漂泊の俳人、種田 山頭火
明治15年(1882)~昭和15年(1940)
“ 放浪の旅 ”の出発点となったのが、熊本市植木町の九州道植木IC近くにある
味取(みとり)観音堂 <曹洞宗 瑞泉寺>です。
世間から脱し
自由を愛し、酒を愛し、行脚の旅を続けながら俳句を作り続けた山頭火は
行乞(ぎょうこつ)の俳人として知られています。
明治15年(1882)山口県の造り酒屋に生まれましたが
11歳のとき母親が投身自殺
これが一生の心の傷となります。
大正5年(1916 35歳)
家が破産し妻子を連れて熊本に移り住み
下通りに文具店「雅楽多(がらくた)」を営むことに。
しかし自身の
苦悩から逃れることができず、家業は妻に任せ、酒と俳句に埋没する日々を送ります。
ある時、泥酔して進行中の路面電車の前に立ちはだって
電車をストップさせるという事件を起こします。
山頭火の身の危険を案じ熊本市内の曹洞宗 報恩寺まで連行され
翌年に寺の住職を導師として出家得度します。
そして、大正14年3月 43歳のとき
熊本市味取観音堂の堂守となったのです。
その脇は、神武神社への、さらに石段が・・・。
しかし、堂守も1年2ヵ月しか続かず
大正15年の春4月(1925 44歳)
『解くすべもない惑ひを背負うて』、その後も行乞流転の旅に出ます。
これが、種田 山頭火、漂泊の俳人の始まりだったのです。
昭和15年(1940 59歳)10月11日
山頭火は四国松山の一草庵でで波乱の生涯を閉じました。
お墓はふるさと 山口県防府市にありますが
奥さまが熊本に住んでおられた関係で
分骨されて熊本市横手町安国禅寺(北岡自然公園の北方)にもあります。
『 松はみな 枝垂れて 南無観世音 』 山頭火
山頭火の俳句は
自由律俳句(五七五の形式にとらわれない俳句)
平易で飾り気のないことばが、独特の雄大な雰囲気をかもしだし
しみじみと心にしみとおる句となり
没後70年以上たった今なお山頭火ブームは衰えることがないのです。
社務所に下げてある鐘
山頭火も撞いた鐘なんでしょうかねぇ。
『 松風に 明け暮れの 鐘撞いて 』 山頭火
山林独住の、しずかと言えば静かな
さびしいと思えば、寂しい生活であったのでしょう。
本日は以上です。