熊本を「森の都」と初めて呼んだのは夏目漱石であった!
明治29年(1896)4月
後の漱石・夏目金之助が池田停車場(上熊本駅)に降り立ったのが
彼が29歳の時。
今から115年前のことです。
松山で教鞭をとっていた漱石は
当時五高の教授になっていた親友菅虎雄の斡旋により
五高の英語教師として赴任して来たのです。
人力車に乗って駅から京町に登り、新坂から薬園町の菅虎雄宅へ向かう途中
眼下に広がる市街地を見て “森の都 ”と言ったそうです。
漱石は、明治33年7月
文部省の命を受けて英国留学のため
熊本を離れるまでの4年3ヶ月をここ熊本で暮らしました。
★旧JR上熊本駅舎と夏目漱石像
九州新幹線建設に伴い駅舎の取り壊しが計画されましたが
市民運動の末、熊本市電上熊本駅前の電停上屋として一部移築保存されています。
夏目漱石と言えば「坊ちゃん」の影響からでしょうが
四国松山のイメージが強く
熊本にゆかりが深かったことは案外知られていません。
しかし、松山の在任期間わずか1年より
ずーっと長かったのが熊本での生活であり
結婚したのも、子どもが産まれたのも
ロンドン留学のきっかけも実は熊本なのです。
漱石文学には、熊本を舞台とした「草枕」や「二百十日」等ありますが
それ以外にも「吾輩は猫である」や「三四郎」のの小説にも
熊本時代の風景や人物描写が随所に出てきます。
今回漱石の足跡を追って熊本の町や自然の一部を歩いてみることにしました。
後日(2-2)では「草枕」の舞台を取り上げます。
現在の熊本大学(旧五高)の黒髪キャンパス内にある
この赤煉瓦の建物は
旧制第五高等学校の本館として明治22年に完成し
昭和44年に国の重要文化財に指定されています。
五高で教鞭をとるかたわら、俳句にも親しみ多くの句を残しています。
漱石の全俳句(約2400句)のうち、大半(約1000句)が
熊本時代に作られ、それを正岡子規に送っています。
★現熊本大学内にある夏目漱石の銅像
漱石の教師としての授業は、「きびしいが面白かった」!
記念館内にある当時の教え子たちの談話資料によると・・・・、
「講義の面白かったこと、訳文の言葉が一字一句をもらさず
立派な日本文になっていたので、僕は英文がこれほど面白
いなら専攻を英文にすべきだと思った」 (東大名誉教授)
「同時に遠慮なく落第点をつけることでも有名であった」
また漱石は、文科三年生を対象に、早朝七時から課外授業をしていた。
鏡子夫人の「漱石の思いで」の中に
夏休みに英語を習いに来た学生をあまり叱るので
教場の様子を聞いたところ「いいや、学校じゃあまり叱りはしないさ。
しかしこうやって家でただで教えるというのはいいもんだよ」と答えたという一節がある。
授業は厳しかったが、お金を抜きにしてひたむきに教育に取り
組んだ漱石の様子が分かります。
黒板には何が・・・(/_;)/~~
漱石は引越し魔であった!
熊本に住んでいた4年3ヶ月の間に漱石はなんと
5回転居し6軒の家に住んでいます。
漱石にとって、この熊本の時代は生涯の中でも比較的裕福であったのでしょう。
月給も松山時代と比べると二十円アップして百円。
熊本で中根鏡子を花嫁として迎え、新婚時代を送ります。
見合いの席で鏡子が歯並びの悪さを隠そうともせず
平気で笑うところが気に入ったというのですから
漱石も変わったところがあったようです。
結婚式は裏長屋式の光琳寺の家(熊本での最初の家)で、実に簡略に行われました。
年をとった女中が仲人からお酌まで一人でこなす始末で
婆やと車夫が客になったりして総勢6名
費用はしめて七円五十銭也。
鏡子は三々九度の盃が一つ足りないのを気づきました。
のちに漱石は、鏡子が当時のエピソードを語るのを聞いて
「けしからん話だと思って聞いていたら、俺たちのことか・・・・。
どうりで喧嘩ばかりしていて
とかく夫婦仲が円満にいかないわけがわかった」と
笑ったそうです。
鏡子夫人は、物事にこだわらない大らかな女性だったらしく
だから大勢の弟子たちが出入りする所帯を、たいして苦にもせず切り盛りしたのでしょう。
漱石は新婚早々から同僚を下宿させたり、五高生を書生としておいたりしています。
当時大江(現在の新屋敷1丁目)にあった漱石第三の旧居は
現在、水前寺公園(水前寺成趣園隣)に移築現存しています。
この第三旧居から「草枕」の旅は始まりました。
熊本で2度目の正月を迎えるにあたり、前年の年始客の多さにこりた漱石は
小天温泉への逃避行を企てました。
明治30年の暮れ
五高の同僚の山川信次郎とこの第三旧居を出発したのです。
「おい」と峠の茶屋で声をかけ、雨の中、小天温泉までの
約14kmの道のりを歩き、この体験をもとに名作「草枕」は生まれたのです。
【夏目漱石内坪井旧居】記念館
漱石ゆかりの資料の展示等がされています。入館料:200円
4年3ヶ月の熊本滞在期間中、5番目に移り住んだ家で
最も長い1年8ヶ月を暮らしたのがこの内坪井旧居です。
この家に移った頃、鏡子夫人は妊娠していました。
漱石はひどいつわりに悩まされていた鏡子夫人を必死に看護しながら
明治32年(1899)5月31日熊本生活3年目に長女、筆子が誕生。
漱石はその喜びを
「安々と海鼠(なまこ)の如き子を生めり」と、
少し照れながら読んでいます。
鏡子夫人は、「私は字が下手だから
せめてこの子は少し上手にしてやりたいという夏目の意見に従いまして
『筆子』と命名いたしました」 と述べています。
現在、その筆子が産湯を使った井戸が庭に残っています。
漱石夫妻は熊本での生活で、この5番目の家が
「一番いい家」であったと語っています。
家の中には漱石先生が・・・・・・。
(この猫、カラクリ人形!)
敷地内には、漱石の最も古い教え子で、熱烈な漱石の崇拝者
「天災は忘れたころにやってくる」という有名な言葉を残し
物理学者及び随筆家として活躍した寺田寅彦が
「物置でもいいから是非とも書生においてほしい」と熱心に頼み込んだ
馬丁小屋があります。
しかし、さすがの寅彦も
馬丁小屋の中を見てあきらめたと言うゆかりの小屋です。
★後に増築された記念館内の資料室
峠のむこうにある浪漫
後日ボクも、草枕紀行の舞台を歩いてみることに!(^_^)v
@: 猫で有名になった漱石だが、実は大の犬好きであったのだ!
内坪井の家で大きな洋犬を飼っていた。
この犬は6番目の千反畑の家に引っ越す際にも連れて行っているのだった。
証拠写真(漱石の前には犬が・・・)
本日は以上です。