「草枕」 とは
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。
情に棹させば流される。
意地を通せば窮屈だ。
兎角に人の世は住みにくい。
「草枕」 の あらすじ *☆*:;;;:*☆*:;;;:
主人公「余(よ)」は世俗を厭い非人情を生きる旅の絵描き。
ふらりと立ち寄った那古井の温泉宿で出戻り娘那美と出会う。
気まぐれな行動に戸惑いながらも「余」は彼女の才知と美貌に芸術的な感銘を受ける。
那美に「絵を描いて欲しい」と言われ
「今描くには少し足りない所がある」と答えた「余」であったが
駅のホームで別れた夫と偶然再会し
「憐れ」の表情を浮かべる那美を見て彼は、胸中に
一枚の絵を完成させたのであった。
*☆*:;;;:*☆*:;;;:
明治29年、熊本の第五高等学校の英語教師として赴任した夏目金之助(漱石)。
翌年の暮れも押し迫った頃、正月をゆっくり過ごそうと
同僚山川信次郎と熊本市街から最も近い温泉場として賑わっていた
小天(おあま)温泉へ旅をします。
この旅が、小説「草枕」のモデルになった、いわゆる「草枕の旅」というわけです。
(2-2)では、その舞台を辿ってみたいと思います。
≪ 「草枕」の旅~第1章・第2章~≫
★鎌研坂(かまとぎざか)
「山路を登りながら、こう考えた」。
おなじみの「草枕」の冒頭の一文。
その山路がこの鎌研坂と考えられています。
とはいうものの、この急坂考えごとをしながら登るにはちょっと骨が折れますぜ。(;^_^A
それを余裕たっぷり“名文句”をひねりながら登っていったとすれば
漱石なかなかの健脚家だったのでしょうか。。。(ノ゚ο゚)ノ
この鎌研坂を下部から登りきった上部に鎌研坂バス亭前の
「木瓜(ぼけ)咲くや 漱石拙(せつ)を守るべく」
「拙を守るとは、漱石がもっとも好んだ言葉であり
終生持ち続けた生き方の基本です。
世渡りの下手なことを自覚しながら
それをよしとして敢えて節を曲げない愚直な生き方をいう。
俗世に媚びて利を求めるのを卑しいとする生き方でもあります。
そこから県道を少し登ると峠の茶屋公園があります。
「春風や惟然(いぜん)が耳に馬の鈴」
この句にある「惟然」は、松尾芭蕉の弟子広瀬惟然(江戸前期俳人)のことです。
惟然はある日、風もないのに散る梅の花を見て感動
突然に悟って、妻子も家業も捨てて憎になったという変わり者で
芭蕉の死後、その供養のため、芭蕉の句を念仏のように唱えて
日本中を巡り歩いたと言われています。
草枕の旅の中で
漱石は、ここ峠の茶屋で馬子の源さんと出会います。
「じゃらん じゃらん」という馬の鈴と惟然の念仏とを取り合わせて
「馬の耳に念仏」という諺を連想させるおもしろさから
春ののどかな田舎の茶屋の情景を描いたものと考えられています。
ここで、名物の団子汁や草餅で一服するのもいい(o^-')b
しかし、先を急ぐので・・・
この素朴な飲食店の中を突っ切って上へ( ̄□ ̄;)!!。
すると・・・
★金峰山鳥越の峠の茶屋跡
「おい!」 と声を掛けたが返事がない・・・
軒下から奥をのぞくと煤けた障子が立てきってある。
向う側は見えない。 「草枕」より
★現在の茅葺屋根の峠の茶屋は資料館として復元
県道脇の標識から山あいに分け入り登って行き
ここから左の「石畳の道」へ入っていきます。
「家を出て 師走の雨に 合羽哉(かっぱかな)」
この小天温泉への旅は雨の中の旅であったのです。
この「石畳の道」は
漱石が歩いた当時の面影を唯一深く残しているところで
竹林や石畳に笹の葉が積もり、趣きのある道として最も人気があります。
薄暗い石畳の中にたたずめば、いつしか世俗を忘れ
向こうから漱石先生が歩いて来るような、、、
とはいうものの、山の中
この「石畳の道」、世俗を忘れられる雰囲気はあるが
50過ぎのおやじには・・・(;´▽`A``
野出茶屋跡は、現在みかん園となっています。
ここは野出公園になっており、ここからは眼下に海が見えます。
右手に有明海と雲仙。
左手に宇土半島を隔てて天草を遠く望み見ることができます。
古くから景勝地として知られ
四方の景色で疲れを癒し、渋茶で喉をうるおし
駄菓子で空腹を満たし元気を回復して目的地へ急いだのでしょう。。。
★南越展望所
「降りやんで 密柑(みかん)まだらに 雪の船」
山を越えて落ち着く先の、今宵の宿は那古井の温泉場です。
この間にも、「白壁の家」前田家本邸跡があり
有明海に浮かぶ雲仙と思われる中に一つの墓石を配した
漱石の自筆画「わが墓」は
前田家墓地からの眺めがモデルといわれています。
「僕は帰ったらだれかと日本流の旅行がしてみたい。
小天行きなど思いだす」 とは
漱石がロンドンから、一緒に小天に旅した(草枕の旅)
五高時代同僚・山川新次郎に宛てた手紙です。
そのころ英国留学中の漱石は心身ともに苦しい状況にあったといい
そんな中で、日本の思い出としてこのあと行きます前田家別邸での数日が蘇ったのでしょう。
小天はまさに、漱石にとっては桃源郷だったのです・・・。
≪「草枕」の旅~ 第三章~≫
小説「草枕」の主舞台、前田家別邸へ
熊本の名士前田案山子(かかし)が
来客をもてなすために趣を凝らして建てた別邸が舞台。
明治30年の大晦日、当時
五高教授であった漱石がこの別邸を訪れ、滞在した数日間のできごとをもとに
小説「草枕」を発表しています。
前田家別邸は
敷地の段差を活かした複雑な様相の屋敷で
小説ではこの別邸が“那古井の宿”、前田家が“志保田家”として登場。
そこの髭の隠居が案山子で
その次女卓(つな)が「那美さん」のモデルとなっています。
小天は“那古井” という架空の地名で表しているのです。
「宿へ着いたのは夜の八時頃・・・・。
なんだか回廊の様なところをしきりに引き廻されて、
仕舞に六畳程の小さな座敷へ入れられた」 (第三章の最初)
「手ぬぐいを下げて、湯壺に下る」と 漱石が書いた浴場。
「段々を、四つ下りると」とありますが、実際は七段。
『草枕』では、「御影で敷き詰めた」となっていますが
当時はモダンで珍しかったセメント加工が施されています。
湯壺は半地下に掘り込んで造られ、手前が男湯、奥が女湯となっていますが
湯口は男湯側にしかなく、湯は男湯に注いだあと女湯に流れていきます。
この仕組みが、「草枕」 の印象的な那美の入浴シーンを生みます。
(湯温が高い男湯へ入ろうとした卓(つな)と漱石の接近遭遇が
あの名場面を生んだのです・・・)
「広い風呂場を照すものは、小さな釣り洋灯のみである・・。
一段下り、二段を踏んで、黒いものが一歩を下へ移した。
なんとも知れぬものの一段動いた時、余は女と二人、
この風呂場の中に在る事を覚った。」
とある幻想的な場面は、この浴場の構造が演出した
漱石の実体験なのです。。。
★離れ部屋がある庭には・・・
「かんてらや 師走の宿に 寝つかれず」
「鏡ヶ池」と前田家第二別邸は
漱石が泊まった前田家別邸に隣接していたようですが
現在民間住宅内のため見学立ち入ることはできません。
「私が身を投げて浮いている所をーー苦しんでいる所じゃないんです
ーーやすやすと往生して浮いている所をーー綺麗な画に書いて下さい」
(草枕より)
「鏡ヶ池」をめぐる画工と那美の会話のこの部分を描いたのが
『草枕絵巻』の中の「水上のオフェリア」。
そして、その元になった絵が英国の名画「オフィーリア」 (ミレイ作) 。
映画「崖の上のポニョ」の原点ともなった絵です。
漱石は、英国で「オフィーリア」に出会い
小天の「鏡ヶ池」が甦り 「草枕」で融合させたのではないかと言われています。
※絵は2点とも草枕交流館に複製展示してあります。
ということで、今回の『「草枕」の舞台を歩く!』(2-2)終了です。
最後までおつき合いいただきありがとうございました。
つぶやき: 「草枕」は漱石の他の代表的作品に比べたらやはり
ちょっととっつきにくいなぁ~という印象でしたが、
でもその舞台を歩いてみると、また違ってきました。(*^.^*)
本日は以上です。