新潟県胎内市旧中条遊廓(新町遊廓)② | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

 前回の中条遊廓記事から少し間が空いてしまいました。前回の記事はコチラ


以前、当ブログでご紹介した新潟県内の遊廓を一冊に纏めた笹川正榮氏の著書「新潟県遊廓ご案内帖」、中条遊廓の頁も設けられておりました。新潟県遊廓ご案内帖の記事はコチラ



中条遊廓名を記した部分を引用すると・・・・・・「いろは楼」「常盤楼」「カギミシ楼」「大川楼」「大野楼」「広瀬楼」「岡本楼」「富田楼」「歌川楼」「原屋」「ニコニコ楼」他不明、とあります。


また、昭和六年資料で、妓楼は十二軒、娼妓の数は五十一人とある。店は陰店を張っており、娼妓は居稼ぎ制で送り込みはやらなかった。遊興は時間制で、廻しは取らない事になってはいるが内証でとっていたらしい。御定まりといったものは無かったが一時間一円くらいが相場で、お茶にお菓子くらいは通されていた。一泊は二円から三円と他の遊廓より安く遊べた。・・・・と綴られています。








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ウェブ上に中条遊廓のレポートを掲載しているサイトは現存していない模様です。中条遊廓の外観をなぞる手掛かりが笹川氏の著書以外に無いものか胎内市の図書館を調べたところ、お誂え向きの資料を発見致しました。




「おくやまのしょう」と題された旧中条町の郷土研究会機関誌です。昭和五十一年発行。
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須貝熊吉氏に因る「新町夜話 ききがき第一話」、中条遊廓(新町遊廓)の歴史、遊廓に携わって来た方々への聞き込みが綴られております。連載が暫く続くようなニュアンスの締め方をしておりましたが、二回目の連載は十四年後の平成元年。それ以降の連載は確認出来ませんでした。図書館司書の方に因ると、中条遊廓の語り部が中条にいらっしゃるとのこと。しかしながら高齢の為、コンタクトを取るのは難しいそう。
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「おくやまのしょう」に掲載されている中条遊廓の地図。
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下記は私が中条遊廓を散策する前にマーキングした地図。上記地図と見比べて頂きたい。私がマーキングした箇所は、上記地図とほぼ一致します。そして前回、中条遊廓の区画が女性自身の形に似ている、と私がお話したことを思い出して頂きたいのです。
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「おくやまのしょう」の地図によると、「おくまん様(或いは、おぐまん様とも呼ばれる)」と記されたお社を確認することが出来ますね。下記写真は旧遊廓に隣接して鎮座されます「おくまん様」
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「おくまん様」について須貝熊吉氏は、祭神は熊野権現、現在は本町との境の東側にあるが昔はもっと道路側にあった。おくまん様の名称も字もはっきりわからない。この附近一画は神屋敷といって新町創設以前からあったと思われる。・・・・・と述べています。



熊野権現が訛って「おくまん様」へ変化したと私は推測するのですが、女性自身の俗語即ち「まん×」から派生したのではないかとも考えられるのですよ。読者の皆々様、如何でありましょうか?



ここで「まん×」の語源を検索してみました。


①めのこ(女子)が転じて
②万の子を授かる(万子)の意味
③万の幸せ(万幸)
④仏教の世界観である「曼陀羅」の子という意味
⑤陰門・膣口に場所を表す「処」を付けた(○○処)
⑥体の中心を意味する真処(まこ)
⑦「産む子」が転じて
⑧男女が交わって子が生まれることから男女子(おめ×)
⑨徳川家康の側室・お万の方(長勝院)の女性器が素晴らしかったという話から
⑩「アソコ」がカタカナ読みを変換され「マン×」




・・・・・・・上記の幾つかは宗教から派生してる説をとっているのがお分かり頂けると思います。性器信仰と言うのは奇を衒ったトンデモ説の類いではなく、神話や現存する祭りにも受け継がれております。故に「おくまん様」の由来が女性自身にあったとしても何ら不思議ではないのです。
※下記は新潟の奇祭「ほだれ祭り」、巨大な男性自身即ち男根の御神体に初嫁を乗せ、五穀豊穣を祈念するお祭りであります。
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中条遊廓の区画が女性自身に似ているのは偶然なのか、はたまた意図したものなのか、その辺りを詳らかにした資料は残念ながら確認出来ませんでした。





続く