近代日本の夜明け
若き志士たちが激突した
「田原坂の戦い!」
明治十年(1877年)二月十四日、明治政府を辞任し
郷里鹿児島に私学校を創設していた西郷隆盛は
時の政府に反旗を掲げ、一万三千の薩摩兵を率いて北上を開始した。
北上した薩摩軍の一部は熊本城を囲み
主力はさらに北上して熊本鎮台救援に南下する官軍と高瀬(玉名市)で交戦し
利あらず退いて吉次峠、田原坂、山鹿の戦いで南下を阻止した。
乃木少佐の軍旗が奪われた!
「向坂(むこうざか)の戦い」
官軍乃木少佐は
小倉にいた熊本鎮台第十四連隊を率いて、熊本城を救援すべく出発。
二月二十二日午後六時、植木に到着、町の南に守備陣を構えた。
同じ日、熊本城は薩摩軍の総攻撃を受け戦争が始まった。
熊本城包囲軍の一部、村田小隊は北上を開始、午後七時、向坂の戦いが始まった。
乃木少佐率いる官軍はたちまち苦戦に陥り
植木千本桜への退却を余儀なくされた。
千本桜に集結した乃木少佐は
連隊旗手河原林少尉の姿を探したが、少尉は既に向坂で戦死し
薩摩兵に連隊旗を奪われていた。
「連隊の魂である軍旗を奪われた以上、天皇に申し訳なく・・・・」
乃木少佐はこの後、幾度か自決を試みようとしたが
回りの兵士に止められ思い止まった。
この軍旗事件は
明治天皇に殉死した乃木大将の遺書によって国民の前に明らかになった。
現在、千本桜には乃木大将記念碑が建っている。
両軍の緒戦の地。
乃木少佐の前衛隊と薩軍の村田及び伊東隊が激突。
田原坂をめぐる激戦の戦端が開かれた。
その一角に立てられている
3月4日から17昼夜の攻防、空中かちあい弾も出た
~田原坂の戦い~
三月二十日
夜中から続いた大雨のあと
深い霧の中を午前五時
官軍は音を立てずに薩摩陣地に近づいた。
通常、官軍は夜明けの後、進軍の合図とともに攻撃を開始していたが
この日薩軍守備兵が安心しきって熟睡していた
午前六時
霧の中から号弾三発の合図とともに、突撃開始した。
陣地は混乱状態となり、逃げ出す兵が続出
眠りの覚めぬ兵や逃げ遅れた兵は銃剣でことごとく刺し殺された。
攻撃開始からわずか四時間で柿木台場を陥落した官軍は
その足で田原坂本道方面で
官軍の総攻撃を防いでいた薩軍本隊の背後から攻撃を仕掛け
薩軍本隊も敗走
こうして田原坂本道も陥ちることとなった。
田原坂周辺の戦いで、木留・七本付近で戦死した
薩軍兵士311名が埋葬されている薩軍墓地。
地域的にみて官軍が田原坂の攻略に成功して
薩軍の本営まで押し迫った時期の戦死者とみられる。
田原坂は
官軍薩摩両方にとって多くの戦死者を出した西南の役最大の激戦地である。
田原坂での官軍の戦死者は、一日100名にものぼり
官軍西南の役戦死者の25%が田原坂の地で戦死している。
植木木留の戦いを含めると植木町での戦死者は37%にのぼり
実に、西南戦争の全戦死者の五人に二人の英霊が
この町に眠っていることになる。
七本官軍墓地は
明治十年西南戦争で戦死した官軍の軍人・軍夫・警察官を埋葬した墓地で
県内に二十一ヶ所つくられている。
墓地は周囲を石垣で囲み、玉垣がめぐらしてある。
この墓地には三百余名(軍人276名、軍夫10名、警察官14名)が埋葬されていて
その大半は田原坂の戦いの後、植木周辺や吉次・木留・辺田野・平野・滴水などで戦死した
東京・大阪・名古屋・広島・熊本鎮台及び近衛歩兵の所属である。
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その他戦跡スポットが
この植木エリア・玉東エリアには数多く存在します。
今回、この西南の役 と 『田原坂』 シリーズで取り上げきれなかった史跡は
主に以下があります。
<植木エリア>
★山県有朋(やまがたありとも)歌碑
★辺田野熊野座神社神殿の弾痕
★田原熊野座神社神殿の弾痕
★薩軍本営跡 熊本隊本営跡 薩軍病院跡
★荻迫柿木台場 薩軍美少年の墓
★山頭遺跡
★薩軍弾薬庫跡
<玉東エリア>
★宇蘇浦官軍墓地
★有栖川宮督戦の地
★上木の葉官軍本営跡
★正念寺 徳成寺
★二股瓜生田官軍砲台跡
★横平山戦跡
★半高山戦跡(公園)吉次峠戦跡(公園)
★篠原国幹戦没の地
★薩軍三勇士の墓
★乃木希典奮戦の地
つづく!
本日は以上です。