良成親王(よしなりしんのう)が配祀されている。
※懐良親王は、後醍醐天皇の第九皇子で、征西将軍として足利軍と戦ったお方。
※良成親王は、後村上天皇の第七皇子で、懐良親王没後に征西将軍の任に就いたお方。
八代宮は八代市のまさにシンボル!
参道を出ると、車道が横切っており、道路を渡り
八代城跡にある八代宮境内へ神橋を渡っていく。
さすが旧官幣中社。
立派で美しい佇まいである。
夫婦松とは、神門の前にある二本の松のことを言う。
この下をくぐると「二人は結ばれる」 とか
「夫婦の絆が強くなる」と地元では言われている。
縁結びの祈願としてお参りする人も多い。。。
*☆*:;;;:*☆*:;;;:古麓城 ~ 麦島城 ~ 八代城への歴史*☆*:;;;:*☆*:;;;:
古麓城(ふるもとじょう)
古麓の丘陵地帯に築かれた山城の総称。
14世紀半ばから約150年間
八代を支配した名和氏は、丸山城・飯盛城・鞍掛城・勝尾城・八丁嶽城を築いた。
続いて約80年間治めた相良氏は、同地に鷹峰城・新城を築き
山麓に城下町を整備した。
相良氏の「八代日記」によれば、外港の徳渕津では朝鮮との貿易が行われ
城下町では連歌会や猿能楽が催され、繁栄したと伝えられる。
16世紀後半には、薩摩(現鹿児島県西部)の島津氏が八代に進攻したが
天正15年(1587)、豊臣秀吉の九州征伐で撤退した。
麦島城(むぎしまじょう)
秀吉の命で八代を治めることになった小西行長の家臣・小西行重によって
球磨川の河口の三角州に築かれた。
徳淵津の南あたり、交易と水軍活動の利便を考えて、この地が選ばれたと推定されている。
関ヶ原の戦い(1600年)で小西氏が敗れた後
加藤清正の支配下に入るが
元和5年(1619)の地震で麦島城は崩壊した。
これ以来、麦島城跡を示す「古城」という地名だけが残る。
そして今回紹介した八代城である。
八代城(松江城)跡
熊本県八代市松江城町7
本日は以上です。