静岡県島田市(旧金谷町遊廓)② | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

前回に引き続き旧金谷町遊廓を訪ねる。











大井川鉄道の通る「新金谷駅」近くの踏切にて。偶然通りかかったSLを撮影。嬉しい収穫であります。焦って撮ったのでぶれているのはご愛嬌。





前記事にて「金谷町遊廓は二箇所あった」と書きました。下記は「八木富美夫著 静岡県の赤線を歩く」より。「遊廓跡地と思われる」とキャプションが添えられております。そして「写真の付近にあったと言われるが、定かではない」と但し書きも。下記写真の場所を特定せんと金谷の街を探し歩くものの、判明せず。地元の方曰く、水神公園から新金谷駅踏切周辺ではないか?と。しかしこの界隈、真新しい住宅が立ち並んでおり、昔年の面影は無し・・・・・。





下記は同じく八木氏の著書より。飯盛旅籠が立ち並んでいた界隈。恐らく近代に入り飯盛旅籠が一箇所に纏められ「金谷町遊廓」が構成されたと考えられます。それが第一の金谷町遊廓の歩み。昭和五年に世に出た珍本「全国遊廓案内」にある金谷町遊廓の僅かな紹介文には「飯盛旅籠時代は相当繁盛したが今は寂れてたった二軒の貸座敷しか無い」と。





遊廓としてそれほど繁盛しなかった飯盛旅籠由来の「金谷町遊廓」、そして新たに遊廓が移転されたのが此度訪問した「東町」であります。公民館に名付けられた「新地」と言う名称が、遊廓の移転を物語っております。





既に遊廓を匂わす建物は残っていない「東町」の遊里跡地にて。飯盛旅籠由来の遊廓から、「東町」で第二の人生を歩みだした「金谷町遊廓」。その沿革は特殊であり、嘗て金谷に存在していた「大井海軍航空隊」が由来とされております。つまり軍隊の「慰安所」として設置されたのが始まりであります。大井海軍航空隊の設立が昭和十七年であります故、昭和十七~十八年にこの地に「遊廓=慰安所」が設けられたと考えられます。大井海軍航空隊について






遊廓跡地からほど近い場所にある昔ながらの喫茶店「れすとオオイ」。ももじゃむ女史のお導きにて訪れてみました。この辺りを写真撮影していると、店前を掃除していたお店の奥様から「何か調べ物ですか?」とお声がかかる。八木氏の著書を見せながら「実はかくかくしかじか・・・・」と自己紹介。すると「確かにありましたよ。この写真のお家は○○さんのお宅、そしてこの辺りに四、五軒そのようなウチがありました」と奥様。





「れすとオオイ」にて一服することにしました。落ち着く店内。遊廓跡地を巡っている珍客たる私の登場に、ご主人や数名の常連客の皆様は興味津々であります。「ユウカク?ははは、そんなモン大昔に卒業しちまったよ」と豪快に笑う老紳士。お客様は齢七十歳前後、まさに人生の大先輩ばかり。







お店の常連客の一人である昭和十二年生まれ、現在七十七歳のA氏より金谷町遊廓のエピソードを拝聴。A氏は赤線時代に「登楼」した経験もあり。尚、地元の方は「金谷町遊廓」を指して「イアンジョ」と呼んでおりました。A氏よりヒアリングした内容を以下に綴ってみましょう。






イアンジョが開所された時のことを良く覚えていますよ。当時は小学校低学年でしたね。学校で上級生たちが私ら下級生を誘うんですよ。アソコへ行くとパンを貰えるぞって。開所祝いって思惑もあったのでしょうかね、イアンジョで姐さんたちがオグラパンを配っていたのです。上級生達はどこからそんな情報を仕入れてきたのかは知りませんけどね。


ただでパンをくれるって言うから、話を聞きつけた学校中の子供衆が挙ってイアンジョに行くわけですよ。イアンジョがどんな場所だなんて私ら下級生は分かりませんでしたけど、上級生たちは分かっていたんじゃないですかね。当然こんなことをやっていたら先生の知るところになって学校で大問題になってしまいましてね。



先生たちは私らのような低学年の衆には怒ってもしょんないと言いますか、あまりイアンジョ云々言いたくない手前もあったのでしょうけど大したお咎めはありませんでした。が、上級生の衆はそれはそれはもうこっぴどくシボられたと聞きました。



終戦を迎えてからもイアンジョはありましたね。私がセイニン(注、成人の意)を迎える前、法律でダメになるって話が出た頃、十八~十九歳でしたからね。その年代と言えば何しろ「サカリ」だったからなぁ(笑)。一軒につき大体五人ほど姐さんがいるんですよ。部屋がこう・・・・・分かれていましてね。



姐さんたちはアッチ行ったりコッチ行ったりしてましたよ。気に入った子がいてもその子が見当たらないんですよ。「あの子どこへ行った?」って聞くと島田の店に行ったよって。島田の「ドウラ(漢字不明)小路」や掛川(注、掛川十九首遊廓と思われる)と掛け持ちしてる子が沢山いましたよ。姐さんたちは忙しそうでしたね。




イアンジョは売春防止法でスパっと寂れちまいました。旅館や飲み屋街になったりはしませんでしたね。






(下記八木氏撮影の写真を見せながら)イアンジョより前の金谷の遊廓?この場所は何処だろうな?新金谷駅辺りだと思うんだけれど、この辺りに遊廓があったのは知りません。イアンジョより古い遊廓を知っているのは九十歳より上の人たちですけど、その年代で普通に話が出来る元気な人はここらにはもういないですよ・・・・・・。 








・・・・・・お店を出た後再び金谷の街を散策。飯盛旅籠やイアンジョ以前の金谷町遊廓の面影を求めるが、数箇所「かほり」のする箇所を探し当てるものの裏付けも確証も無い為、拙記事に記さず。