八代城跡の堀のそばにある松井神社。
この神社は明治14年(1881)
松井家再興の祖である初代松井康之(やすゆき)と 康之の子二代
松井興長(おきなが)を祭神として建てられた神社である。
松井康之(まついやすゆき)
生誕 天文19年(1550年12月18日)
死没 慶長17年(1612年2月23日)
松井氏は康之の曽祖父の松井宗富が8代将軍足利義政に仕えて以来
代々室町幕府の幕臣として仕えていたとされている。
康之は当初第13代将軍・足利義輝の家臣として仕えたが
永禄8年(1565)、永禄の変で義輝と兄・勝之が松永久秀らによって暗殺されると
細川藤孝と行動を共にし、後に織田信長の家臣となった。
だが、実際には細川藤孝の家臣のようなものであったと言われている。
天正9年(1581)
羽柴秀吉が鳥取城攻めを行った時には水群衆を率いて秀吉方の城に兵糧(ひょうろう)を入れ
鳥取城に兵糧を入れようとしていた毛利水軍を撃退、毛利の将・鹿足元忠を討ち
その勢いで伯耆(ほうき)・泊城を攻めるなど活躍。信長から賞賛されたという。
天正10年(1582)の本能寺の変後
藤孝が出家すると子の忠興に仕えた。
戦国武将だけではなく
千利休や津田宗及と並ぶ茶人でもあったと言われている。
松井興長(まついおきなが)
生誕 天正10年(1582年)
死没 寛文元年(1661年7月24日)
天正10年(1582)
丹後国久美浜で康之の二男として生まれたが
兄興之が朝鮮出兵で戦死したため松井家の世子となり
慶長16年(1611)
父・康之が隠居したのに伴い松井家の家督を相続した。
寛永9年(1632)
細川家が豊前・豊後から肥後熊本藩に国替になると
興長には玉名・合志郡の内に3万石が細川家から与えられた。
正保2年(1645)
八代城主だった細川忠興(三斎)が亡くなると
正保3年(1646)から興長が八代城を預かることになった。
八代城は一国一城令の例外とされて存続し
代々松井家が八代城主を務めた。
この松井神社の境内に樹齢350年~400年と言われている
臥竜梅(がりゅうばい)がある。
この梅は、細川忠興がこの地に住まいを設けた際の手植えの梅で
八代から優れた人材が出るようにと願いが込められて植えられた梅である。
県指定天然記念物に指定されている。
『老幹屈曲、朽ちて朽ちず、ほとんど老龍の地上に 蟠臥する
もののごとし。呼んで、これを臥竜梅となす・・・・・・・・・』
地をはうように伸びる幹や枝が
竜が臥(ふ)せている姿に見えることから名付けられた。
例年3月初旬に花を咲かせ見頃となる。
今は葉っぱが生い茂ってちょっと写真では見にくいのが残念。。。

細川忠興は明智光秀の娘である玉(ガラシャ)を夫人に迎えた人。
織田信長、羽柴秀吉、徳川家康に仕え多くの戦功をあげ
関ヶ原の戦いの後に親子で豊前中津(40万石)と豊前小倉(40万石)を与えられた。
元和5年(1619)に嫡子・細川忠利に家督を譲り隠居の身となった。
その後、寛永9年(1632)に徳川家康から、にらまれていた加藤忠広が改易になると
細川忠利が小倉より肥後に入国した。
そのとき八代には忠利の父である細川忠興が入城したのである。
この時期にこの臥竜梅は植えられたものだ。
そして忠興は正保2年(1645)に83歳でこの八代で没した。
その後は細川家の家臣であった長岡(後の松井)興長が三万石の
城主として八代城に入城し、以来、明治維新まで続いた。
花咲き香るシーズンでないのが残念だが
細川ガラシャが辞世の歌として詠んだ
『 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 』
「花も人も散りどきを心得てこそ美しいのだ。」 という意味。
今の政治家の皆さん方にはいかがなものだろうか・・・。![]()
本日は以上です。



