新潟県胎内市旧中条遊廓(新町遊廓)③ | お散歩日記

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路地裏、バラック、長屋、昭和の香りがする飲食街、遊郭赤線跡地、廃墟、古い町並み、山奥・・・・そんな場所を訪れては下手糞な写真を撮っております。

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中条遊廓最終回です。今回は現在の新栄町の写真を掲載して行きましょう。僅かに残る割烹店や飲み屋が往年の面影を匂わせておりました。







前述した中条町の郷土資料「おくやまのしょう」に載っている明治三十五年当時の廓内復元地図。貸座敷の表記とは別に「素人屋」の表記が見えますね。
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当時の新町に於いて一般的な商店は「素人屋」と見下された呼び名をされていたようです。この辺りのくだりが「おくやまのしょう 新町夜話 ききがき第一話(昭和五十一年)」に明らかにされております。執筆者の須貝熊吉氏が、この取材相手を紹介するにあたって、「明治の終わりから大正のはじめにかけて生気溢れる青年期を過ごし、若者の血をかきたてる廓街の真只中にあって自らも若者のリーダーとして多彩な人生体験を重ねて、今尚壮者をしのぐ気力を持っている方である」と些か含みのある説明が添えられています。私が推測するに、この人物は「稼業」の人では?と思うのです。現に別な方への取材に当時の新町は博徒が跋扈していた、との記述がありました。



そのくだりを引用してみましょう。



(以下引用)

あの頃新町の役職は皆貸座敷衆が握っていて、一般商家は素人屋といって小物扱いであった。たしかに財力もすべてのやり方も大したもので二段も三段も上であった。町内には血の気の多い若者が沢山いて遊びに来たよその連中とよく衝突した。

場所はいつも「おくまん様」の境内でまっくらやみの中で華々しくやったものだ。女がからむと互いに気負い立つのは昔も今も同じようだ。朝道路に出てみると必ずどこかの電柱に馬か牛がつながれ放しで腹をすかせてないたり暴れ廻っていた。飼主は昨夜からの流連である。

警察も余りうるさくいわなかったし町の人には俺達が造った道路だという自負心も残っていた。町巾が本町通より広いのは、・・・・・まさか今日の自動車交通のはげしさを予見したなどは・・・・・



(引用ここまで)



・・・・・・この一文のみを参考にしても、「貸座敷」と「素人屋」の力関係、当時の遊廓の様子、更には今日まで続く道幅の広い廓のメインストリートの逸話が伝わると思います。





中条駅から本町通りを抜け、旧遊廓メインストリートへ入ります。
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町名は「新栄町」、嘗ては新町と言う町名。
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この辺りが嘗て「貸座敷」が軒を連ねていた箇所ではないでしょうか。
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僅かに残る割烹屋が往年を物語っていました。
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古い建物も残っていますが、流石に遊廓時代よりもっと新しい時代の建物と思われます。
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古い建物は僅かでした。新しい建物が次々と建っています。こちらは旧廓内にある食堂「角力軒(すもうけん)」、力士の方が開いたお店だそう。コチラで昼食をとも考えたのですが、胎内市を出て食事を済ませました。
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十五年前の笹川正榮氏著書に載っている写真を見ても、既に遊廓を匂わす建物は残っておりませんね。
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しかし先の引用文にあったように、自動車社会の到来を見越して遊廓の道路整備を行ったとしたならば、当時の先導役は相当なやり手だったのではないでしょうか。この辺り一帯は人の住めない湿地帯だったそう。現代のように土木工事機器も発達していなかった時代に開拓するとなると、相応の資金力や政治力も必要となるでしょう。果たして遊廓創設ありきのみで街造りを構想したのでしょうか?どのような人物が音頭をとっていたのでしょうか?
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中条遊廓についてはミステリアスな部分がまだ残っているのですよ・・・・・・。
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終わり