二〇三五年五月、地球外知的生命体の干渉による地殻変動の末、地球は滅んだ。後の人類に伝わる「神の裁き」である。
神の裁きを予見していた「一部の人類」は、二十世紀末からプラズマフィールドを応用した恒星間長距離航行技術の開発に着手。天地が逆転する中、世界各地で完成直前にあったいくつかの艦を稼働させる。生き延びた百万の人を乗せ、四千メートル級の超大型艦「ヴァルハラ」を旗艦とする艦隊は、あるとも知れぬ新天地を目指し外宇宙へと旅立った。
選ばれた二十五万の人は宇宙人類として時を刻み、残りはハイパースリープで時を止めた。
それから、二万年。
当初の痕跡は現母艦の船長室に飾られた布の切れ端一片になってしまったものの、通称「ヴァルハラ艦隊」はいまだ旅を続けている。母なる星を失った人類は、途中で立ち寄った地球型惑星への入植を繰り返し、今では銀河連邦を成すまでに至った。人類はこの銀河で最も繁栄する種だ。とは言え、それぞれの外見は惑星ごとにかなり異なるため、「人類種の姿は様々」と子供の頃から教育されていなければ、お互いに同根異種だとは思わないだろう。もし現在の地球人類が彼らを見たなら、果たして「子孫」だと信じるのか。
人類が短期間で劇的な環境適応を遂げたのは、ある「微生物」を使った遺伝子操作による。オリジナルの地球型人類は、現ヴァルハラ艦隊の特別管理区で今も眠り続ける十九人を残すばかり。余談になるが、異星種同士、あるいは、地球型と各惑星型との自然生殖は可能だが、同種間でもラボ生殖を行うのが一般的である。
遠い星々に暮らす超人類達はさておき。最初の入植地、地球に一番近い辺境の惑星「アスガルド・ワン」に舞台を移そう。
アスガルド・ワンは、オリジナルに最も似た種が暮らす、太古の地球に似た小さな星。第一世代の入植者数は五千人で、現在の地上人口は不明。この星も銀河連邦の一員だが、そのことを知るのはアスガルド・ワンの衛星基地に住む限られた人達のみ。地上で暮らす人々の文明水準は、銀河連邦に属する諸惑星と比べ、お世辞にも高度とは言い難い。
これは、そんな辺境の星の物語。
ーーーーー
冒険者の集う美味い料理の店『ビラポト』
ビラポトは、リューロッカ皇国の皇都マタハで一番人気の酒場。昼夜を問わず多くの人で賑わう。ルイベルド皇帝から、皇国一、とお墨付きを貰った「らしい」酒と料理、そして何よりも二十人を超える「看板娘達」のおかげもあって、皇国御抱えの冒険者達がこの店を集合場所にしているからだ。
店の一番奥にある十人掛けの特等席で、麦を発酵させた発泡性の軽い酒を飲みながら、ダガーの手入れに勤しむ青年も冒険者である。
「ポルカ!まだ生きてたんだ!
なになに?今日も待ちぼうけ?あんたの仲間ってホント時間にルーズよねー。」
「うるせぇな。今日も!俺が勝手に早く来ただけだ。まだ時間になっちゃいねぇよ。」
通り掛かった看板娘の一人に、ポルカ、と呼ばれたこの青年、歳は二十歳前後だろうか。ほぼ下着、と言えるくらい露出の高い衣装に身を包んだ看板娘には目もくれず、よく鍛えられた腕でせっせと青く光るダガーを磨いている。
「ねぇ…。今日も上に泊まる?」
頬を染めた看板娘が、金属製のお盆で顔を隠しながらポルカの耳元で囁く。
ビラポトの二階は看板娘達の居室。これは皇都の誰もが知ること。そして看板娘から招かれた冒険者だけが、二階に上がることを許される。これも周知のこと。
ポルカは誰もが羨む、その一人なのだ。
「あー、うーん…、今日はやめとく。
この前ロロアの部屋に泊まってから、アソコが痒いんだわ。わりぃ。」
「!!」
一瞥もくれないポルカの言葉を聞くなり、顔を烈火のごとく燃やした看板娘のナンバーツー、ロロアは、たまたま通り掛かった別の看板娘から木製のお盆を奪い取ると、そのままの勢いで無粋な青年に投げつけた。
「もう二度と上がってくんな!腐れち◯ぽ!」
格下冒険者達の残飯シャワーを浴びるポルカ。不可抗力とは言え、特等席の客へ残飯を浴びせてしまった件の看板娘は、何度も謝りながら目立つ残飯だけを一通り払うと、最後は泣きそうな笑顔でカウンターの奥へと逃げていった。
「おい!せめて拭くもの持ってこいよ!普通の接客もちゃんと教育しとけっつんだ。
…ったく、せっかく磨いたのにやり直しじゃねぇか。」
辺りに残った残飯を気にするでもなく、ブツクサと独り文句を言いながらダガーの手入れを再開したポルカに、人影が落ちる。
「また店員さんを泣かせたのー?」
「あ?泣かせてねぇよ。あっちが勝手に怒って、そしたら関係ねぇ奴が泣いたんだ。泣きたいのは、こっち!」
「ポルカのことだ。どうせまた、無礼なことを言ったのだろう。」
「…知るか。俺はっ!お上品なっ!お前らっ!ネームドとはっ!違うんだよっ!」
区切った語尾に合わせて、顔を上げずに五度振り下ろしたポルカの腕から、残飯が五発、勢いよく「お前ら」に放たれる。今日の残飯は炭水化物よりタンパク質が多い。
「ブルクト…」
「おい!アナ!マジックはずりぃぞ!」
「お上品なもので、ついー。おほほほほほ。」
「でけぇ身体してなにが、おほほだよ。アナ、ついでだ。マジックで洗ってくれ。」
「やだよー。マジックソースがもったいないー。」
「私からも頼む。残飯と一緒はさすがに憚られる。」
「リンネルがそう言うなら…。今回だけは特別だからねー。…クランザ。」
「ありがてぇ。はぁー、生き返る!」
浄化マジック、クランザですっかり清潔になったポルカと特等席。念入りに席の清潔さを確認してから、二人の女性がポルカの向かいに、並んで腰掛ける。この二人がポルカの言う「お前ら」である。
二人のうち、ポルカの正面に行儀よく座る長身の女性は、アナストーシェア・ギダ・コッテ・イラゥーズ。親しい者は「アナ」の愛称で呼ぶ。ゆったりとした深緑のフード付きローブで顔の九割を隠していても、杖を握る手指を見れば、彼女が色白で華奢なのは一目瞭然。フードから垂れる左右対象の三つ編みから、相当に長い赤毛であることが分かる。口元しか見えないはずなのに、なぜか表情は豊かだ。
彼女は、代々皇帝一家へのマジック指南役を務める、マジックランナーの名門イラゥーズ家の三女で、その実力は若干二十五歳ながら次期家長候補の筆頭に挙がるほど。マジックを五種類扱えれば、プロフェッショナル、と言われるマジックランナー界にあって、すでに彼女は数えきれないほどのマジックを扱う、稀代の大魔法使い。余談だが、最も多くのマジックを扱う者だけが、イラゥーズ家の長に成れるのだと言う。
アナの左隣に脚組みして仏頂面で座るもう一人の女性は、リンネル・ウェスース・アブラドゥ。来月で十八歳になる。アナとは対照的に、褐色の肌とデコルテを惜しげもなく晒す。もっとも彼女の場合、鍛え上げられた肉体の、と但書きが入る。しかしながら真っ赤なロングドレスは、少しうねる黒髪が揺れる、前下がりのショートボブとよく似合う。またアクセサリーと呼んで良いのかは別として、ドレスと同じ色の鞘に納められた、柄の装飾が豪華な片刃のロングソードを右手に携行する。小柄と思われがちなリンネルだが、行動を共にするポルカとアナが群を抜く長身のためであり、リンネルの身長は皇国の女子平均よりかなり高い。
リンネルもアナと同じく良家の出で、一族は建国戦争時から皇帝の近衛兵長を務める。長兄が家督を継ぐ慣例により、冒険者達から「神速の刃」と恐れられる彼女が、アブラドゥ家を継ぐことはない。
ポルカが彼女達を「ネームド」と呼ぶのは、一族名、または、家名、つまりはファミリーネームの有無に由来している。当のポルカは「ポルカ」であり、個人の識別にはファミリーネームの代わりに出身を用いる。ポルカの公的な名前は、ポルカ・エッフェ・マタハ・ヌ・リューロッカ。意味は、リューロッカ皇国マタハ都市エッフェ地区出身のポルカ、となる。なお皇国住民の九割がファミリーネームを持ってない。ネームドと呼ばれるファミリーネーム持ちは、それだけで上級国民なのだ。
「おい、もう一杯くれ…、なんだぁ?その格好は?」
よく見かける元気の良い看板娘がアナとリンネルへ「いつもの」を持ってきた。おかわりを頼むついでにやっと顔を上げたポルカが、秀麗なリンネルに野暮ったい眉を寄せる。
余談だが、アナは冷たいハーブティーと芋を薄くスライスして揚げた甘いお菓子、リンネルは発泡ぶどう酒とカエルの脚フライ大盛り、これらが二人の「いつもの」である。
「心外だな。今日は面接だろう?
伯父様に失礼があってはならないから、母上のドレスを借りてきた。やはりサイズがおかしいか?」
「サイズの問題じゃねぇよ。なんでお前が普通の格好してんだって話。寝るときもフル装備のやつがなにを色気づいてんだか。
おい、見ろ!ちん毛すら反応してねぇぞ?けけけ。」
小汚いズボンの中を覗きながら下卑な笑いをするポルカ。それを見たリンネルは、静かに立ち上がると携行するロングソードを左手へと持ち替え、腰を落とした。と同時に、ドレスの腰辺りがバリバリと裂け、鍛え抜かれた褐色のウェストラインが露わになる。本日の彼女の下着は…、いや皆まで言うまい。
「…アナ、私の肉体をマジックで強化してくれ。今日こそは、この無礼者を斬らせてもらう!」
「無駄、無駄。ポルカの性格は死んでも治らないよー。
それに私達じゃ、二人掛かりでもポルカに敵わないしー。」
「そうだ、そうだ!やめとけ。俺の強さはお前らが一番よく分かってんだろ?斬るどころか、俺に触れられやしねぇぞ?
その前に、そのガキみたいな下着はしまっとけ。」
ポルカに言われて視線の端を下げたリンネルに、裂けたドレスの間から「うーさたん」が微笑む。
「…こいつ…!
お気に入りのうーさたんをっ…!やはり許せん!」
踏みしめた足の位置はそのままに、腰だけを素早く回転したリンネルが、愛刀を横一閃。これこそが「神速の刃」と恐れられる必殺剣、「イーアイ」である。抜刀と剣速に優れた古流剣術をベースに、周囲の空気圧を少しだけ操作するリンネルのマジック「グラート」で剣速を更に強化している。
しかし風切る必殺の刃は、今の今までポルカが座っていた空間を虚しく走るだけだった。
「先に手を出したのはお前だからな?恨むなよ?」
リンネルの首筋に、背後から二本のダガーが交差して煌く。あの一瞬に、謎多きポルカの「マジック」を使われたことは明白だった。
人は皆、マジックの属性を表す「エレメント」を持って産まれ、素質を表す「マジックソース」の大きさが決まる十歳頃になると、マジックが使えるようになる。赤ん坊や子供にマジックを使われても迷惑なだけだから、これも遺伝子の為せる技なのか、よくできている。しかし約六割はマジックソースの関係で、大気中の水分を指先にちょっぴり集めるなど、エレメントに応じた初歩未満のマジックがやっと使える程度。実用的な初歩マジックを使えるのは、全体の約三割。当然ながら使えるのは一種類のマジックだけで、長時間は使えない。
なおマジックランナーとは、一般的にマジックを扱う職業の代名詞となっているが、本来は「生来のマジックソースが非常に大きい人達」のことを意味していた。彼らは初歩、下級、中級、上級だけでなく、より効果や範囲の大きい最上級マジックまで扱えるため、それらを活用できる職業に就くことが多い。またマジックランナーの中には複数、あるいは三種以上のエレメントを持つ者が一定数おり、アナは三種以上持つ一人である。複数は一流、三種以上は超一流と区別される。超一流のマジックソースは「計り知れない」と言われ、特に秀でた者はオリジナルマジックまで開発する。
ポルカはある特殊なエレメントを持つ「忌子」として生まれた。産婆から報告を受けた皇国政府の保安部は、生後間もないポルカを公営の施設に送る。公営の、といえば聞こえは良いが、実態は危険なマジックを無効化するための施設。
まだ自発できないマジックを誘導因子で無理やり発動させ、マジックソースがゼロになるまで魔具に封じてしまうのだ。大きさが決まる前に一度でもマジックソースがゼロになると、その者のマジックソースは永遠に失われてしまう。人口の約三パーセントは「マジックソースゼロ」と言われているが、生まれながらの「ゼロ」はごく稀で、ほとんどがポルカと同じ理由、同じ方法でマジックソースを失った人達だ。例えエレメントを持っていても、マジックソースがなければマジックは使えない。
赤子のポルカもこの施設でマジックを封じられるはずだった。ポルカの処置が予定されていた前日に、反皇帝派のレジスタンスが街中で蜂起。皇都中の公営施設と皇居を襲撃した。暴動自体はすぐに鎮圧され、被害は施設が一つ破壊されるに止まる。この時破壊されたのが例の「無効化施設」である。職員と処置済みの子は全て殺害されていたが、ポルカを含む数人の子が離散したレジスタンスと共に姿を消した。
十年後、消えた子供達が皇都の門前に現れる。子供達は異国の地で再起を謀っていたレジスタンスから逃げてきたと言う。皇国はすぐさま軍を派遣。しかし子供達から聞いた拠点は、すでに何者かの攻撃により壊滅した後だった。
かくして忌子であったポルカと子供達は、「危険なマジック」を失わずに今に至る。忌子達が危険視されるのはマジックであり、マジックソースが一般人レベルならば無効化されたも同然なため、何ら危険はないとされる。ポルカについては、低級マジックランナーに近いマジックソースを持つ、とアナは睨んでいる。しかしながら、アナですらポルカのマジックは発動を認識できたことがなく、マジックの効果もマジックソースも謎に包まれたままだ。本人曰く、あるとは限らないマジック、らしい。
「いてっ!」
「はい、二人ともおしまーい!
クリーチャーしか殺せないくせに、強がんないのー。好きな子をいじめるとか…、ポルカ、お前は子供かっ!」
「いてっ!なんだよ!べっ、別に好きじゃねぇし!」
杖で二度も頭を叩かれたからか、それとも、痛いところを突かれたからか、不貞腐れるポルカ。表情に出る青さとは裏腹に、ベルトの背当てに淀みなくダガーをしまう所作は手練れである。
「バレてるぞー。」
にやけるアナには一瞥もくれず、とりあえず下着を隠せ、と首に巻いていたストールをリンネルに突き出す。
「あ…、ありがとう。」
呼吸するかの如く滑らかに刀を納めたリンネルは、ぎこちなく、しかし、たおやかにストールを受け取る。
リンネルがこのチームに加わって、そろそろ一年になる。アナとポルカは三年前から一緒だ。ギルドが高額報酬を餌に募った当時未踏だったダンジョンの大規模調査隊に、アナとポルカは別々のチームから参加した。ところがダンジョンの最深部で想定外の強力クリーチャーが出現し、調査隊は壊滅。あの日、ダンジョンから生還できたのはアナとポルカの二人だけだった。これには三年経った今でも陰謀説が囁かれており、守銭奴化した上位チームの一掃が真の目的だった、とか。陰謀かどうかは別として、この事故を境に冒険者のカーストが入れ替わり、実力主義になったのは確かである。
ともあれ、ポルカと長い付き合いの身としては、出会った瞬間からお互い好意を抱いているはずなのに、全く進展しない奥手な二人を見るのが、たまらなく楽しいアナなのであった。
「それで?今回はどんな人なのー?」
「おやっさんの紹介だ。なんでも俺らと同世代の男らしい。」
「伯父様のことはギルド長と呼べ。」
「なんだよ!また斬るつもりか?次は下着が破れるぞ?」
「こいつ!まだ言うか!」
「…デタクータ。
二人ともー?いい加減にしないと、このまま放置するよー?」
懲りずにまた喧嘩を始めた二人が、ガタン、と盛大な音を鳴らして、椅子から転げ落ちる。マジックで「得物」を重くされてしまったようだ。本日二度目の登場となるリンネルお気に入りの「うーさたん」は、いつだって笑顔。
デタクータはアナのオリジナルマジックで、指定範囲の鉱石と金属を重くすることができる。皇国の各関所において、貴金属の不正な流入出を防ぐためにオートマータ使用されている。なおデタクータの採用で、アナは一生豪遊しても使いきれない報酬を手にしたのだが、お金は皇国の発展に使うべき、と全て返還し、市場にあるパン屋の二階で慎ましく暮らす。
「わかった!やめる!やめるから!」
「すまなかった…。」
「分かれば、よろしいー。」
コツコツと杖で床を二度鳴らし、すまし顔でデタクータを解除したアナに、もの言いたげな顔を向けながらも、ポルカは黙ってリンネルの隣りへ腰を下ろす。仲間二人に挟まれる格好となったリンネルは、腰に巻いストールを一層固く結んだ。
「で?名前はー?」
「聞いてねぇ。どうせ今回も、この席まで来ないだろ。」
「今回もダメなら五連続?だっけー?」
「七連続だっての!」
ポルカのチームは万年メンバー募集中。選考基準は単純明快だ。ビラポトの一番奥にあるこの特等席に、五体満足で辿り着くこと。ポルカが雇った殺し屋三名の妨害を潜り抜けて…。自薦他薦を問わない。これまでに二十人近い冒険者がこのシンプルな課題に挑み、達成できた者は三人だけ。その三人も初陣で帰らぬ人となった。
そこまでしてメンバーを募集する理由は、最高難度のAに認定される人類未踏破のダンジョンにある。彼らはこのダンジョン、通称「深遠なる記憶」の踏破を目指している。多くのダンジョンをたった三人で踏破する彼らをもってしても、ここだけは何度挑んでも中盤までが限界だった。この未踏の地に挑み続けるのは、冒険者としての好奇心や名声だけでなく、伝承に依るところが大きい。人類未踏破にも関わらず、深遠なる記憶の最深部には、この世界を変える「力」があり、その力を護る化物が五十体棲む、と太古の昔から信じられている。未踏破なのだから、根も葉もない噂だと言われればその通り。もしかしたら、子供達が危険なダンジョンへ近づかないように、と太古の親心が創った空想物語がこの伝承の発端かも知れない。しかし異常なまでに強く、ダンジョンから一切出てこようとしないクリーチャー達は伝承を信じるに足る。これは隙あらば地上に這い出てくる他ダンジョンの雑多なクリーチャー達とは、明らかに異なる性質だ。
世界を変えるほどの力を手に入れてどうするのか。皇国に不満があるわけではないし、世界征服を目論んでいるわけでもない。大そうな力とやらで、危険なクリーチャー達を人の住む地域から遠ざけることができるなら、願ってもないこと。
「あのぅ?ポルカさん?ですか?」
その気の抜けた声に、瞬速の反応を示したのはリンネルだった。座ったまま左足を引き椅子を弾くと、同時に腰を素早く捻転、頭の高さを変える事なく声のした背後を斬り上げた。
「あぶなっ!」
必殺の刃が喉元でピタリと止まる。じんわりと染み出した血が切っ先と喉の間に浮かび、やがて一雫溢れた。
「…見えていたのになぜ避けない?」
「殺気がなかったし、お姉さんなら止められると思ったから。」
「…そうか。いきなり斬りかかってすまなかった。」
「いえ、こちらこそ後ろからすみませんでした。」
座る動作より自然に納刀したリンネルに代わり、今度はポルカがマジマジと見やる。
「てめぇは誰だ?」
「ああ、そうですよね。ギルド長からの紹介で来ました、ハルです。
あの、今日は遅くなってすみません。途中で変な奴らに邪魔されまして…。」
ハルと名乗ったこの人物はかなり強い。細身ながら無駄のない筋肉は、「実戦」で鍛えた証拠。ズボン越しに分かるほど隆起したふくらはぎ。身体中に刻まれた無数の傷痕。どれほどの修練と修羅場をこなせばこうなるのか。しかしながら、飲み物を運んできた店員をさりげなく誘導した仕草は決して粗暴ではなく、どこか洗練されたものを感じる。一連のやり取りの最中に、運ばれてきた飲み物をポルカ宛と判断した観察眼も素晴らしい。師はよほど優れた人物だったのだろう。
もちろん五体満足である。生傷は一つもない。いや、先ほどリンネルがつけたものを含めれば一つだけ。少し背は低いか、と思ってすぐ間違いに気づいた。顔も髪も、そして声も随分と若い。おそらくまだ「少年」と呼ばれる歳だ。
「邪魔されたのは、嘘じゃないです!本当です!
えぇと、確かどこかを斬られたはず…」
ポルカの品定めを疑念と勘違いしたのか、慌てた様子で身体に生傷を探す。顔の傷痕もやはり多い。
「疑っちゃいねぇよ。あいつらを雇ったのは俺だ。お前、クラスとジョブは?」
「え?そうなんですか?
あ!どうしよう!も、もしかして、お知り合いでしたか?」
「ふはは!面白ぇ奴だな。
知り合いじゃねぇし、相手は殺し屋だ。気にすんな。それよりジョブだ。クラスはこの際どうでもいい。」
「ジョブ?あ、そうか。えーと、あった、これだ…。
ナックル?です!すみません。まだ慣れてなくて。」
小汚い頭陀袋から取り出した冒険者登録証を手に、たどたどしく答える。
「は?ナックルだと?」
「ねーねー。ハルはいつギルドに登録したのー?」
それまで静観していたアナが堪らず口を挟んだ。
「三週間前です。」
「はぁ?」
「三週間…。」
「三週間かー。そりゃあ、ナックルだねー。」
ジョブとは、そのものずばり冒険者としての「職業」であり、言うなれば得意な戦闘スタイルのこと。大予言者エルミーアが残した「オラクルの匣」に手をかざすことで示される。マジックに優れるなら「マジックランナー」や「マジックブレンダー」、剣術の才があれば「ソードファイター」や「フェンサー」など、ジョブは十数種類の中から個々の潜在能力に基づき選ばれる。その中でも「ナックル」は例外的な位置づけにあり、初登録から四週間はジョブがナックルに固定される。ジョブがナックルであることは、初心者と同意。ナックルとはすなわち、「素手で殴る者」のこと。
なおポルカのジョブは、弓矢などでの遠距離攻撃を得意とする「シューター」になっているのだが、戦闘では使い慣れたダガーを二刀流に用い、超接近戦を得意とする。戦闘中に投げるとしたら、石ころや砂くらいだろう。とても遠距離攻撃とは言い難い。
「マジか、初心者じゃねぇか!
それじゃあよ、お前の得物は?」
「えもの…?ですか?」
「あー、それも知らねぇのか。
剣とか、槍とか。なんつうか、武器だよ。」
「ああ!それなら、ありません!」
「はぁ?」
「強いて言うなら、これです!」
ハルが笑顔で袋から取り出したのは、ごく普通の籠手と脛当て。リンネルが着るフルアーマーのそれらに比べるとかなり粗末な代物だ。
「いや、お前!そりゃ防具だろ!」
「あ、はい。武器の使い方を習っていないので。」
「はぁ?
つうかよ、アビサル鋼でもねえし、二束三文の超安物だぞ、それ。そもそも左右違う!」
「え!?マジですか!?
古物商の店主はアビサルを使った最高級品だって…。」
「アビサルが普通に流通してるわけねぇだろ!」
アビサル鋼とは、マジックで鍛えた仄かに青い特殊な高硬度金属で、対クリーチャー装備の基材に使用される。錬成に高度なマジックを用いるため、リューロッカ皇国においては、冒険者ギルドと公営精錬所の二ヶ所だけが製造からリサイクルまでを一括管理する。つまり一般市場でアビサル鋼を謳う製品は、ほぼ偽物と考えて間違いない。
「まぁ、気にすんな。明日、おやっさんに言って、マトモなやつを見繕ってもらえば良いさ!」
「ありがとうございます!…え?それって…?」
「ちょっと待って!合格なのー?」
「試験はクリアしたんだ。当たり前だろ?」
「…私も異論はない。」
「二人がそう言うなら…、んー、まー、あたしは別に良いけどさー。」
「ありがとうございます!
皆さん、よろしくお願いします!」
「堅っ苦しい挨拶は良いから!
おーい!ロロア!やっぱ今日も泊まるわ!」
遠くから聞こえる罵声を気にした様子もなく、結露する二杯目のグラスを一気に飲み干したポルカは、背中越しに軽く手を振り、店の奥へと軽快に消えていった。
「相変わらず自分勝手なやつだな…。
ハル、おめでとう。私はリンネルだ。よろしく頼む。
では、私も失礼する!」
「え?リンネルさん!?
いえ、あ、はい。ありがとうございます。
お疲れ様でし……た。」
腰を隠していた藍色のストールを乱雑に放り投げたリンネルは、猛獣注意と掲示されてもおかしくない顔で特等席を後にする。
「ちょっと!リンネル!うーさたんのまま帰る気ー!?
ブルクト!すれ違った人を殺しちゃダメだからねー。」
アナの施した光をウェストに纏いリンネルは去った。彼女の家までは徒歩で十分足らず。門扉をくぐるまで、愛刀の沈黙を祈るばかりだ。
「なんかゴメンねー。」
「いえ。えっと、あの、僕、何かリンネルさんの気に触る事しましたか?」
「あー、あれはいつもの事だからー。ハルのせいじゃないよー。
とりあえず、おめでとうの乾杯!
あたしはアナストーシェア。アナでいいよー。よろしくねー。
ねーねー、ハルの話をしてよ。はじめまして、でポルカに認められるのはすごいよ!あー見えて、ポルカは皇国一の冒険者だからー。
冒険者になる前は何してたのー?」
非アルコールでカチリとグラスを鳴らす、取り残された二人。苦味の強い泡立つグリーンティーで満たされたハルのグラスは、合わせただけで溢れそうだ。
「皆さんのお話は、いつもギルド長から伺っていたので存じてます。
冒険者になる前、僕は賭博場で闘っていました…。」
ーーーーー
僕の本当の名前は、たぶん「遥」だ。
今はもう微かになってしまったけれど、一番古い記憶は「国民保護放送」の夜。買って貰ったばかりの携帯電話が怪獣映画のテーマソングに似た音を鳴らし、これは国民保護放送だ、と告げた。酔っ払ってソファーで寝ていたはずの父に、母と二人、太く汗臭い腕できつく抱きしめられたのを覚えている。
父の肩越しに見た午後八時過ぎの空は、北へと降り注ぐ幾多の赤い流れ星に照らされて、昼間の様に明るかった。少女「遥」の、その先の記憶はない。
次に古い記憶は「ハル」としてのもの。とても広い部屋の暖炉の前で、白髪の目立つ女性に本を読んでもらっていた。祖母ではないけれど、僕は彼女のことをとても慕っていた気がする。
扉が乱暴に開く音がして、杖を高く掲げたマジックランナーの挿絵がまだらに汚れた。顔を上げると、背中から剣を生やした女性が両手を広げていた。それから、左頬に大きな傷のある男が現れて、女性を縦に引き裂いた剣の柄で僕を強く殴った。
「ガキは高く売れる!連れてけ!」
扉近くにいたもう一人の男が、朦朧とする僕を抱えて階下へ降りてゆく。薄れゆく意識の中で見たのは、首のない父と、太った男に馬乗りにされる母の姿。
次に目が覚めたのは、月明かりに照らされた麦畑の畦道を歩く、見知らぬ老人の腕の中だった。彼は全身血塗れだったけれど、不思議と恐ろしくはなかった。訛りの強い彼の声を聞いた僕は、何故か安堵してまた気を失った。それが十年前のこと。
老人は僕の師、拳聖シトウ。師父はリューロッカ建国六英傑の一人。五十年前の建国戦争時、すでに還暦過ぎと言われているから、この時師父は百歳を過ぎていたことになる。
僕は気の触れるような修練の十年を経て、やっと初伝を許された、拳聖最後の弟子。
「愛する人を見つけなさい。」
これが師父の臨終の言葉。
遺言通り、誰にも知らせず僕一人で師父を弔った。
僕は未だに愛とは何か、分からずいる。
ーーーーー
「壮絶人生!てか、ガチでナックルじゃん!
ハルってさ、もしかしてだけど、カンナギ家の人?」
「カンナギ家?
すみません。幼いときのことはあまり覚えてなくて…、生まれも分かりません。師匠のお名前をお借りして、今はハル・シトウと名乗っています。」
「そっか、そうだよね。こっちこそ、ごめん。
まさかシトウ老師のお弟子さんだったとはねー。ポルカの雇った暗殺者が相手にならないはずだよー。」
ハルはアナに「遥」の記憶について話していない。話したところで混乱を招くだけ。これまでハルの中にある遥の記憶を信じたのは、シトウ、ただ一人。
「明日はどうすれば良いですか?」
「そうだねー。とりあえず買い物しよっか!」
「買い物?」
「アビサルのやつは貰えば良いけど、冒険は長いから必需品は買わないとねー。
明日の朝九時に、市場のエイミーズってパン屋さんに来て!
朝ごはん、一緒に食べよー。」
「…分かりました。」
ーーーーー
「アナ!リンネル!最初はハルに任せる!
ヤバくなったら援護に入るぞ!準備しとけ。」
「…承知。」
「分かったー。」
空中で二つ、着地と同時に三つ、再び地を蹴り二つ、そして空中でまた一つ。ハルが立て続けに蹴りを放つ。その動作は、武と呼ぶにはあまりにも優雅で、舞と見紛うほど。しかし威力は充分以上にあると見え、群れるクリーチャー達がまるで砂の城のよう。瞬く間に道が拓かれて行く。
「…疾い。」
「こりゃ、想像以上だ。
ここでアナのマジックを使わなくて済むのはでかいぞ!」
ここは深遠なる記憶の一つ目の難所、通称デッドマンズパーティー。人型を含むアンデッド系クリーチャーが屯する、大きな空間だ。この空間は言わばエントランスに相当し、複数ある入口は全てここへ集約される。厳密に言えば、ここは深遠なる記憶ですらない。エントランスながら九割のチームがここで引き返すか、あるいは全滅する。決して弱くないクリーチャーの大群が相手なのだから、当然の結果である。なお、ここデッドマンズパーティーで少しでも傷を負うと、浄化しない限り数分、長くても数時間で死ぬ。死した後は魂と肉体がこの地に縛られ、新たなクリーチャーとして永久にデッドマンズパーティーを彷徨う。ポルカの試験を初めてクリアした屈強な戦士も、よく探せば見つかるはずだ。
「凄いですね、この脛当て!
強めに蹴っても壊れなかったのは初めてです!」
着地を狙って前方から襲いかかってきた集団を、唸る裏拳打ちで粉砕したハルの声が弾む。
「籠手もいい感じです!」
「…全て正中に。」
「すげぇな。」
「ん?二人とも、どしたー?」
「アナ…、ハルの動きが見えていないのか?」
「え?ホアチャー!でしょ?音は凄かったけどー。」
ハルの真似をして、右拳を突き上げてプルプルと振るわすアナ。
襲いかかってきたのは七体。当然ながら対処領域は広角に及ぶ。なのに、これだけ離れているアナには、ハルが七体を一撃で倒したように見えたのだ。
「そのなんだ、ホアチャーは裏拳っつうんだけどよ。
それは最後の一発な。裏拳の前に、六回殴ってんだよ。」
「マジでー!全然見えなかった!」
「拳聖の育てたナックルか。こいつは、おもしれぇぞ!
賭博場の八百長試合とは言え、ハルと闘ってた奴は生きた心地がしなかっただろうな!」
「ハルが凄いのは分かったけどさー。
いつまで女の子一人に闘わせておく気?」
「…なに!?」
「は!?どういうこった?」
「あー、やっぱり。脳筋すぎて、二人は気づいてなかったかー。
ハルはね、ハルくんじゃなくてー。ハルちゃんなのー。
しかも、思いっきり未成年。まだ十三歳だよー?」
五十体を超えるクリーチャーの骸の中心で、次は手技だけで倒してみよう、と襲撃第二波に備え肩と首を揺らすハル。女児と知った今でも、小柄な十六、七歳の「少年」にしか見えない。
「マジか!なにが同世代の男だよ!
未成年を冒険に同行させたのがバレたら、俺らブタ箱行きじゃねーか!」
「ポルカだけねー。」
「なんで!」
「このチームのリーダーはポルカでしょ?
メンバー選出はリーダーの責任。だから、あたし達はお咎めなしだよー。」
「…なぜ、ハルは自分をボクと?」
「さぁ?物心ついたときからボクだったらしいよー。」
「紛らわしいやつだなぁ!
仕方ねぇ、一回街に戻るか。」
押し寄せる、先ほどの倍以上の群れを前にして当のハルは至極上機嫌だ。
「おい、ハル!
今日は帰るぞ!」
「えぇ!戻るんですか!?
やっと身体が温まってきたところだったのに!」
「いいから早く来い!」
「わかりました。でもこいつらだけは倒させてください。」
「はぁ?んな時間ねぇよ!」
すぐ終わります、と呟いたハルは、両拳を丹田の前で交差させると、馬に跨るような格好で深く腰を落とす。
ハルが鋭く一つ息を吐いた。迫る群れを睨むその眼差しは、抜身の真剣を思わせる。それからハルは、丹田の前で交差させていた両拳のうち、右だけを胸の横の高い位置まで一直線に素早く引き上げ、気合一声!
「シトウ流陰陽法!弐ノ拳!」
残った左拳は、握りを解いてから半拍遅れて半円を描くように胸の前へ。
「あいつ、何やってんだ?」
「さぁー?」
呆れ顔の二人をよそに、ハルの「動かない」儀式は続く。間近に迫った群れを見て、リンネルが辛抱たまらず駆け出そうとしたその時…、ハルが右拳で地面を突いた。いや、突き刺した、が適切であろう。彼女の右腕は、肘あたりまで深々と地面に埋まっている。
「シン・プク・サイ・カン!
野槌よ、食らい尽くせ!」
不意にハルから発せられる低く淀んだ声。間も無くして地面が不規則に揺れ始める。
「なんだ!?地震かぁ?」
「もしかして今のやつー?」
「マジックではないのか?」
「広範囲に影響が出るマジックなんて、使用許可おりないよー。」
「分散するな!とりあえず、かたまれ!
アナ、シールドを頼む!」
「オーケー!ブルクト・オーレンド!」
アナの全方位シールドが三人を包み込むと同時に立っていられないほどの揺れが起き、群れの中心あたりの地面が広範囲に渡ってすっぽりと抜け落ちた。押し寄せる群れが崩落した地面に次々と飲み込まれていく。運よく落下を免れたクリーチャーもいたものの、結局それらは落ちたクリーチャー達に腕や脚を掴まれ、落下は群れの内から外へと連鎖した。出ようともがき、折り重なるクリーチャー達。その姿はまるで…
「でっかい蛇が暴れてるみたいだな。」
これはポルカの言葉。
落下しなかったクリーチャーもさすがに尻込みしたと見え、おずおずと奥の闇へ消えていった。それを見たハルは、満面の笑みで振り返る。
「終わりました!
街に戻りましょう!」
その声は、少年のようないつもの声だった。
自ら創り出した光の障壁、ブルクト・オーレンドの安全圏内でよくよく観察したアナは思う。ハルが放ったのは、マジックではない、と。マジックだったならば、発動時に身体のどこかにあるエレメントが激しく発光するはずだ。しかもここ、デッドマンズパーティーは薄暗い地下空間。例え衣服の下にエレメントがあったとしても、発光すれば気づかぬはずはない。
「アナ、シンプクサイカン?とは、マジック名か?」
「さぁ?聞いたことないよー。なんだろうねー?
見た目は召喚系ぽかったけど、シトウ老師のオリジナルかなー?わかんないやー。」
「おーい、ハール!
シンプクサイカンってなんだー?アナとリンネルが気になって眠れなくなりそう、だってよー。」
「僕にも分かりませーん!」
ポルカの問いに、駆け寄りながらあっけらかんと返したハルは、ヒビだらけになったアビサル製の右籠手を外しながら言葉を続ける。
「頭の中に不思議な言葉が浮かぶんです。なぜか毎回違う言葉なんですけど。
シトウ先生からは、とりあえず叫んでみたら?、とアドバイスされたので叫んでます。
言われてみれば、シンプクサイカンってなんだろう?…なんとなく、美味しそう?
ところで、この籠手って直せるんですか?」
ーーーーー
「だーかーらぁー!そっちが紹介してきたんだっつーの!
最初に調べなかったのはそっちの責任!こっちは紹介されてんだから疑うはずねぇだろ?
はぁ?女児強制労働だ?それなら、そっちは女児強制労働斡旋じゃねぇか!
お役所ってやつは、本当にてめえの間違いを認めねぇな!」
これ系の話は先手必勝だ、とギルドにハルの件の説明を申し出たポルカだったが、色々と拗れているようだ。
「なんか、ご迷惑をおかけしているみたいで…。」
「ハルのせいではないから、気にするな。
やはりポルカでは無理か。仕方ない、私が話をつけてこよう。」
もはや女児強制労働が話の主旨になってしまったポルカを放置して、フルアーマーに身を包んだリンネルが別の窓口へ歩を進める。リンネルは決して話し上手ではない。せめてアナが居てくれたら、と「やんごとなき用事」で不在のアナストーシェアを思う。
ちなみに軽装でギルドを訪問する冒険者が多い中、リンネルはフル装備である。左胸にアブラドゥ家の紋章が刻まれたアビサル製フルアーマー、柄に豪華な装飾が施された片刃のロングソードと真紅の鞘。これらのキーワードは、それだけでこの人物が「神速の刃」だと物語る。立っているだけでも目立つのに、その有名人が歩き始めたのだから、ギルド中の視線を集めたのは言うまでもない。なおリンネルがギルドに来ること自体、非常に「稀」だ。
「…な、なにかご用ですかぁ?」
有名人の急接近に、職員証を左胸につけた窓口嬢は満面の笑顔ながら、明らかに緊張の体。いや、頬を染めるこれは、高揚か。
「Aランクのリンネル・ウェスース・アブラドゥだ。
キルド長との面会をお願いしたい。」
フルアーマーのヘルムを取り、ぎこちなく女性様式の挨拶を交わしたリンネル。所作に難ありとは言え、さすが名家のご令嬢である。
ところが窓口嬢は固まったまま動かない。笑顔の口元が、ピクピクと僅かに痙攣しているように見える。
「…コトニ、さん?
取り次ぎをお願いしたい。私は、Aランクのリンネル・ウェス…」
カウンターに置いたヘルムをベル代わりにコンコンと二度叩いてから、職員証で窓口嬢の名前をしっかりと確認したリンネルが、再び案内を求めた。それを合図にハッと我に返ったのも束の間、小刻みに息を吸い始める窓口嬢のコトニ。
「うわぁぁぁぁあん!
リンネルさんがぁぁぁぁぁあ!」
コトニは立ち上がるでも取り次ぐでもなく、リンネルの言葉を遮ってそのままカウンターに突っ伏して泣き崩れた。
「ど、どうした!
なぜ泣く!どこか痛むのか?」
柄にもなくオロオロと狼狽したリンネルが、突っ伏すコトニの肩に手を置いて問うた。その手を感じ、一瞬だけ泣き止んだコトニだったが、すぐにリンネルの手を振り払うと、さらに大きな声で泣き始める。
「ゔわぁぁぁあぁん!
痛いのは、心ですぅ!私ぃ、ずっとファンだったんですぅ!何通もファンレター書いたんですぅ?」
「そ、そうだったのか。それは気づかなかった。ありがとう。
申し訳ないが、ギルドちょ…」
「私ぃ、ギルド職員になったときからぁ、いつか会えるかもぉ!って期待してたんですぅ!」
肝心の要求だけ、どうもタイミングが悪いらしい。
「すまないが、ギルド長を…」
「あんなポートレート集、出さないでくださいよぉ!」
「ぽ、ぽーとれーと…?」
「あの本で、何人の女子がリンネルさんに恋してると思ってるんですかぁ!」
「ちょっと待て!
ポートレートとは、なんだ?」
「公式のやつですよぉ!」
「こ、ここ、こうしき?
なにを言っているのか、分からないのだが?」
「もぉ!ギルドの売店で売ってるやつぅ!
あんな本、捨ててやるぅ!うわぁぁぁん!」
最終的にコトニは、泣きながら奥へと走って行ってしまった。カウンター越しではあるものの、待ってくれ!と伸ばしたフル装備の右手だけ見ると、さながら恋愛劇の一場面のよう。当のリンネルは心ここに在らず、といった風で何やらぶつぶつと繰り返しているのだが…。
「こうしき…
ポートレートしゅう…
ばいてん…
こうしき…
ポートレート…?」
「これですかね?
リンネルさんのは人気でいつも品切れなんです。僕は古本屋で買いました。定価の三倍です。」
後ろで観劇していたハルが、肩に担いだ頭陀袋から、掌大のくたびれた冊子をリンネルに差し出す。
「…褐色の貴公子…、リンネル・アブラドゥ…。
……貴公子!?」
落としかけた冊子の表紙で、白い歯を見せて楽しそうに笑う「ノーメイク」の自分。いつ撮られたのか定かではないが、着衣から察するに孤児院で子供たちに剣術を教えた時のものだろう。ガチャガチャとページを進める。
鍛錬で汗を流す「ノーメイク」の自分、部屋着で愛刀の手入れをする「ノーメイク」の自分、風呂上りにペットと戯れる「ノーメイク」の自分、切り伏せたクリーチャーの体液を浴びる「フル装備」の自分、などなど。五十頁に渡って様々なシーンが収められている。しかも「フル装備」以外は顔のアップばかり。鍛え抜かれた「自慢の」肉体は愚か、性別を識別可能な部位が一切写っていない。
「こ、こんなもの、いつの間に…。」
「Aクラス以上の冒険者は、ポルカさん以外、ポートレート集が売られてますよ。
売店の一番人気らしいです。アナさんのは普通に買えました。古いやつなんで定価の二割引でした。」
ハルが新たに差し出した真新しい冊子には、マジックのハートを周囲に沢山散りばめ、笑った口元を両手で隠すアナが。
「絶対☆魔導少女…?アナストーシェア・イラゥーズ…?
アナはもう、少女じゃないだろうっ!」
「こら!女子は何歳になっても少女だ!
懐かしいー。これ、去年のお祭りスペシャルだー。」
まるで空間を切り裂いたかのように、突如現れたアナが冊子を取り上げると、リンネルは売店へと飛んで行った。在庫を切り刻むやら、出版取り止めやら、ポルカの騒ぐ窓口に加えて、今度は売店まで騒々しい。
「あ、アナさん。おかえりなさい。
やんごとなき用事は終わったんですか?」
「んー。終わってないけどー。
心配になって来てみたら、やっぱりねー。
チーラ兄さんに、もっと女らしく盗撮しろって言っとくからー。こらー、リンネル!刀抜くなー。」
「え?このポートレートって、アナさんのお兄さんが撮ってるんですか?」
「そだよー。ほら、裏に書いてあるじゃん。」
「…パパチーラ・イラゥーズ。本当だ。」
「チーラ兄さんは変態だからー。
ピープしかマジック使えないしー。てか、ピープの精度を上げることしか考えてないね、あいつはー。」
「ピープ?」
「ん?ピープはチーラ兄さんが生まれつき持ってるマジックだよー。
対象者の皮膚とか、体毛とか、その他色々を食べるとー、どこにいても好きな時にその人のビジョンが見れてー、しかもそのビジョンをアビサル鋼板に転写できるっていう、兄さん専用の変態マジックー。超複雑な術式でプロテクトしてあるマジックだから、誰もアンチマジックが開発できないのよー。
ちなみに、その人が服を着てないときは、なぜかぼやっとして見えないんだってー。このぼやっとしたのを解消するのが、兄さんの夢なわけよー、バカだー。
ハルも食べられないように気をつけてねー。」
「ポルカさんのポートレート集がないのは、まだ食べられてないのかなぁ?」
「それはないと思うー。兄さんはピープのためなら何でも食べるからー。
たぶんなんだけどー。ポルカって、人前に出る時以外は全裸だからー。こっちもバカだー。」
「え!?なんでそんなこと分かるんですか!?」
「んー。まー。長い付き合いってやつー。ははははー。
さてと、この状況をどうにかしないとねー。もったいないから使いたくないけど仕方ないかー。」
アナが杖の先でコツンと床を小突く。すると硬い石造りの床が波打ち、杖を中心に波紋が三次元的に広がり始めた。と感じるだけで、実際はマジックの効果が可視化されているに過ぎない。またアナは非常にバツの悪い顔をしているのだが、目深に被ったフードのお陰でそれを知るのは本人のみ。
「デタクータ…。」
ガタン!と、ギルド内の冒険者達と一部の職員が一斉に倒れ込んだ。武器を持たないハルだが、急激に重量を増した頭陀袋に耐えきれず膝をつく。防具も金属製である。悲惨なのはフル装備で来てしまったリンネルだ。本棚を二つ巻き込んで仰向けに倒れたまま、カタカタと小刻みに揺れている。愛刀を振り上げたタイミングとたまたま重なってしまったのだろう。雷が落ちたような、凄まじい音が鳴り響いたのは言うまでもない。
「えーと、ギルド長をお願いしますー。」
全員の視線を一身に集める長身のマジックランナーが、ポリポリと頬を掻きながら、ポツリと言った。
ーーーーー
「ポルカくん、すまなかったね。
ハルちゃんのことは、完全にこちらの手落ちだ。」
「分かってくれりゃあ、いいんだよ。
だけどよぉ!窓口の態度、ありゃないぜ?身を粉にして働く俺らに無礼すぎる!」
長椅子に浅く腰掛け、テーブルに足を乗せた者が言うセリフではない。今のポルカは誰が見ても無礼者だ。しかし向かいの長椅子に背筋を伸ばして座るギルド長、ギュスター・アブラドゥは、気にした様子もなく言葉を続ける。
「そう言ってくれるな。最近は自己責任の原則を分かっていない新人冒険者が増えてしまってね。
ちょっとしたことでも、すぐにギルドのせいだと責め立てる。窓口の職員達も迂闊なことを言えないのだよ。」
「誇り高き皇国冒険者もずいぶんと質が落ちたな。」
「ふふ、否定はしないよ。陛下に合わせる顔がない。」
「おいおい、おやっさんがそんなこと言って、大丈夫かよ?」
「次の春が来れば任期満了さ。
ところで、リンネルはどうして隅で丸まっているんだい?」」
ギュスターは整った口髭を摩りながら振り返り、開け放したドア裏の金属塊に視線を落とす。塊から真紅の鞘が伸びていても、乱雑に積まれたフルアーマーにしか見えない。
「色々あんだよ。何たって、褐色の貴公子様だからな!けけけ。
で?ハルの登録はどうなるんだ?」
ポルカの言った「貴公子」に反応して鞘がピクリと動いたものの、金属塊がそれ以上動くことはなかった。
「ハルちゃんに特二を適用すれば…。」
「特二?なんだそりゃ?」
「冒険者に係る特例処置令第二号。
第一項、法定保護者の生業が冒険者である場合に限り、その保護下にある未成年者の冒険者登録を認める、だっけー?」
長椅子の横に立つアナが、ポルカの横に行儀よく座るハルの頭を撫でながら言った。しかしすぐに手を止め、顎へ手をやる。
「…あれー?んー?」
「さすがですな、アナさん。
平たく言えば、ハルちゃんは身元不明。冒険者の養子になれば特二の適用が可能。」
「おいおい!俺らにハルの保護者になれってか?
俺はパスだ!まず家がねえ!いや、あるが長いこと帰ってねぇ。アナかリンネルなら、実家に部屋余ってんだろ?養子にしてやれよ。」
「そうしたいところなんだけどねー。この第二号って、ややこしいのよー。」
『冒険者に係る特例処置令第二号』は、両親が冒険者のケースについて定めたもの。要約すると次の通りだ。
一般的には両親が該当する法定保護者が冒険者なら、保護下にある未成年、つまり子供も冒険者登録が可能。ただし制限付き。自由冒険はできず、子供の意思で依頼受託もできない。許されるのは、保護者に同行する冒険と依頼遂行のみ。子供の冒険者ランクは両親の低い方よりさらに一階級低いものとし、保護者は子供のランクより高い冒険および依頼に、子供を同行させてはならない。なお母親が主婦など、片親が冒険者でない場合、この特例は適用されない。
「おいおいおいおい。ちょっと待ってくれよ、おやっさん!
深遠なる記憶はランクAだぜ?普通のパーティーが挑むより条件厳しくなってんじゃねぇかよ!」
「もちろん理解している。」
成人で構成されたチームの場合、挑戦できるダンジョンと受託できる依頼はリーダーの冒険者ランクに応じて決まる。つまりSランクのポルカがリーダーを勤めるチームであれば、自動的にチームランクも「S」。これは全てのダンジョンに挑戦可能で、さらに「皇帝一家のピクニック警護」など、報酬の良いロイヤルランクの依頼までこなせる。余談だが、アナストーシェアは史上初、かつ女性唯一のランク「S」である。
「俺かアナのどっちかが養子にすれば、ハルはAランクになるってことか…。」
「残念ながら、問題はそれだけではないのだよ。」
「もしかしてー!」
あたかも自分の膝であるかのように、ハルの頭をポーンと一つ叩いたアナ。叩き心地に違和感がなかったのか、気にした様子はない。それまでずっと頭を撫でられていた当事者のハルは夢見心地である。むしろ叩かれてもまだ寝ている。
「独身者の保護者申請…?」
「ご名答!」
「おいこら、ヒゲ!ご名答じゃねぇよ!説明しろ!」
「ポルカくんは大人として、もう少しルールを勉強したまえ。」
ギュスターは傍らに置いたバインダーから一枚のチラシを取り出すと、テーブルの上へ几帳面に置いた。
『独身者の法定保護者申請が新しくなりました!』
独身者が自身の子供でない未成年者の法定保護者を申請する際は、まず市民部で保護者の登録を行い、仮保護者証を発行してもらいましょう。
正式な「保護者証」の交付には、仮保護者登録後、または登録前、三年分の健全で十分な扶養記録と、該当日数の半分を満たすお子様の日記が必要です。すでにお持ちの方は、必要書類を「全て」持参して、お子様と一緒に市民部三号棟へお越しください。
お子様と一緒に三者面談をしていただきます。三者面談で判定「○」が出れば、いよいよ保護者証の交付です。
おめでとうございます。お二人は晴れて「ご家族」になりました。
(配偶者と死別、離婚した方も「独身者」となりますので、この申請が必要です。)
(仮保護者証は、公的家族証明にはなりませんのでご注意ください。)
(三者面談の担当官は、判定マジックを使用します。)
「わかりやすい!のか?これは?
こんなチラシどこに置いてんだよ。初めて見たぞ?」
「ビラポトも掲示場所に入っているはずだが。」
「バカか!酒場でこんなもん見るかよ!」
「はーい。私はちゃんと読んでたー。」
「出た!飲めない女!」
挙手のためにアナが頭から手を離した途端、ハルがピクピクっと反応する。これは寝ピクだ。今度はそのままポルカにもたれかかって寝息を立て始める。邪魔だ、と小突かれても起きる気配がない。完全に寝てしまったらしい。
「本気で寝すぎだろ!
その前によ、おやっさん。俺らがハルと知り合ったのは、つい最近だ。三年後っつたら、ハルは十六歳。二年後には成人するんだから意味がねぇよ。」
「だから問題と言ったのだよ。まぁ、これはあくまでも独身者が申請する場合の話だがね。」
「ああん?どう言う意味だ?」
なぜか口髭を整えたギュスターがしたり顔で身を乗り出してきた。
「既婚者。平たく言えば、正式な夫婦からの申請は、無条件だ。しかも保護者証は即日交付!」
「マジかよ。ゆるすぎるだろ…。」
「え?ちょっと待ってー?
子供のランクって一つ下がるんだよねー?」
「その通り。Sランク同士の冒険者夫婦が保護者なら、ハルちゃんはAランクになる。」
「いやいやいやいや。そりゃ、俺とアナが、ってことだろ!?ありえねぇ!」
「私も全裸はやだー。」
お互いに顔を見合わせて全否定した後で、ハルを押し付け合うSランクの二人。かなりのスピードでメトロノームのように往復しているが、熟睡するハルに覚醒の兆しは見られない。
「ふふふ、盛り上がっているところ申し訳ないが、このギュスターの考えは違うのだよ。
アナさんはイラゥーズ家の次期家長候補。つまり、ゆくゆくは皇帝ご一家のマジック指南役になられるお方。そんなお方に、こんなポルカを薦めるだろうか!
否!絶対にない!」
「すげぇ失礼なことを偉そうに言うな。こんなポルカって、どんなポルカだ。
つーかよ、アナ以外にSランクの女冒険者はいねぇぞ?ギルド長のくせして知らねぇのか?」
「知っている!知っていて、あえて言う。それがこのギュスター!」
「うるせぇよ。裏技があるなら、早く言え。」
口髭に何度も唾をつけて整えに整えるギュスター。その口髭は艶を通り越し、もはや滴る。平静を保つときの彼の癖なのだろう。
「最適なのは、可愛い我が姪、リンネルだよ。こんなポルカくん!」
「なっ!伯父様!?うぎゃぅっ!」
「デタクータ!おもしろそうだからリンネルは少し黙っててー。」
飛び上がった拍子にピンポイントのデタクータを喰らったリンネルは、柄にもなく可愛らしい声を上げた。しかし床に伏せるその様は、馬車に踏まれたカエルのよう。そしてこの騒ぎの最中にあっても、ハルは起きない。
「リンネルはまだAラン…、あっ…!」
「そう!こんなポルカでも気づいたようだね。
リンネルは来月で十八だ。リンネルがAランクなのは年齢制限のせいだ。実力は申し分ない。
実はすでに認定済みでね。誕生日が来れば、リンネルは史上二人目のSランク女性冒険者なのだよ!」
ギュスターに押し切られる形で成立したトップ冒険者同士の結婚は、瞬く間に皇国と周辺国において一大ニュースとなる。ハルの養子縁組に万全を期すため、入籍と結婚式はリンネルが十八歳になる誕生日に両家のみで行う予定だったが、日頃から「ポルカのファン」と公言している皇太子殿下が、式に出たい、と言い出したことから状況は一変。皇太子妃殿下、並びに友好国の王族子弟達も次々と出席を希望。一貴族のアブラドゥ家が申し出を断れるはずもなく、気づけば皇族の結婚式に次ぐ規模に。式が執り行われるまでのひと月余りの間、皇都は連日が建国記念日さながらのお祭り騒ぎであった。
関係者によると、今回の一件は全てギルド長の計算通り、なのだとか。ギュスターはリンネルの父から、おてんば娘リンネルの結婚について相談を受けていた。理由も言わず縁談を断り続け、たまに受けたかと思えば冒険からフル装備で見合い会場に直行してくるリンネルを、嫁がせるにはこの方法しかなかった、と言うわけだ。相手がポルカなら、家柄にうるさいアブラドゥ家の面々と言えど黙るしかない。ポルカは、平民ながら抜群の知名度を誇る。ここまで騒ぎが大きくなるとは思っていなかったにしろ、卓越した戦闘力を持つ未成年のハルが冒険者登録に現れた時は、それこそ天使に見えたことだろう。
ポルカはリンネルとの結婚を機に、皇太子殿下から直々に「家名」を拝領した。ポルカ風に言えば、んなもん要らねぇって言ったのにリンネルが勝手にもらいやがった、である。家名は「トゥーロ」、リューロッカの言葉で「未来」を意味する。ちなみに、リューロッカの慣習で結婚式の二週間前から、花嫁は新郎と会うことを禁じられる。単に花嫁側の準備期間が慣習化しただけなのだが、乙女にとって二週間は劇的な変化を得るに十分な期間であるらしく、ほとんどの花嫁がこの間に美しく化ける。リンネルも例に漏れず、褐色の貴公子とまで呼ばれたおてんば娘が純白のドレスを纏ったその姿は、皇太子妃殿下をして、皇国の輝石、と言わしめたほど。
「三、二、一!
行くよー。祝砲じゃー!どかーん!」
昼間にも関わらず、皇国の空が夜のように暗くなった。しかし、すぐに満天を埋める色とりどりの光で昼間以上の明るさを取り戻す。
もちろん犯人は、アナストーシェアである。超広範囲に渡る光のマジックで皇国の空を演出した。これだけの範囲を闇で覆い、さらに光のマジックを連発するなど、一ヶ月の準備期間があったとしても並のマジックランナーでは百人が束になってもできない芸当だ。アナはこれを一人でやってのけた。改めて言うが、アナが演出したのは皇都ではなく「皇国」の空である。一ヶ月間マジックポッドに溜め続けたとは言え、そこ知れぬマジックソースを披露したアナはこの日、「伝説」としての地位を確固たるものにした。
そしてハル。皇太子と各国の王族子弟達の前で、ポルカから「養子」に迎えると宣言を受けた。現代のヒーロー、ポルカとリンネルの嫡子に期待が高まる中の養子宣言であったが、ハルが建国六英傑の一人、シトウの女系紋章を身につけて登場したため、期待への反感は驚愕に、そして新たな期待へと変わった。
皇国が祝福ムードに包まれたあの日から、一週間が経った。
ポルカ達三人の新居は、下町エッフェ地区にある彼の生家だ。この家は家具職人だったポルカの父が建てたもの。多少ボロだが手頃な広さで、市場も近く、何よりも日当たりが良い。両親は失踪したポルカを探しに出たきり戻っていないという。旅の途中で山賊かクリーチャーに襲われたのか、それとも別の街で平穏に暮らしているのか。顔も知らない両親の事情など、ポルカにとってはどうでも良いことだった。
リンネルもこの家とこの地区を気に入っている。下町の人達は身分の違う彼女を特別視せず、分け隔てなく接する。昨日は、市場に活きのいい魚が入ったから、とお隣りの若奥さんが市場を隅々まで案内してくれた。若奥さんの解説により、肉屋のタイムセール攻略はダンジョン攻略より難しい、と理解したリンネルは、初のタイムセールは若奥さんの影に隠れて観察しようと考え、一方の若奥さんは、身の丈ほどの魚を軽々と担いだリンネルを見て、タイムセールで鉢合わせしたくない、と叫んだとか。巨大な切り身を神速の包丁で刻みながら、そんな昨日の出来事を思い出したのか、ふふふと静かな笑みの溢れるリンネルだった。
「おはようございま…、あ、おはよう。」
「おはよう、ハル。
顔を洗うついでにポルカを起こしてきてくれるか?
ちょうど朝食ができたところだ、三人で食べよう。」
「うげ!やだ!ポルカさん、昨日も全裸だったし。」
家族になったら敬語禁止。ポルカが決めた唯一のルールだ。「後はお前らの好きにしろ」と言っていた割に、当の本人は酒も飲まず日暮れ前に帰ってくる。奥様方の噂によると、学校からの依頼で子供達に冒険譚を語っているらしい。
「大丈夫、今朝は少し冷えたから毛布にくるまっているさ。」
「それでもイヤ。はみ出してるかも知れないじゃん。」
「頼んだぞ。」
「でた!リンネルさんお得意の無視!」
ふふふ、と背中越しに笑うリンネルを見るのが、ハルの朝の日課になりつつある。無視されても決して嫌な気持ちはしないから、不思議である。
几帳面に畳まれたタオルをテーブルから拾い上げ、首にかけたまま中庭の井戸へ。冷たい水で顔を洗い、拭くのはおざなりにその足で外階段をトントントンと駆け上がる。寝室のドアを三度ノックするが、案の定、返事はない。恐る恐る開けたドアのすぐ先のベッドに、毛布を蓑虫のように纏うポルカらしき塊が転がる。こちらに向けて剥き出しだった昨日に比べればだいぶマシだ。
「ポルカさーん。ご飯できたって。またリンネルさんに怒られるよ?」
むろん返事はない。
「ポルカさーん?
ダメだ…。完全に寝てる。」
一度寝たら小突かれても起きない口が言う。
不意にポルカの言った「お前らの好きにしろ」が頭に浮かぶ。
「好きにしろ、ねぇ…。」
ふふふ、とリンネルを真似て静かに笑ったハルは、子供っぽい悪戯な顔で蓑虫に忍び寄る。
「こちょこちょこちょー!
起きて!ご飯だってさ!ママに怒られるよ?
ねぇ、……
パパ!起きて!ご飯できたよ。」
「はる…か…?」
頬に触れようと伸ばした手が、愛らしい顔をすり抜ける。
ホログラム。分かっているはずなのに、馬鹿な俺は毎朝同じことを繰り返す。覚醒する時のこの交錯感は何万回経験しても慣れない。ドリーミンギアの見せる世界はどれも魅力的でリアルだ。第一世代は「ギアが現実」の廃人だらけ、という笑い話が逆に笑えない。
人工的な灯りに照らされたダイニングに目をやる。インテリジェントアームが運ぶ朝食に合わせて動く妻もまた、俺の記憶を映し出しただけのホログラムだ。正確に言えば、妻なのか怪しい。娘も然り。
俺は、入植第三世代の遺伝子と、ある微生物の遺伝子を掛け合わせて造られた、戦闘用の長寿命型強化レプリカヒューマン、通称PORCAの試作五番目。生みの親であるイラゥーズ博士は、便宜上ナンバーファイブと名付けたが、試験的に自我を与えられていたせいか、二人きりの時は俺のことを「トゥーロ」と呼んだ。
突然レプリカの人権を訴え始めた博士の手引きによって、ある日、俺は施設を脱走する。命令遂行能力に優れる武装した後継タイプの追手を振り切り、這々の体でたどり着いたのは、入植第二世代達が暮らす小さな集落だった。そこで、第二世代同士の自然生殖で産まれた少女、リンネルと出会う。
驚異的な治癒力のせいで、すぐに人外だとバレたが、第三世代と思想を異にする第二世代は俺を受け入れてくれた。しかし平穏な日常は、いつの世も続かない。後継タイプの強襲を受け、集落は壊滅。俺はリンネルを助けるのが精一杯だった。
リンネルに戦う術を教えながらの三年半におよぶ放浪の末、西の果てに安住の地を見つける。放棄された第一世代の着陸船だ。この時、リンネルは十八歳。いつしか俺たちは、教師と生徒のような関係から「夫婦の関係」に変わっていた。しかしレプリカの俺に生殖機能はない。そんな時だ、着陸船の隔離区画でデ・スリープ初期段階のまま放置された、第一世代の少女を見つけたのは。不完全なデ・スリープは、スリープ前の記憶に大幅な欠損を引き起こす。祖先である地球の少女を、俺たちは「娘」として迎え入れた。
それからは幸いなことに追手もなく、些細なことでよく笑うリンネルと、汁に入った麺や焼いた獣の肉など、不思議な食べ物の話をする娘のお陰で、慎ましやかながら楽しかった。そんな日々もたった六年で終わりを迎える。生身の人間とは何と儚い生き物なのか。間際のリンネルは俺と娘の手を取り、幸せだった、と告げた。幸せとはなんだ。祝福のうちに生まれた者が、誰からも祝福されずひっそりと、俺みたいな紛い物に一生を捧げることが、人の「幸せ」なのか。
第一世代はさらに儚い。リンネルの死から三年足らずで、眠ったきり目を覚さなかった。娘の最期の言葉は、ありきたりな挨拶。あの時、俺が娘をデ・スリープしなければ、娘はこんなにも早く死なずに済んだのではないか。もっと先の世代なら娘をこの星に適応させられたかも知れない。その生きる可能性を彼女から奪ったのは、他でもない紛い物の俺だ。
一人になって、もう二百年。俺も老いた。ことあるごとに生体機能が「老人」形態に入ったのだと実感する。
人の姿は百年以上見ていない。この星の人類は絶滅してしまったのだろうか。
それでも俺は、我が家を守るため、くたびれた武器を手に今日も西の果てを回る。ここは家族の眠る銀河に二つとない場所なのだから。