熊本市北部町四方寄(よもぎ)の国道3号線沿いにある
『御馬下(みまげ)の角小屋(かどごや)』
江戸時代
質屋・酒屋を営み財を築いた庄屋で、堀内家(旧赤木家)の住宅です。
熊本市の有形文化財に指定されています。
現在の国道3号線は往時の豊前街道であり
大庄屋堀内家の住宅ではありますが、その建物が立派であったことから
熊本藩(細川家)と薩摩藩(島津家)の大名が参勤交代の際
休息所として使用していました。
御馬下とは
旧村名。昔はこのあたりは御馬下と呼ばれていたのです。
角小屋とは
角屋は屋号、小屋は店を意味します。
★国道3号線(旧豊前街道)沿いにある御馬下の角小屋
通称「角小屋」は江戸時代後期の建物で
その構造は、表道路に面した商売を行う店・茶の間・中の間などの商家としての部分と
奥の大名などの休息に使われた御成の間・次の間・御用人の間の屋敷部分が合わさったもので
建築上大変貴重なものです。
また、日本で初めての落下傘部隊の隊長である堀内豊秋の生家であり
堀内豊秋は堀内家最後の当主であります。
館内には
明治維新の際に明治新政府の参与に命ぜられた細川護美(もりよし)のお供をして
京都に赴いたときの記録「見聞記」や参勤交代の古文書等
江戸時代から昭和に至るまでの堀内家の記録が
当時の暮らしを今に伝える道具類とともに数多く残されています。
★帳場周辺「店の間」
帳場には番頭が座り
金銭の取り扱いや品物の出し入れ
販売を行っていました。(今のレジにあたる)
★屋敷部分
高い木組みの吹き抜け天井、年を経て、つやびかりする見事な大黒柱
用材、それに施した家運繁盛の打出の小槌などの木象眼など
日本古来の木造建築の良さが目を引きます。
一般の出入口とは別に殿様などが利用していた御成門。
篤姫等もここから入ってきたのでしょう。
★玄関を入ると御用人の間
人形でもドキっとするぜ!(^_^;)
殿様などの御小休(おこやすみ)の折は、主客が御成の間
家老や重臣が御次の間、御用人はこの部屋に居ました。
それぞれの部屋は、身分に応じて、床、屏風、ふすま、釘かくしの意匠や
便所の造りも違っていました。
篤姫は天保六(1835)年
薩摩藩主島津家一門のひとつ今和泉
島津家島津忠剛の一女として生まれました。
名は一子。
嘉永三(1850)年
第十三代将軍徳川家定の夫人に関して島津家に打診があり
藩主島津斉彬は聡名・気丈さを見込み一子を斉彬の実子として鶴丸城に迎え入れ
篤姫と改めました。
嘉永六(1853)年
将軍家へ嫁入れのため鹿児島を発った篤姫は
8月29日
御馬下の角小屋に休息、茶菓と柿・西瓜を献上したと記録されています。
便所の下には砂が厚く敷きつめた砂箱が置いてあります。
殿様の大便はそのたびにごとに、ご典医が調べたそうです。
なお、便所の横には、常に警護の者が待機していたとのことです。
篤姫もこのトイレを使用。
この地方名産の西瓜(スイカ)をたくさん
食べ、何度もトイレに行ったそうな・・・。
番頭利助によると、おしっこのスゴイ音がしたと記録に残っているそうな・・・。
宮崎あおいちゃんを想像したらいかんぜよ・・・(*^.^*)
で、この時ついてきていたのが、西郷隆盛。
★昔のかまど、台所の道具
窯にある真ん中の鍋の横にあるのが「銅壺」
★細川家の姫駕籠(複製)
駕籠の本体部分は、幅95.7cm、長さ136.5cm、高さ122.5cmあり
内部には、旧肥後藩主細川氏が参勤交代のときに使用した
御座船「波奈氏丸」が描かれています。
重さが100kgあり、6人で担いでいました。
豊前街道は熊本札の辻を起点として
「新一丁目御門~
二の丸御門~筑後・筑前~豊前小倉」に通じており
肥後藩・薩摩藩等が参勤交代のとき使用した街道で
豊後街道・薩摩街道・日向街道と並ぶ肥後の国における主要な「街道」でした。
★四方寄六地蔵
御馬下の角小屋の前(道路側)にある六地蔵は竿石が長く
15世紀後半から16世紀半頃の形態で戦国時代のものと思われます。
六地蔵とは
石仏の一種で、悩み・苦しみに救済の手を伸ばしてくれる菩薩として
六体の地蔵菩薩を祀る風習が行われました。
彫ってある地蔵尊像
半肉彫りで雲に乗る(一般的には蓮華に乗る)珍しい姿であり貴重なものです。
庚申塔は、塔身正面に線刻され、中央に鬼を踏みつけた青面金剛像
その左右下に二人の如童子が向い合って侍立しています。
御馬下の角小屋(みまげのかどごや)
熊本市北部町四方寄1274
096-245-2963
入館料200円
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始
本日は以上です。