純と夢。 | 南の島から来た男アゲイン

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生きてるって、素晴らしい。

さきほどネットニュースで、テレビのプロデューサーさんがインタビューに答える形で、今時は恋愛ドラマが流行らないという内容の記事を読んだんだけど、いやこれって俺がここ数年なんとなく感じてたモヤモヤの正体だったような気がしてるのよ。この記事では東日本大震災以降の空気感がどうしても死を意識してしまう、生きるか死ぬかっていう時に恋愛っていうのはどこか他人事のように感じてしまうのではないか?みたいなことを仰っていたけど、それもそうなのかもしれないけど俺が感じてたことはそうではなくて、なんとなく冷めた感じだったりどこか諦めてしまった感みたいな、他人事といえなくもないけど、そういうものをずっと感じていたんだよね。なんていうのかな、大人になったらそんな感情は持っていてはいけませんみたいな、生きていくのに必要ありません、無駄ですみたいなね。もっと言えば恋愛というよりも純愛って言った方が的確かもしれないけど、要は理屈ではなく気づいたら好きだったとか、好きで好きで仕方ないとか、そういう気持ちね。そういうのって所謂ミニマリストと言われるような人たちの生き方には無駄なことなんだよね、きっと。損得だったり合理性だけを考えて生きていくとしたら確かに無駄なことだし、そんなことにエネルギー使うくらいなら生産性上げた方が得だろってことになるのかな、まぁこれは極端な場合を俺が勝手に想像しただけなんだけど、でも一部そういうような空気があるように俺はずっと感じていたんだよね。どうなんだろ?まったくの見当違いかな?いつものように俺個人の勝手な想像で話進めるけど、こういう純粋な気持ちって本当に生きていくのに無駄なのかな?俺はそう思ってないからちょっとした違和感を感じるんだと思うんだよね。これって夢と置き換えるとわかりやすいんだけど、多くの子どもたちってみんな夢があるじゃん、あんなふうになりたいとかこんなことしたいとか、損得抜きに自分の将来に夢を持ってるでしょ。でも成長するに連れて現実との折り合いがつかなくなってしまい、途中でその夢を諦めてしまったり捨ててしまい、そうやって折り合いつけながら大人になっていくもんなんだって自分に言い聞かせて、利害や合理性を考えて現実的に生きていく人がほとんどだと思うのよ。だからいい年して夢を語れば笑われるし、追いかければ叩かれることもあるだろうし、でもそうしないと諦めて生きてきた自分を肯定できないからそれはそれで致し方ない部分もあるのはわかるのよ。俺だってまさかいつまでも子どもの頃の夢追ってる訳ではないけど、そういう気持ちだけは持っていたいなといつでも思ってるのね。夢が大切なのではなくて、そういう気持ちが大切だと思ってるから、その感覚は死ぬまでなくしたくないと思ってるくらい大切なものなんだよね。純な気持ちって正にそういうことと思ってるのね、利害とかっていう外部環境や合理性っていう理屈ではなく、ただただ俺はこうなんだっていう気持ちこそが本音じゃない。そういう話を前はよくしたもんだけど、今ってこういう話すると引かれることが多いというか、プロデューサーさんの言葉を借りれば正に他人事なんだよな。へーって、そうなんだって、お前はどうなんだ?って聞いても、どうなんですかね?みたいな、いやお前のことをお前以外の誰に聞けばいいんだ?ってよく思うことがあるのよ。他人事かぁ、そういうことだったのかと、今回の記事を読んでなんだかすっきりしたよ。そう、どこか他人事なんだよな。夢とか純とかって、繰り返しになるけどそのものではなくてそういう気持ちってね、俺は絶対必要だと思うけどね。だいたい夢を持ったり語ったり、理屈では説明できないような恋愛感情を持てるっていうのは人間ならではの特権じゃない。もちろんその多くは実現しなかったり成就しなかったりして悲しい気持ちになることもあるけど、その経験が他人の痛みを理解するのに役立つ訳で、他人の痛みがわかる人って優しいじゃん。有難いじゃん。俺はそういう生き方したいなといつでも思ってるんだよね。

恋愛ドラマが流行るような世の中になってほしいもんです。