JR東海道線金谷駅にて下車。
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金谷は東海道五十三次に於ける宿場町であり、町の至る所に宿場町の沿革が記されております。東海道の宿場町に於いて、当時の娼婦である「飯盛女」が発生していたのは周知の通りであります。
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SLの走る大井川鉄道「新金谷駅」付近、旧東海道大井川の川越街並。嘗ての旅籠が並んでいた通りであります。当時の難所でありました大井川が氾濫した際は、金谷に数日間宿泊しなければなりません。金谷宿の飯盛旅籠は大井川の川留ともなると大繁盛を極めていたようであり、金谷宿の次の宿場「日坂」の飯盛旅籠と客の取り合いをしていた様子。
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・・・・・・さて本題たる「金谷町遊廓」に関して筆を進めて行きます。僅かな情報に因れば、金谷の遊里は二箇所あったようであります・・・・。金谷町遊廓の沿革等を記す前に、先ずは「金谷町遊廓」が何処にあったのか場所を特定して行くことにしましょう。
拙ブログではお馴染み駿河の遊里跡を探索する上でのバイブルたる「八木富美夫著 静岡県の赤線を歩く」を懐中から取り出し頁を引いてみましょう。しかしながら小規模の遊里だったようで、金谷については僅かな記述のみ。八木氏も調査する上で相当難儀されたのではないかと推測します。
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八木氏の著書に遊里の場所について触れられている記述は「大井川堤防西側」と「東町」の二点のみ。この記述と「この付近に遊廓があった」とキャプションが添えられた写真を頼りに只管金谷の街を歩きます。
東海道五十三次の時代、多くの旅人を悩ませた川越の難所たる大井川にかかる大井川橋。信号には「東町」の看板が掲げてあります。金谷町遊廓に限りなく近付いてきたようです。どうやらこの「東町」、旧町名のようで県道島田金谷線を挟む広い範囲に亘っております。現在の町名は金谷東町。
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下記写真は八木氏に因って撮影された平成二十二年の写真。この写真に写っている「電柱」「子供飛出し注意の看板」「白い鉄柵」「旧家」を手掛かりにアナログな方法で探索。
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暫く街を歩くと、八木氏に因って撮影された写真と同じ箇所を発見。この付近が金谷町遊廓であます。下記写真、平成二十六年十月九日小生に因り撮影。
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同じく八木氏に因り、平成二年に撮影された写真。「この付近に遊廓があった」とキャプションが添えられております。
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下記は平成二十六年十月九日小生に因り撮影。八木氏撮影の平成二年当時と景色が変わっておりますが、同一箇所と見て間違いないでしょう。ある会社の資材置き場付近であります。往年はこの右手に娼家が五軒余り並んでいました。
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この通りを進んで行くと古びた公民館がありました。玄関先には擦れた文字の看板が掲げてあります。「東町新地地区」と読み取れます。遊里跡地に「新地」の文字。これも確固たる遺構でありましょう。
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念の為、住宅地図を入手して当該箇所を確認。やはり「東町新地地区」と記されておりました。残念乍、入手出来た最も古い地図は昭和六十二年のもの。この時代、既に住宅地として生まれ変わっており、遊里を匂わすものを地図からは伺えませんでした。
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・・・・・・・更なる裏付けを行うべく、近所に店を構える古い喫茶店を訪ねました。このお店で往年の金谷町遊廓を知る老紳士から貴重な証言をヒアリング。その内容は次回に記させて頂きます。