熊本市川尻(かわしり)は
数多くの史跡が存在する歴史と伝統の町!
日本で4ヶ所しか存在しないという藩政時代の御蔵が二棟残っている。
河港の面影が息づくこの街は、車ではなく歩いてまわったほうがいい
・・・そんな街だ。
川尻は中世から水運を利用して、熊本の外港として発展した。
今からおよそ400年前、加藤清正によって町づくりが進められ
政治経済の中心として発展した。
その後細川氏の政治になると
藩主御茶屋をはじめ奉行所等が置かれた。
河港界隈には回船問屋・旅籠・料亭などが軒を連ねた。
熊本の物流拠点として栄えたこの一帯は
川尻刃物や開懐世利六菓匠(かわせりろっかしょう)に代表される和菓子
熊本特有の酒「赤酒」を造る酒蔵など
今なお古くからの伝統文化を継承する古い街並みが残っている。
川尻は肥後藩の軍港で、年貢米集積・積出港であった。
ほとんどの年貢米は、水運を通じて、飽田・詫麻・益城・宇土の四郡十八手永から
二十万俵が川尻の御蔵に集められた。
その年貢米の荷揚げや船積のために設けられたのが、この船着場である。
潮の干満や水量の増減に影響を受けないように長さ百五十メートルにわたって
十三段(後に一段積み増す)の石段を設けており、当時は大勢の労働者で賑わっていた。
川尻には、ここと他に3つのえびすさんがある。
川尻公会堂は今でいう公民館のさきがけとなった施設。
★上田休(やすみ)と町奉行所跡
この辺りは、川尻奉行所があったところでもあるが
今でもこの町の救世主として多くの人に語り継がれている
上田休(やすみ)と町奉行所跡の看板が立っている。
船着場跡からほど近いところにある御蔵(おくら)
熊本・川尻・高瀬・八代・大津・久住・鶴崎の七ヶ所にあり
その一つがここ川尻に設けられ 「川尻の御蔵」 と呼ばれていた。
江戸時代の御蔵は現在日本には4ヶ所しか残っていない。
盛岡市の御蔵、鳥取県湯梨浜町藩蔵、宇土市の御蔵、
そしてここ川尻の御蔵だ。
熊本には宇土と川尻の二つの御蔵が残っていることになる。
貴重なものである。
収められた年貢米を貯蔵し
各地に振り分けて納めるための倉庫。
そこからまたほど近いところにあるのが、札座(ふだざ)跡
江戸時代の享保年間には大変な飢餓が続き、細川藩の財政は大変厳しいものであった。
藩は享保十七年(1732)に幕府の許可を得て、藩札(紙幣)を発行することとなり
藩札をする札座を藩内八ヶ所に置いた。
その一つが港町として栄えていた川尻のこの地に置かれた。
正面奥には3月開通した九州新幹線鉄道が・・・
この杉島と川尻のあいだには、上流から中之島渡し(大慈寺渡し)
杉島渡し、御船手渡しの3つの船渡しで結ばれていた。
参勤交代のときには
藩主の御座船である波奈之丸や、泰宝丸なども入港する熊本藩の海軍基地として
も全国に名をはせていた。
(豊後鶴崎と肥後川尻は熊本藩御船手の所在地としても名高い)。
また、近くに米蔵「御蔵」があったため、蔵物の監視の役目も果たしていた。
御船手には早船を含めて150艘近くの船があり、江湖(川の入り江)には
たくさんの軍船もみられた。
藩船の乗組員たちが外城町への買い物に利用していたのが
この御船手渡しであったが
明治以降次第に衰退していった。昭和36年(1961)廃止。
本日は以上です。 次回へつづく