それを見つけたのは、大台を少し過ぎた春だった。
ベランダの洗濯物に、白い綿毛のようなものがふわりと絡みついていた。摘まむと、ほんのり温かい。
「……まさかね」
そう思いながらも、彼女はそれを捨てなかった。小さな缶に入れて、机の引き出しにしまう。
ふと、祖母の声を思い出した。
――ケサランパサランはね、大事にすると、幸せが増えるのよ。
あのときは、ただの昔話だと思っていた。
結婚して、離婚して、気づけば一人の生活。
誰かと話すのは職場くらいで、帰宅すれば静かな部屋が待っているだけ。
不幸ではない。けれど、どこか空っぽだった。
ある夜、缶を開けてみると、白いそれは、わずかに揺れていた。
風もないのに。
「……生きてるみたい」
思わず、笑ってしまう。
それから彼女は、時々その缶を開けるようになった。
忙しい日のあと、少し疲れた夜。缶を開けると、白いものは変わらずそこにいて、ふわりと揺れる。
それだけで、なぜか心がほどけた。
変化は、ほんの些細なところから始まった。
朝、カーテンを開けるのが少し楽しみになる。
コンビニではなく、パン屋に寄り道する。
同僚の誘いを、断らずに受けてみる。
ある日、気づいた。
缶の中のケサランパサランが、少し増えている。
ひとつだったはずが、いつの間にか、ふたつ、みっつ。「……増えるの?」
問いかけると、白い塊たちは、くすぐったそうに揺れた。
それからというもの、彼女が笑った日には増え、誰かに優しくできた日には、さらに増えた。
逆に、落ち込んで帰った夜には、少し小さくなる。まるで、彼女の心を映しているみたいだった。
「じゃあ、これは……私のせい?」
缶をのぞき込みながら、彼女はつぶやく。白いものたちは、答えの代わりに、静かにふわりと浮かび上がった。
気づけば、部屋の空気が変わっていた。花を飾るようになり、誰かに連絡をするのが億劫でなくなり、休日には外に出るようになった。
特別な出来事があったわけではない。
ただ、小さな「いいこと」を拾い上げるのが、上手くなっていた。
ある朝、缶を開けると、ケサランパサランは溢れそうなほどに増えていた。
白い綿毛たちが、今にも飛び出しそうに、ふわふわと揺れている。
「……どうするの、これ」困ったように笑った瞬間、ふわり、と一つが缶の外へ飛び出した。
続いて、もう一つ、また一つ。
白いものたちは、部屋の中に広がり、やがて窓の隙間から外へと流れていく。 朝の光の中へ、静かに溶けていった。
「あ、ちょっと……」手を伸ばしかけて、彼女は止めた。
追いかける必要はないと、なぜか分かっていた。
缶の中には、まだいくつか残っている。
そして、胸の奥にも。
窓を開けると、春の風が入ってきた。、どこかで、誰かが笑っている気がした。彼女はふと、思う。
――幸せは、もらうものじゃない。
増やして、分けて、また戻ってくるものなのだと。
缶の中で、ケサランパサランが、ひとつ、またひとつと、静かに増えていた。